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第八部 第一章 第14話

 学院本館から講師棟へと続く回廊を歩きながら、レティアは胸に抱えた依頼状を何度も確かめるように指先でそっと撫でていた。

 羊皮紙越しに伝わるわずかな凹凸と、封蝋の硬さ。その感触が掌に触れるたび、学院生会の総意と自分の責任が、ずしりと重みを持って胸に落ちてくる。


 歩調は揃えているつもりなのに、気持ちだけが先へ先へと逸っていく。

 そんな様子を隣から眺めていたアリスが、ふっと小さく笑った。


「大丈夫だって。ここまでちゃんと段取り通りに進んだんだから。あとは届けるだけだよ」


 肩の力を抜かせるような、いつもの軽い口調。

 それでもレティアは、依頼状を抱えたまま小さく肩をすくめる。


「う、うん……分かってるけど……やっぱり緊張するの。これ、私が預かってるって思うと……」


「ほら、背筋伸ばして」


 アリスは立ち止まることなく、軽くレティアの背中をぽんと押した。


「胸張って行く。今のレティアは、ちゃんと学院生会の代表なんだから」


「……っ」


 その一言に、レティアははっと息を詰め、すぐに小さく息を整える。

 肩を引き、背筋を伸ばし、胸の奥で鼓動が落ち着くのを待つ。


「……うん」


 短くそう答え、歩幅を揃え直した。


 やがて二人は、講師棟の奥にある一室――クラリス・ノーザレインの執務室の前に辿り着く。

 落ち着いた木製の扉。そこに手を伸ばし、レティアが軽くノックをした。


「どうぞ」


 中から返ってきたのは、静かで落ち着いた声だった。


 扉を開けると、室内には整然とした空気が満ちている。

 書き物机に向かい、資料を仕分けていたクラリスが顔を上げ、細縁眼鏡の奥の灰青の瞳を二人へ向けた。


「おや……お二人そろって。何かありましたか?」


 柔らかな問いかけに、レティアは一瞬だけ息を詰め、すぐに姿勢を正す。

 胸に抱えた依頼状を両手で持ち直し、一歩前へ進み出た。


「クラリスさん……こちら、学院生会からの正式な依頼状です。どうか、フィオナ殿下へお取り次ぎをお願いできますか」


 声はわずかに震えていたが、言葉ははっきりと届いていた。


 クラリスは静かに立ち上がり、差し出された依頼状を両手で受け取る。

 封蝋の状態、刻印の形を一つひとつ丁寧に確かめ、やがて小さく頷いた。


「確かにお預かりしました」


 そのまま視線を上げ、落ち着いた声で続ける。


「学院生会からの正式な依頼ですね。……私から責任をもって、殿下へお届けいたします」


「ありがとうございます……!」


 レティアは思わず大きく息を吐き、深々と頭を下げた。

 胸に溜め込んでいた緊張が、ようやく少しほどける。


 その横でアリスが腕を組み、満足そうに笑う。


「これで正式に進んだね。やっぱりクラリスは頼りになる」


「ふふ……そう言ってもらえると嬉しいですね」


 クラリスは穏やかに笑みを返しつつ、依頼状を胸元に抱え直した。


「殿下もきっと喜ばれるでしょう。……本当によく動かれましたね、レティアさん」


 その言葉に、レティアの胸の奥にまた新しい力が灯る。

 彼女はこくりと、力強く頷いた。


 クラリスは依頼状を一度机の上に置き、羽根ペンを脇へ片付ける。

 そして懐から、小型の魔導通信具を取り出した。


 掌に収まるほどの水晶板。

 淡い光が灯ると同時に、室内の空気がわずかに揺れ、微かな魔力の流れが走る。


「――フィオナ殿下、クラリスでございます」


 落ち着いた呼びかけに応じるように、水晶板の表面が波打ち、淡い映像が浮かび上がった。

 そこに現れたのは、気品ある微笑をたたえたフィオナの姿だった。


『どうしましたの、クラリスさん?』


「ただいま学院生会より、正式な依頼状をお預かりいたしました」


 クラリスは依頼状に手を添え、淡々と告げる。


「舞踏祭開会式における“学院生代表挨拶”についてでございます」


 フィオナはわずかに目を瞬かせ、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


『まあ……そうですのね。受けてよろしいと、すでにお伝えした件ですわね?』


「はい。学院生会の意向も、改めて文書として整えられました」


 そう言って、クラリスは依頼状を軽く掲げ、映像越しに示す。

 封蝋に刻まれた学院生会の印章が、淡い光を反射してきらりと輝いた。


 フィオナは満足げに頷き、端正な微笑を崩さぬまま告げる。


『分かりましたわ。――その旨、こちらでも正式に受理いたします。学院生会の皆さまへ、どうぞよろしくお伝えくださいませ』


