第八部 第一章 第11話
クラリスは口元にそっと指先を添え、わざとらしいほど丁寧に首を傾げてみせた。
窓から差し込む光が眼鏡の縁に反射し、灰青の瞳が一瞬だけきらりと冴える。
「学院生が、学院生に直通で連絡……ですか?」
その声音は柔らかく、からかうようでいて、どこか芝居がかった響きを含んでいた。
冗談めかした空気に、レティアの肩がびくりと跳ねる。
「も、もう……クラリス!」
アリスが思わず苦笑し、ぱたぱたと手を振る。
その仕草には「そこまで」という制止と、親しい間柄ならではの遠慮のなさが同時ににじんでいた。
「そんなにいじめないであげて。ほら、レティア、今にも固まっちゃいそうじゃない」
視線を向けられたレティアは、言葉も出ないまま小さく頷き、肩をすくめる。
「ふふ……失礼しました」
クラリスは小さく肩を揺らして笑うと、すっと表情を引き締めた。
先ほどまでの戯けた空気が嘘のように消え、室内には実務の場にふさわしい落ち着きが戻る。
「では――分かりました。直通でフィオナ殿下に確認を取ってみましょう」
淡々とした、揺るぎのない声音。
その一言だけで「やる」と決めたことがはっきり伝わり、レティアは思わず息を呑んだ。
「ほ、本当に……いいんですか……?」
胸の奥で期待と不安がせめぎ合い、声がかすかに震える。
クラリスは机の上に並んだ筆記具を整えながら、静かに頷いた。
「ええ。正式な依頼として扱うなら、曖昧にせず、最初から筋を通すべきです。殿下に対しても、その方が誠実でしょう」
その理路整然とした言葉に、レティアの胸の奥で、固く結ばれていた糸が少しだけ緩む。
クラリスはさらに柔らかく頷くと、机の端に置いてあった小さな革張りのケースへと手を伸ばした。
留め具を外し、蓋を開く。
中から現れたのは、掌に収まるほどの薄い水晶板だった。
表面には精緻な魔術刻印が幾重にも走り、淡い青白い光が呼吸するようにゆらめいている。
静かな魔力の波動が空気を震わせ、部屋の温度がわずかに下がったように感じられた。
「これが……直通ルート……?」
レティアは思わず身を乗り出し、目を見開く。
学院で見慣れた通信具とは明らかに格が違う――そう直感させる存在感があった。
クラリスは眼鏡の位置を整え、落ち着いた所作で水晶板を机の中央に置く。
指先で表面をなぞると、刻印が淡く発光し、幾何学的な光の紋様が静かに広がっていった。
低く澄んだ共鳴音が、室内に満ちる。
「殿下に直接つながる専用回線です。接続はこちらで行いますから、ご安心ください」
その隣で、アリスがにやりと笑い、レティアの肩を軽く突く。
「ね、言ったでしょ。クラリスに任せておけば大丈夫なんだよ」
「……す、すごい……」
レティアはほとんど呆然と呟き、目を輝かせたまま水晶板から視線を離せずにいた。
まるで舞台の幕が上がる直前を見守る観客のように、期待と緊張が入り混じった表情だ。
クラリスはそんな彼女を一瞥し、ふっと柔らかく微笑む。
「では、これから殿下に連絡を取ります」
指先が水晶板の縁に添えられ、魔力が静かに流し込まれる。
「少しの間、お静かにお願いしますね」
その声はどこまでも冷静で実務的――だが同時に、確かな信頼を置ける頼もしさを帯びていた。
クラリスの指先が水晶板に刻まれた光の紋様へと静かに触れた瞬間、表面を覆っていた淡い輝きが、水面に落とされた雫のように揺らいだ。
円を描くように広がる波紋が幾重にも重なり合い、青白い光は次第に密度を増していく。
空気がひんやりと引き締まり、微かな魔力の共鳴音が、低く澄んだ余韻となって室内に満ちた。
やがて、水晶板の中央に人影の輪郭が浮かび上がる。
光の粒子が編み上げられるように集まり、衣の線、髪の流れ、そして凛とした表情が、徐々に鮮明になっていった。
「……クラリスさん?」
澄んだ声とともに映し出されたのは、鮮やかな金の髪をゆるやかに垂らし、気品と華やかさを自然にまとった少女――フィオナ=ミラージュ第三王女だった。
柔らかな光に縁取られたその姿は、現実の空間にいながらも、どこか遠く高貴な場所と繋がっていることをはっきりと感じさせる。
クラリスは椅子から立ち上がり、背筋を正してから深く一礼した。
いつもの親しみを帯びた所作ではなく、王族に対する正式な礼を尽くした、静かで揺るぎない動きだった。
「殿下。ご多忙のところ、突然のご連絡をお許しください」
その声には、柔らかさの中にきちんとした節度が込められている。
「いいのよ」
フィオナは小さく首を振り、唇に穏やかな微笑を浮かべた。
王女としての威厳を保ちつつも、そこには確かに人懐こさと親しみがあった。
「直通を使ってきたということは、ただの世間話ではないのでしょう?」
その言葉に、室内の空気が自然と引き締まる。
「え、えぇぇっ……!」
思わず声を裏返したのはレティアだった。
突然現れた王女の姿に、頭が追いつかず、慌てて両手で口元を押さえる。
だが頬は見る見るうちに赤くなり、耳まで熱を帯びている。
「……レティア、落ち着いて」
アリスが隣から小声で囁き、苦笑まじりに視線を送る。
その声音には、からかいよりも「大丈夫」という安心感が込められていた。
クラリスは軽く咳払いをして場を整え、視線を水晶板へ戻す。
「殿下。本日は学院舞踏祭に関するご相談でございます」
