第九部 第二章 第6話
そんな三人の前で、マダム・レティシア――年齢を重ねた彼女は、背筋を伸ばしたまま一歩も引かずに立っていた。
深紫のドレスは白の光を柔らかく受け、金糸の刺繍が淡く反射している。
マントの裾は風もないのに、わずかに揺れ、まるでこの空間そのものが彼女の存在に呼応しているかのようだった。
その表情から、微笑は一切崩れない。
慈しむようでいて、揺るがない。
長い年月を越えて積み重ねられた覚悟だけが、静かにそこに在った。
「それは、そうでしょうね。驚くのも無理はないわ。だって――その記憶を封印したのは、他ならぬ私自身なのだから」
その一言が白い世界に落ちた瞬間、音もなく、しかし確かに空間が沈み込んだ。
目に見えぬ水面に石を投げ入れたかのように、白光が波紋を打ち、ゆっくりと深度を変えていく。
ふわりと漂っていた乳白色の光が、ほんの一瞬だけ陰りを帯びる。
床と呼ぶべきものは存在しないはずなのに、足元に重さが生じ、軋むような圧を感じさせた。
アリスは思わず息を呑んだ。
その耳には、自分の心臓の鼓動だけが異様なほど大きく響いている。
ドクン。
ドクン。
一拍ごとに、全身が内側から震える。
胸の奥が急激に冷え込み、喉が締め付けられ、息を吸うことすら難しくなっていく。
「……え……? 自分で……封印……?」
掠れた声は、喉の奥から無理に絞り出されたようだった。
視界が揺れ、焦点が定まらないまま、それでも必死にマダムを見上げる。
隣に立つ若きレティシアも、即座に反応した。
眉間に深い皺を刻み、片手を胸に当てる。その仕草は、目に見えない痛みに耐えるかのように強張っている。
「そんなこと……私は……自分の記憶を、自分で封じた覚えなんてない。いえ、ないどころか……そんな発想自体、私の中には存在していなかったはずよ。私は……逃げるような選択は、決してしない」
その声には、誇り高い騎士の強さがあった。
同時に、理解が追いつかない現実に直面した者だけが滲ませる、抗いきれない困惑も確かに混じっていた。
マダム・レティシアは、その否定を遮ることなく受け止める。
そして静かに、ほんのわずかに首を振った。
長い睫毛が伏せられ、再び持ち上がるまでの一瞬。
その所作はあまりにも優雅で、重苦しい空気の中にあって、逆に際立つほどだった。
「覚えていなくて当然よ。いいえ……覚えていてはいけなかった、と言うべきかしら」
声は低く、柔らかい。
だが一語一語には、明確な意図と確信が込められている。
「記憶の封印というものはね、自分で行った場合でも――いいえ、だからこそ、自分自身には“封印したという事実”すら残さないように設計されるものなの。痕跡も、違和感も、後悔も……何ひとつ、残さない」
マダムの視線が、アリスと若きレティシアの両方を包み込む。
それは責める目ではなく、試す目でもない。
ただ、すべてを承知した者の眼差しだった。
「特に、私が自分自身に施したものは――万が一に備えた、“絶対封印”。条件を満たさない限り、決して解かれない。思い出そうとすればするほど、空白だけが広がるように組み上げた」
白の空間が、わずかに震える。
光が脈動し、呼吸をするかのように明滅を繰り返す。
「それほどまでに……思い出してはならない未来が、そこにはあったのよ」
その声音は驚くほど穏やかだった。
だが、その穏やかさこそが、逃げ場のない重圧となって、三人の胸の奥へと沈み込んでいく。
白の世界は沈黙を保ったまま、彼女たちを包み続ける。
封じられた記憶の重みだけが、確かにそこに在った。
「若いあなた――つまり、統合前のレティシアには知らせずにいたの。ええ、意図的にね。そのほうが……後に継ぐ誰かが、真実に辿り着いたとき、恐れや使命感に縛られず、偏りなく“選べる”と思ったから」
マダム・レティシアの声は、囁きのように穏やかだった。
しかしその一音一音は、柔らかな布で包まれた鉛のように、確かな重みを伴って三人の胸に落ちてくる。
白の空間は変わらぬはずなのに、どこか息苦しさを帯び始めていた。
光は拡散せず、静止したまま留まり、まるで見えない鎖が三人それぞれの心をゆっくりと絡め取っていくかのようだった。
アリスは、頭の奥で巨大な歯車が無理やり噛み合わされる感覚を覚えていた。
ぎしり、ぎしりと錆びた鉄が軋むような音が、幻聴となって耳の奥で反響する。
胸の内側では、疑念と理解が互いを押しのけながら渦を巻き、整理されぬまま膨張していく。
言葉として形を取る前に、思考が先に溢れ、気づけば声となって零れていた。
「でも……どうして、そこまで……? 自分の最期の記憶まで……自分自身で、封じてしまうなんて。そんなことをすれば……あなた自身が、何を守り、何を失ったのかすら……」
震えを含んだ声は、恐怖からではなかった。
理解しようとする必死さが、言葉の端々に滲んでいた。
レティシアは、口を閉ざしたまま立ち尽くしていた。
