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第八部 第一章 第12話

 水晶板の淡い光が、室内の壁や机の縁を柔らかく照らす中で、フィオナの表情はひときわ穏やかなものへと変わっていた。

 先ほどまでの公的な緊張感はすでに薄れ、そこにあるのは学院で過ごした日々を思い出すような、親しみを含んだ空気だった。


『学院生である以上、学院生会からのご依頼を無下にはできませんし……』


 そう前置きしながら、フィオナは小さく微笑む。

 その声音は端正で落ち着いていながらも、どこか温度を帯びていた。


『なにより――ご友人からのお願いですもの。改めまして、その依頼、お受けいたしますわ』


 はっきりと告げられた言葉に、レティアの胸の奥で、きゅっと締めつけられていたものがほどけていく。

 息を吸い損ねたように一瞬言葉を失い、それからようやく声が出た。


「……あ、ありがとうございます……!」


 だが、フィオナはそこで少しだけ視線を伏せ、長い睫毛の影を落とした。

 次の瞬間、その瞳にいたずらっぽい光が宿る。


『実は……舞踏祭の期間中は、無理をしてでも学院に戻ろうと思っておりましたの』


 どこか楽しげに言い添えられたその言葉に、場の空気がふっと緩む。


「えっ……フィオナ、本当に?」


 レティアの声は弾み、驚きと喜びが入り混じって思わず一歩前に出ていた。


『ええ。でも――そうですわね』


 フィオナは肩をすくめるような仕草を見せ、少しだけ首を傾げる。


『それなら……ご褒美がほしいですわ』


 その一言に、レティアはきょとんと目を瞬かせる。


「ご、ご褒美……?」


 意味を測りかねるように首を傾げると、フィオナの視線が、すっと横へ流れた。


『そこに、アリスさんもいらっしゃるのでしょう?』


 その言葉に、レティアははっとして振り返る。


「……あ」


 タイミングを計ったかのように、アリスが苦笑しながら一歩前に出て、水晶板に映る位置へと身を寄せた。


「はいはい、ちゃんといますよ」


 肩をすくめつつ、どこか照れを含んだ笑みで続ける。


「――久しぶり、フィオナ殿下」


 その呼び方に、フィオナの表情がぱっと明るくなった。


『まあ……! 本当にお久しぶりですわね、アリスさん!』


 画面いっぱいに広がる柔らかな笑顔。

 だが、次の瞬間、わずかに口を尖らせる。


『……アリスさんも、“殿下”とお呼びになるのですか?』


「ふふっ、わざとです」


 アリスは悪びれもせずに答え、からかうように笑った。


 その様子に、フィオナは一瞬きょとんとしたあと、すぐに声を立てて笑う。


『もう……そういうところ、全然変わりませんわね』


 そして、ふっと表情を引き締めると、楽しげな響きを含ませたまま言い放った。


『では、ご褒美ですが――学院舞踏祭で、アリスさんと一曲、踊りたいですわ』


「え、えぇぇぇっ!?」


 思わず裏返った声が室内に響き、アリスは目を丸くする。


『まあ……嫌なのかしら?』


 フィオナはわざとらしく肩をすくめ、冗談めかして続けた。


『それでしたら、このお話はなかったことに――』


「ちょ、ちょっと待って! そんな脅し方あります!?」


 慌てて割り込むアリスに、フィオナは口元を押さえて楽しげに微笑む。


「……もう、分かりましたよ」


 深く息をつき、肩を落としながらも、どこか照れくさそうに続ける。


「踊りますから。一曲でも二曲でも……好きにしてください!」


『ふふっ……やはり、アリスさんはお優しいですわね』


 フィオナの瞳がきらりと輝く。

 王女としての気品をまといながらも、その笑顔は紛れもなく無邪気な少女のものだった。


『舞踏祭の日を、楽しみにしておりますわ。――それはご褒美としても、そして私自身の願いとしても』


「まったく……本当に、振り回されるのは慣れてますけどね」


 アリスは頬をかきながら苦笑する。


 その横で、レティアは思わず小さく息を呑んだ。


「……すごい……」


 友人同士のやり取りに目を丸くしつつも、胸の奥には確かな手応えが残っていた。


 やがてレティアは胸の前で両手を重ね、姿勢を正して水晶板の向こうをまっすぐに見据える。


「では……改めまして、学院生会より正式な依頼状をお送りいたします」


『ええ。楽しみにしておりますわ』


 フィオナは穏やかに頷き、柔らかな微笑みを返した。

 その落ち着いた態度に、レティアの胸に残っていた緊張は、ようやく静かに溶けていった。


 けれど次の瞬間、レティアの瞳に、かすかな迷いの色が戻った。

 胸の前で組んでいた指先がきゅっと強く絡み合い、彼女は小さく唇を噛みしめる。達成感に満ちていた心に、もう一段深い責任の重さが静かにのしかかってきたのだ。