 依頼状を示されたのを確認すると、フィオナはさらに声を和らげた。


『では……早速、返信状をしたためますわ。……明日でもよろしいかしら?』


 その一言に、クラリスは思わずレティアへと視線を流す。


 緊張で固まっていたレティアは、はっとして大きく首を横に振った。

 頬を真っ赤に染め、必死な表情で「今すぐお願いします!」と無言で訴える。


 その様子に、クラリスは小さく苦笑し、肩をすくめてからフィオナへ向き直った。


「――はい。よろしくお願いいたします」


 フィオナはそのやり取りを察したのか、くすりと笑みをこぼした。


『承知しましたわ。それでは、また後ほど』


 優雅に片手を掲げると同時に、水晶板の光がふっと消える。

 映像は霧散し、通信は静かに途切れた。


 室内には、魔力の残滓がゆっくりと消えていく気配と――

 そして、レティアの小さな、けれど確かな安堵の吐息だけが残されていた。


 翌日――。


 学院生会室に、朝の光が差し込む頃。

 分厚い木扉の外から、控えめなノックの音が響いた。


 扉が開かれ、庶務担当のエリナが一通の書状を両手で抱えて入ってくる。

 上質な羊皮紙を包む封筒には、見慣れぬ精緻な紋章印。室内にいた全員が、瞬時にそれを察した。


 ミラージュ王国――。


 「……届きました」


 エリナの声は、いつもより少しだけ硬かった。

 その手からユリウスへと慎重に渡された書状は、重さ以上の緊張をまとっている。


 ユリウスが封蝋を割る音が、静まり返った学院生会室に小さく響いた。

 羊皮紙を開き、端正な筆致で綴られた文面に目を走らせる。


 ――学院舞踏祭開会式における「学院生代表」としての挨拶を、確かに引き受ける。


 その一文を読み終えた瞬間、ユリウスはわずかに息を吐いた。


 「……受諾、だな」


 その言葉を皮切りに、室内の空気が一気に緩む。

 エリナは胸の前で手を組み、ミーナは思わず目を伏せて安堵の息を吐いた。

 レティアもまた、強張っていた肩をゆっくりと下ろす。


 「よかった……」


 小さな呟きが、誰のものとも分からないまま零れ落ちた。


 こうして、学院舞踏祭開会式における挨拶と席次は、すべて正式に決定した。

 だが同時に――。


 ユリウスは机上に重ねられたもう一通の文書へ視線を移す。

 そこに記されていたのは、王立魔導学院本体からの通達だった。


 「――『ティアナ公女殿下ならびにフィオナ第三王女殿下が、当日のその場に出席していることは一切外部に漏らしてはならない』」


 低く読み上げられた言葉が、室内の空気を再び引き締める。


 続けて、ユリウスは式次控えを示した。


 「そのため、式典の公式次第はこうなる」


 紙面に記された文言を、指先でなぞる。


 「ティアナ殿下については『ファーレンナイト王国第三騎士団・独立師団代表者』。団長名は記載しない。あくまで肩書のみだ」


 そして、もう一方。


 「フィオナ殿下は『学院生代表』としてのみ名を記す。王女という肩書きは一切表に出さない」


 リヒトが懐中時計を閉じながら、静かに頷いた。


 「表向きは極めて無難。だが実際には――両国の王女が並んで壇上に立つ。学院としては、これ以上ない“顔”になるな」


 「……危うさもある構成だ」


 ユリウスが静かに続ける。


 「だが、この形なら外部に流れる情報は最小限に抑えられる。問題は、当日までこの事実を完全に秘匿できるかどうかだ」


 その言葉に、学院生会室の空気がぴんと張り詰めた。


 レティアは一歩前へ進み出る。

 背筋を伸ばし、胸の前で両手をきつく握りしめた。


 「……分かっています」


 声は落ち着いていたが、胸の内では心臓が早鐘のように打っている。


 「絶対に口外しません。ここで情報が漏れれば、これまで積み重ねてきた努力が、全部無駄になってしまいます」


 仲間たちの視線が、真っ直ぐに彼女へ注がれる。

 緊張と責任の重さに押されながらも、レティアの瞳には確かな決意が宿っていた。


 「……大丈夫です。必ず、守り抜きます」


 その言葉に、ユリウスは短く、しかしはっきりと頷く。


 「信じよう」


 リヒトもまた、静かに肯いた。


 「この件は、学院生会内部でも最小限の共有に留める。――全員、覚悟はいいな」


 「はい」


 「了解しました」


 短く重ねられる返答。

 学院生会室には、再びひとつの強い結束が生まれていた。


 こうして――。

 表向きには無難に整えられながら、実際には両国の王女が並び立つという、王立魔導学院史に残るであろう舞踏祭開会式の姿が、静かに、しかし確実に形を成し始めていた。

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