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第八部 第二章 第1話

 学院舞踏祭の初日――開会式の朝。


 王立魔導学院の中庭は、いつもとはまるで別の場所のような表情を見せていた。

 白布を張った特設の式典会場が中央に設けられ、来賓用の長机と椅子が几帳面に並べられている。金糸の縁取りが施された布飾りが風に揺れ、各国の旗章をあしらった旗が、朝の澄んだ陽光を受けてきらきらと輝いていた。

 石畳に反射する光までがどこか柔らかく、普段は学び舎として静謐な空気を保つ学院が、この日ばかりは華やかな式典の舞台へと変貌している。


 その舞台裏では、学院生会役員たちが息つく暇もなく動き回っていた。

 席次表を抱えて駆け足で移動する者、音響用の魔導装置を最終確認する者、照明の魔力配分を微調整する者――誰もが緊張と高揚を胸に抱え、それぞれの持ち場で必死に役目を果たしている。


 「――全員、持ち場につけ!」


 会長ユリウス=ノイエラントの低く鋭い声が、舞台裏に張り巡らされた空気を一刀で切り裂いた。

 その眼差しには一点の曇りもなく、役員たちは即座に背筋を正す。


 「了解!」


 揃った返答が響き、場の緊張は一段階引き締まった。


 副会長リヒト=クロイツベルクは、懐中時計を手にしたまま、淡々と進行表を読み上げる。


 「残り十五分だ。……来賓の入場順を再確認する。学院代表の登壇が第三項目、その直後に“ティアナ騎士団代表”の挨拶が入る。間隔は二十秒、拍手誘導は控えめに」


 庶務のエリナ=フォルセティと書記のミーナ=アルベルティは、顔を見合わせながら静かに頷いた。


 「……本当に、当日まで誰にも漏れませんでしたね」


 エリナが小声で呟くと、ミーナも同じように息を吐く。


 「うん……ずっと張り詰めてたから。正直、まだ夢みたい」


 その会話を耳にしながら、レティアは胸の奥で大きく息を吸い込んだ。


 (いよいよ……今日、この瞬間なんだ)


 彼女の手には、式典用の控え書きが握られている。

 内容はすでに何度も確認し、暗記してしまうほどだった。それでも指先は自然と強く紙を掴み、掌にはじんわりと汗が滲んでいた。


 ――その時。


 舞台裏の一角に、周囲とは少し異なる、落ち着いた足音が近づいてくる。


 レティアが振り返ると、そこにはアリスの姿があった。

 慌ただしい空気の中でも変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、軽く片手を挙げる。


 「お待たせ。……準備は整ってる?」


 その一言だけで、レティアの強張っていた胸が、ほんの少しだけ緩んだ。


 舞台裏のざわめきに紛れるように、アリスは人目を避けてレティアの傍に寄り、小声で囁く。


 「……レティア、ちょっと会長と三人で話したいことがあるの。来賓二人の件でね」


 その声音に含まれた微妙な緊張を感じ取り、レティアはごくりと喉を鳴らした。


 「……! わ、わかった」


 急ぎ足でユリウスのもとへ向かうと、ほどなくして会長自身が姿を現した。

 冷徹な眼差しを保ったまま、短く顎で示す。


 無言の合図に従い、三人は舞台裏のさらに奥、簡易的に仕切られた別室へと入った。


 ――密やかな空間。

 扉が閉じられ、外の喧騒が遮断されると、アリスは一拍置いてから静かに口を開く。


 「……実は、来賓のお二人の件で、事前にどうしても伝えておかないといけないことがあるんです」


 数分後。


 その内容を聞き終えた瞬間、ユリウスとレティアの表情は、まるで凍り付いたかのように固まった。


 「……なっ……!」


 「そ、そんな……本当なの……?」


 ユリウスは額に手を当て、苛立ちと困惑を押し殺すように短く頭を掻く。


 「……つまり、それが“クライアントの要求”というわけか?」


 「ええ」


 アリスの返答は、驚くほどあっさりとしていた。


 ユリウスは大きく息を吐くと、即座に扉を開け、舞台裏に向かって号令を放つ。


 「――学院生会役員、全員、至急集まれ!」


 慌てて集められたメンバーたちは、会長から秘密裏に事情を説明されるや否や、一斉に目を見開いた。


 「えぇっ……!?」


 「まさか、そんな……!」


 「これ、本当に現実なの……?」


 驚愕と動揺の声が飛び交い、緊張の波が一気に広がっていく。


 ユリウスは机を強く叩き、その場を制した。


 「……この件は、さすがに学院長に通さざるを得ない。私が直ちにアポイントを取る。各自、準備を進めておけ!」


 その言葉を合図に、役員たちは一斉に動き出した。

 式次修正案、想定問答、警備体制の再確認――次々と新たな課題が浮かび上がり、場は急速に騒然となっていく。


 「ど、どうしよう……!」


 「もう時間がないのに……!」


 エリナやミーナまでもが、焦りを隠しきれず声を上げる。


 そんな光景の中で――。


 アリスだけは、いつの間にか椅子に腰掛け、のんびりとお茶を口にしていた。


 「ん~……なんとかなるって」


 あまりにも気の抜けた声音に、レティアは思わず彼女を見つめる。


 (……アリスって、どうしてこんなに肝が据わってるんだろう……)