 水晶板に映るフィオナの穏やかな姿を見つめながら、レティアはためらうように口を開いた。


「……あの、それと……殿下。いえ、フィオナ。少し、ご相談があるのです」


 声は丁寧だったが、わずかに揺れていた。


『ご相談?』


 フィオナは小首を傾げ、興味深そうにレティアを見つめ返す。

 その声音には余裕があり、相手の言葉を急かす気配は微塵もない。学院時代の友人としての柔らかさと、王族としての落ち着きが自然に溶け合っていた。


 その横で、アリスがちらりとレティアへ視線を向ける。

 何も言わず、ただ静かに頷く仕草。


 ――大丈夫。落ち着いて言えばいい。


 その無言の励ましに背中を押されるように、レティアは一度深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


 胸の奥で何度も反芻してきた「次の言葉」を、ついに口にする。


「実は……開会式での挨拶について、もう一人、お願いできないかと考えている方がいるのです」


『もう一人?』


 フィオナの眉がわずかに動く。

 驚きというよりも、純粋な関心を示す響きだった。


 レティアは言葉を選びながら、慎重に続ける。


「……ファーレンナイト王国のティアナ公女殿下には、ティアナ騎士団長として、すでに開会式のご挨拶をお願いしてあります。ですが――」


 一瞬、言葉が喉に詰まり、頬が熱を帯びる。


「フィオナ様はミラージュ王国第三王女で……その……挨拶の順や席順、扱いを、どう考えるべきか……学院生会として、判断に迷ってしまって……」


 要領を得ない説明だと自覚しているのだろう。

 レティアの視線が、わずかに揺れた。


 その瞬間だった。


「心配には及びませんわ」


 水晶板の向こうで、フィオナの声音がはっきりと響いた。


 先ほどまでの柔らかさはそのままに、しかし芯の通った、凛とした響き。

 端正な顔立ちが引き締まり、灰紫の瞳に揺るぎない光が宿る。


「わたくしの今回の立場は――“学院四年生として在学しているフィオナ・ミラージュ”です」


 一語一語が、迷いなく置かれていく。


「確かに、紹介の際に“第三王女殿下”と添えられることはあるでしょう。ですが、学院の式典において、学院代表と王国来賓、そのどちらが主となるかは……明らかですわね?」


 声色が一段だけ強まり、言葉に揺るぎない自信が宿る。


「わたくしは、その立場も、序列も、すべて承知のうえでお受けしています。ミラージュやファーレンナイトの外交官ごときに、余計な口出しなどさせませんわ」


 きっぱりとした宣言。

 王女としての誇りと、学院生としての矜持が、静かに重なっていた。


 その言葉に、レティアの胸がじんと熱を帯びる。


 思わず前のめりに身を寄せ、潤んだ瞳のまま、素直な感情を吐き出した。


「……ありがとう、フィオナ……!」


 隣から、軽やかな声が重なる。


「ほらね。頼もしいでしょ?」


 アリスがにかっと笑いながら、レティアの肩を軽く叩いた。


 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。


 フィオナもまた小さく笑みを返し、水晶越しに視線を細めた。


「アリスさんまで……」


 少しだけ照れたように、けれど誇らしげに続ける。


「でも、本当にそう思っていただけるのなら……嬉しいですわ」


 レティアは二人のやり取りを見つめながら、胸の奥に広がる確かな安心感を噛みしめていた。


 やがてフィオナは、わずかに姿勢を正し、静かに言葉を結ぶ。


「――では、正式な依頼状を楽しみにしておりますわ」


 その微笑みには、学院生としての気安さと、王女としての気高さが自然に同居していた。


 レティアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、力強く頷く。


 その横で、クラリスが一歩前に出て、場を整えるように穏やかな口調で告げた。


「では、依頼状が届き次第、私から殿下へ正式にお取り次ぎいたします。……それでよろしいですね?」


「ええ、お願いします」


 フィオナは柔らかく頷き、最後にもう一度、穏やかな笑みを浮かべた。


 次の瞬間、水晶板の光がゆっくりと揺らぎ、映像は淡く霧散していく。


 室内に残ったのは、張り詰めていた緊張がほどけたあとの、静かな達成感と安堵の空気だった。


 室内に残されたのは、レティア、アリス、そしてクラリスの三人だけだった。

 水晶板の淡い残光が完全に消え、先ほどまで張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていく。厚手のカーテン越しに差し込む午後の光が、静かな室内をやわらかく照らしていた。