視線はただ、目の前に立つ“未来の自分”だけを射抜くように捉えている。
青い瞳が揺れ、呼吸がわずかに乱れる。
肩がかすかに震え、胸の奥で抑えきれない何かが蠢いているのが見て取れた。
恐怖とも怒りとも、あるいは安堵ともつかない感情。
それらが折り重なり、彼女自身ですら整理できない混乱となって、表情に刻まれていた。
無意識のうちに、指先が衣服を強く握りしめる。
爪が布を裂きそうになるほど力が籠もり、それでも彼女は目を逸らさなかった。
一方、はるなは、その重苦しい沈黙に耐えかねたように片眉を上げ、両手を軽く広げて肩をすくめる。
その仕草は場違いに見えるほど軽やかで、しかしどこか必死でもあった。
「うーん……ごめん。正直に言うね。私、全然ついていけてない気がする。情報量が多すぎて、頭が追いつかない」
口元に苦笑めいた影が浮かぶ。
冗談めかした調子を保とうとしながらも、目の奥には戸惑いがはっきりと宿っていた。
「だってさ、私はレティシアじゃないし、記憶も統合されてない。ただの“前々世”でしょ。それなのに……“私”が二人いるって、どういう構図なの? しかも片方は未来で、もう片方は過去で……その間に今のアリスがいるって……」
素朴すぎる疑問が、不意に投げかけられる。
だがその率直さは、この白い世界に張り詰めていた緊張を壊すどころか、逆に輪郭を与えた。
三人の立つ位置関係。
過去と現在と未来。
そして、そのすべてを見渡す者。
白の空間は、沈黙のままそれを受け止めていた。
マダムは、改めて三人を順に見渡した。
白の空間に満ちる光は先ほどまでの均質さを失い、彼女の視線の動きに合わせるように、足元から波紋のような揺らぎを生じさせている。
床とも壁とも判別できぬ乳白色の層が、呼吸する生き物のように微かに明滅し、その中心に立つマダムの輪郭だけが、異様なほどに確かな実在感を帯びていた。
その眼差しは穏やかでありながら、逃げ場を与えない確かさを宿している。
責めるでも、試すでもない。
ただ「ここに至った以上、向き合うしかない」という現実だけを、静かに突きつける視線だった。
「だからこそ、私は多くを語れなかったし、語らなかったの」
声は低く、柔らかい。
だが一音一音が、長い歳月を沈殿させた重みを帯び、白の空間にゆっくりと染み込んでいく。
「――自分自身に対してさえ、ね」
その一言で、空間の光がわずかに沈んだ。
まるで“内側へ折り畳まれる”ように、白の輝きが深度を持ち、三人の足元に淡い影を落とす。
「知っている者が語れば、必ずそこに“意図”が生まれるわ。たとえ善意でも、たとえ正義でも……それは、後に選ぶ者の判断を、知らず知らずのうちに縛ってしまう」
言葉の合間ごとに、白い光の粒子がゆっくりと波打ち、三人の足首を撫でるように流れていく。
それは慰めでも警告でもなく、ただ事実としての“重さ”を可視化する現象だった。
「未来を知った者の言葉は、いつだって強すぎるのよ。選択肢を示すつもりでも……結果として、“選ばせない”ことになってしまう」
そこで、マダムは一度だけ息を置いた。
長く吐き出されたその呼気に合わせ、白の空間が深く、低く脈動する。
「だから私は封じたの」
その声音は変わらない。
だが、次の言葉には明確な線引きがあった。
「封じたのは、結末そのものじゃない。出来事を消したわけでも、未来を隠したわけでもない」
アリスの胸が、微かに跳ねる。
その言葉を、逃すまいとするように。
「――そこに至る理由。恐れ。迷い。後悔。選択を“不可能”にしてしまう記憶を、私は切り離したの」
白の空間が、ふっと応じるように揺れた。
足元の光が一瞬だけ強く明滅し、床とも壁ともつかぬ光層が、深い呼吸を打つかのように軋む。
「若い私には知らせずに。統合前のレティシアにも、そして……未来の私自身にも」
マダムの視線が、レティシア、アリス、はるなの順に、ゆっくりと移ろう。
「誰かが真実に辿り着いたとき、偏りなく選べるようにするために。知識ではなく、意思で。義務ではなく、覚悟で」
その言葉は断定だった。
迷いも、逡巡もない。
「だから封じたのよ。結末も、理由も、恐れも……“そのとき”が来るまで、誰にも。何より、自分自身にも触れさせないために」
静寂が、落ちた。
白の世界は音を失い、時間すら引き延ばされたかのように感じられる。
それは突然の転換ではなかった。
ここに至るまで、積み重ねられてきた無数の選択と沈黙が、必然として収束した地点だった。
「アリス」
その名を呼ぶ声は、驚くほど穏やかだった。
「あなたが今、この場所に立っているという事実そのものが――すでに“そのとき”が始まった証なの」
柔らかな声だった。
だがその響きは、白の空間の奥底へと沈み込み、逃れようのない確信として、三人の胸に深く刻み込まれていく。
光は揺れ続けている。
だがもう、それはただの静寂ではなかった。
選択が、始まろうとしていた。