 不安に押し潰されそうな自分と、嵐の中心でも平然としている親友の姿。

 その対比に、レティアは気づかぬうちに、ほんの少しの羨望を胸に滲ませていた。


 開会式を目前に控え、学院中庭の裏手に設けられた待機区画には、三十名から成る警備班が整然と整列していた。

 石畳の上に引かれた白線に沿って隊列は正確に揃えられ、各自が身に着けた簡易防護具や符術具が、朝の光を受けて静かに反射している。

 空気は張り詰め、遠く式典会場から聞こえる準備音さえ、ここでは一段と小さく感じられた。


 その最前列に立つのは、今回の警備班長を任されたアリス=グレイスラーだった。

 金の髪を後ろでまとめ、学院制服の上から軽装の警備用外套を羽織っている。涼やかな風がその髪先を揺らし、蒼銀の光を帯びた蒼い瞳が、整列する全員を一人ひとり確かめるように見渡した。


「――これより、舞踏祭開会式の警備任務を開始します!」


 張りのある声が待機区画に響き渡り、整列していた学院生たちの背筋が一斉に伸びる。

 誰一人として視線を逸らさず、アリスの言葉を正面から受け止めていた。


「今回の警備は、学院の威信にかかわる重大任務です。式典そのものを妨害させるわけにはいきません。私たちは、学院生として、そして守る者としての責任を果たさなくてはならない」


 一呼吸置き、アリスは視線をゆっくりと巡らせる。

 その眼差しには気負いはなく、しかし確かな覚悟が宿っていた。


「まず――風行委員会の皆さん」


 名を呼ばれた数名が、同時に小さく一歩前へと意識を向ける。


「式場外周の巡回と、入口付近の警戒をお願いします。入退場者の確認は厳格に。ただし、来賓に対しては失礼のないよう、言葉遣いと態度には最大限の配慮を」


 力強い頷きが返されるのを確認し、アリスは続けて視線を移した。


「次に、実習Ⅰ・第十五班」


 呼吸を整えるような間を挟み、個別の名を告げていく。


「ミレーネ=フォルトナーさん。あなたには治癒と結界の支援を。軽傷はその場で対応、魔力疲労や異常兆候が出た場合は、即時に私へ報告してください」


「はい、任せてください」


 穏やかな声で応じるミレーネの表情には、場数を踏んだ支援術士ならではの落ち着いた自信があった。


「ラース=エルヴァンさん」


 呼ばれた瞬間、空気がわずかに引き締まる。


「突発的な乱入者、あるいは実力行使を仕掛けてくる相手への即応を担当してください。無理はせず、しかし躊躇もしない。あなたの判断を信頼しています」


「了解だ」


 ラースは低く短く応じる。鋭い眼光が一瞬だけ走り、その気配に周囲の緊張感がさらに高まった。


「ザック=ミルドレイさん」


「承知しました」


「解析と観測を担当してください。罠、異常な魔力反応、術式干渉の兆候があれば、即座に共有を」


 眼鏡の奥の瞳が静かに光り、ザックはすでに周囲の魔力の流れを読み取るように意識を広げていた。


 さらにアリスは、隣の列に並ぶ別班へと視線を送る。


「レティア班の皆さん」


 名を呼ばれた三人が、自然と背筋を正す。


「イリーナ=カレストさん、ヴィクトール=グランハルトさん、リゼット=フローレンスさん。あなたたちには、式典会場内側の結界補助と魔術障壁の管理をお願いします。外周と内側、両面からの防御が最優先です」