「……ふぅ……」


 レティアは胸いっぱいに溜め込んでいた息を、思い切り吐き出した。

 がくりと肩が落ち、背筋を支えていた力が一気に抜ける。膝がかくんと揺れ、今にも座り込んでしまいそうになるほどだった。


 その様子を見て、アリスはにかっと笑い、いつもの軽口を飛ばす。


「ほらね。思ったよりちゃんと進んだでしょ? レティアの心臓、まだ無事?」


「む、無事じゃないよ……! さっきまでずっと爆発するかと思ってたんだから……!」


 レティアは頬を赤らめながら抗議する。

 胸の前で両手をばたばたと振る仕草は必死そのものだが、どこか可笑しみがあり、張り詰めていた緊張が笑いに変わりつつあるのが分かる。


 クラリスは二人のやり取りを静かに眺め、眼鏡の奥でそっと目を細めた。


「緊張して当然ですよ。ですが、ちゃんと自分の言葉で伝えられた。……大したものです」


 その穏やかな評価に、レティアは思わずアリスとクラリスを交互に見て、照れくさそうに小さく笑った。


「二人のおかげ……ほんと、ありがとう」


 しばらくの間、部屋は余韻の笑いと安堵に包まれていた。

 やがてレティアは、自分の胸を軽く叩くようにして気を引き締め直す。


「……よしっ!」


 ぱん、と両手を合わせ、小さく気合を入れる音が響いた。


「じゃあ、さっそく正式な依頼状を準備しなきゃ!」


 その声には、先ほどまでの震えはない。

 代わりに宿っているのは、はっきりとした決意と前向きな熱だった。


「そうこなくっちゃ」


 アリスは満足そうに腕を組み、からかうような笑みを浮かべる。


「さっきまで真っ赤になって震えてた人とは思えないね」


「アリス……!」


 レティアは恥ずかしそうに唇を尖らせるが、もうその表情に不安の影はなく、晴れやかな笑みが浮かんでいた。


 クラリスは眼鏡を軽く押し上げ、落ち着いた声音で言葉を添える。


「依頼状の文面については、過去の学院行事で使われた形式文を参照するといいでしょう。――必要でしたら、私もお手伝いしますよ」


「ありがとうございます、クラリス先生!」


 レティアは深々と頭を下げる。


 その様子を見て、アリスは横で小さく笑いながら、声を潜めて囁いた。


「ほらね。だんだん“学院生会の顔”っぽくなってきたじゃん」


「……もう、アリスったら!」


 頬を染めながらも、レティアの声には、もう揺らぎのない自信が宿り始めていた。


 レティアは改めてクラリスとアリスに一礼すると、弾む足取りで講師棟を後にした。

 石畳を踏む靴音がやけに軽やかで、胸の奥に広がる達成感が、そのまま歩幅になって表れている。


「……なんだか、肩の荷が下りた気がする」


 廊下を並んで歩きながら、ぽつりと漏らす。


「そう? これからが本番でしょ」


 アリスは両手を後ろで組み、いつもの軽い調子で返した。


「正式な依頼状を書いて、今度はそれを間違いなく届けるんだから」


「うっ……そうだった」


 一瞬だけ緊張が戻りかけたレティアだったが、すぐに小さく笑う。


「でも……今ならできそう」


「うん。その顔なら大丈夫」


 アリスは横目でレティアを見て、にかっと笑った。


 やがて二人は学院の中棟へと辿り着く。

 学院生会室の扉が視界に入ると、レティアの表情は自然と引き締まり、背筋がぴんと伸びた。


「――よし」


 深呼吸を一つ。


 レティアは扉を開き、学院生会室へと足を踏み入れる。


「ただいま戻りました!」


 張りのある声が室内に響く。

 驚いたように、そして期待を込めて視線を向けてくる仲間たちに向け、レティアは胸を張って宣言した。


「これより、正式な依頼状を作成します!」


 その言葉とともに、学院生会室の空気は、新たな緊張と期待に満ちたものへと切り替わっていった。

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