「了解!」


 イリーナが快活に答え、瞳をきらりと輝かせる。


「心得ました」


 ヴィクトールは重々しく頷き、その声には確かな責任感が滲んでいた。


「異常を感知したら、すぐに知らせます」


 リゼットの声は小さいが、揺るぎない集中力と信頼を感じさせる。


 全員の応答を聞き終えると、アリスは一度だけ深く息を吸い込み、きっぱりと告げた。


「それぞれの役割を果たし、絶対に式典を守り抜きましょう!――以上、解散!」


 一糸乱れぬ動作で敬礼が揃い、三十名の警備班はそれぞれの持ち場へと散っていった。

 足音はきびきびとして迷いがなく、その背中には任務を背負う者としての自覚がはっきりと表れている。


 その様子を見送りながら、アリスは静かに拳を握りしめた。

 胸の奥で高鳴る緊張を、確かな決意へと変えながら。


 アリスの号令とともに、三十名の警備班は、それぞれの戦場へと動き出していた。


 まず、風行委員会の面々が、合図とともに式場の外周へと散っていく。

 中庭を囲む回廊と植え込みの境、来場者動線の合流点、死角になりやすい柱の陰――事前に割り当てられた持ち場へ、それぞれが迷いなく向かった。


 正門付近では、二名が左右に分かれて立ち、来場者の列を整えながら確認を行っている。

 制服の袖口に縫い込まれた識別符が淡く光り、招待状と来場者の魔力反応を同時に照合していた。


「はい、ありがとうございます。――確認できました。どうぞ、式場内へお進みください」


 穏やかで丁寧な声色。

 しかしその視線は柔らかさの裏で鋭く、歩き方、視線の動き、手元の癖までを逃さず追っている。

 列の流れを止めることなく捌きながら、不審な挙動があれば即座に合図を送れる体勢だった。


 別の委員たちは外周巡回に回り、柵の固定具、臨時設営の幕、出入り口周辺の足元まで、一つひとつ目と手で確認していく。

 石畳を踏む足音は軽く、しかし一定の間隔を保ち、警戒の網が途切れないよう計算されていた。


 中庭東側――来賓席の裏手に位置する警戒区域には、実習Ⅰ・第十五班が配置についていた。

 視線を遮る背の高い装飾幕と、控え用の簡易通路。その両方を抑える要所だ。


 ミレーネは足元に小さな術式円を展開し、薄く幾重にも結界を重ねていく。

 結界は防御だけでなく、内部にいる者の魔力循環を整える補助機能も兼ねていた。


「この配置なら、魔力消費を抑えながら長時間維持できます。無理はしないでくださいね」


 穏やかな声に、周囲の表情がわずかに緩む。

 張り詰めていた肩から力が抜け、呼吸が自然と整っていくのが分かった。


 ラースは剣を抜かず、あえて腰に下げたまま、広い歩幅で巡回路を歩く。

 意識的に足音を響かせ、姿を隠さない。


「来るなら来い。ここは通さねぇ」


 低く呟くその声音と鋭い眼光に、通りがかった下級生が思わず背筋を正し、足早にその場を離れていった。

 存在そのものが牽制となり、余計な好奇心を近づけさせない。


 一方、ザックは壁際に腰を下ろし、携帯式の解析魔法陣を静かに展開していた。

 淡い光の線が空中に走り、式場全体を覆う魔力の流れを立体的に可視化していく。


「……今のところ、乱れはなし。微細な干渉でもあれば、すぐ検知できる」


 冷静に呟きながら、指先で符号を書き足し、演算を更新し続けていた。


 会場内側――壇上と来賓席を結ぶ空間の結界補助を任されたのは、レティアの実習メンバーだった。

 外周とは違い、華やかな装飾と人の密度が高い場所。わずかな揺らぎも見逃せない。


 イリーナは理論式を口の中でなぞるように詠唱し、基盤術式を微調整していく。

 結界の数値が安定域へ収束するのを確認し、軽く拳を握った。


「……理論値にほぼ一致。これで問題なし!」


 小気味よい声とともに、仲間へ手振りで合図を送る。


 ヴィクトールは会場内を歩測し、視線と足取りで空間構造を再確認していた。

 来賓席から壇上までの導線、非常時の退避経路、結界線の重なり具合――すべてを頭の中で組み直す。


「結界線に異常なし。導線も確保できている。……この配置なら対応可能だ」


 落ち着いた報告に、周囲の空気がわずかに和らいだ。


 リゼットは静かに目を閉じ、感知魔術を最大限まで研ぎ澄ませていた。

 人の気配、魔力の揺らぎ、微細な生命反応まで、淡々と拾い上げていく。


「……小動物が一匹、中庭を横切りました。猫のようです。魔力反応は自然由来のみ、問題ありません」


 抑揚の少ない報告だが、その正確さと迅速さは、仲間全員が信頼していた。


 こうして、それぞれの班が配置につき、警備網は少しずつ、しかし確実に形を成していく。

 会場を包む空気は張り詰めたままだが、そこには不安ではなく、連携によって生まれた緊張感があった。


 中心位置から全体を見渡すアリスは、その様子を一つひとつ確認し、小さく頷く。

 胸の奥で、確信に近い感覚が静かに広がっていった。


 (――これなら大丈夫。全員、役割を理解して動いている。……必ず、この舞踏祭の幕を守り抜く)


 視線を前に戻し、アリスは静かに気を引き締めた。

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