その一言で、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
水晶板越しに映るフィオナの瞳もまた、冗談の色を消し、真剣な光を帯びてこちらを見つめ返している。
クラリスは一度だけアリスとレティアへ視線を流し、小さな頷きを受け取ると、改めて口を開いた。
「実は……学院生会より、学院舞踏祭の開会式において、“学院生代表”として殿下にご挨拶をお願いできないか、との打診を受けております」
「……わたくしに?」
フィオナはわずかに目を瞬かせた。
だがすぐに、その表情は柔らかな微笑へと変わる。
「なるほど。それで直通で繋いだのですね」
「はい。正式な書面をお送りする前に、まずは殿下ご本人のご意向を伺うのが筋だと考えました」
その冷静で丁寧な説明に、レティアはごくりと喉を鳴らす。
胸の奥で高鳴る鼓動が、耳に届きそうなほど大きく感じられた。
「……そ、それで……殿下は……?」
思わず零れた言葉に、はっとして口元を押さえる。
視線が泳ぎ、灰色の瞳が不安と期待の間で揺れた。
フィオナはそんなレティアをじっと見つめ、ふっと柔らかく微笑む。
「学院生から学院生へ、ですか。確かに、少し珍しいお話ですね」
冗談めいた響きを含みながらも、その声には軽く流せない重みがあった。
「けれど……」
わずかに間を置き、フィオナは背筋を正す。
画面越しであっても伝わる、その凛とした空気に、レティアの背筋が自然と伸びた。
「学院の一員である以上、学院のために務めを果たすのは当然のことです。――その役目をわたくしに託したいというのであれば、喜んでお受けいたしましょう」
「っ……!」
レティアの瞳に、一気に光が宿る。
胸の奥が熱くなり、こみ上げる安堵と喜びに声が震えた。
「ほ、本当に……よろしいのですか?」
「ええ。ただし……」
フィオナは穏やかなまなざしを保ったまま、きっぱりと言葉を継ぐ。
「正式な依頼として、学院生会からきちんとした依頼状を受け取らせていただきたいわ。それが、互いにとって最も誠実な形ですもの」
その瞳には、確かに“王女”としての威厳と責任が宿っていた。
クラリスは深く頷き、改めて一礼する。
「承知いたしました。その旨、学院生会へ確かにお伝えいたします」
水晶板の光はなおも穏やかに揺らぎながら、三人の胸に確かな手応えと、次の一歩への覚悟を静かに刻み込んでいた。
そこでふと、水晶板越しの空気が和らいだのが、はっきりと伝わってきた。
張り詰めていた公的な緊張が、ほんの一段階だけ解かれたような感覚――それと同時に、フィオナの声音が柔らかく色を変える。
『ちなみに――どなたからのご依頼なのです?』
問いかけは穏やかで、どこか探るような、それでいて興味を隠さない響きを帯びていた。
クラリスは一瞬だけ言葉を止め、視線を静かにレティアへ送る。その眼差しには確認と配慮が込められており、問いかけるというよりも「どうしますか」と選択を委ねるようだった。
レティアはその視線を受け、喉を鳴らしながらも小さく頷く。
それを見て、クラリスは水晶板へと向き直り、丁寧に告げた。
「本人がこちらにおります。よろしければ……直接、お話しされますか?」
一拍の間。
水晶板の光が、わずかに強く脈動する。
『そうしましょう』
返ってきた声音は即答だった。
しかも、ほんのりと弾んでいて――どこか楽しげですらある。
その空気を察したアリスが、すぐさまレティアの背後に回り、小さく声を落とす。
「レティア、ほら。大丈夫だから」
そう言って、そっと背中を押した。
力はほとんど感じないほど軽い。けれど、その一押しには「逃げ道はないけど、私はここにいるよ」という、確かな支えが込められていた。
「え、えぇぇ……っ」
情けないほどか細い声を漏らしながら、レティアは一歩、また一歩と水晶板の前へ進み出る。
喉がきゅっと締まり、心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。指先はわずかに震え、無意識のうちにスカートの端を握りしめていた。
その瞬間――
『なんだぁ~、やっぱりレティアさんでしたか!』
水晶板から弾むような声が響き渡る。
それまでクラリス相手に見せていた、王女としての端正で抑制された口調とはまるで別物だった。
『声を聞いた瞬間に、“もしかしたら”とは思っていましたけれど……! やっぱり、あなたでしたのね。お久しぶりですわ!』
懐かしさと喜びが、隠しようもなく溢れ出した声音。
その明るさに、室内の空気が一気に柔らぐ。
「ひゃ、ひゃいっ……!」
反射的に背筋を伸ばし、レティアは声を裏返らせながら答えてしまった。
かちこちに固まった姿勢のまま、慌てて頭を下げる。
「お、お久しぶりです、殿下!」
あまりにも必死なその様子に、横で見ていたアリスは思わず口元を押さえ、くすりと笑う。
クラリスもまた、眼鏡の奥で静かに目を細め、微笑を浮かべていた。
『あら……?』
フィオナの声音が、からかうように弾む。
『なんだか、やけに他人行儀ですわね。帰国すると、こうなってしまうのですか、レティアさん?』
くすくすとした笑いが、音に混じってこぼれる。
「ご、ごめんなさい……!」
レティアは思わず深く頭を下げ、頬を真っ赤に染めたまま声を絞り出す。
「なんか、その……久しぶりすぎて……緊張してしまって……」
必死な言い訳は途切れ途切れで、けれどその一つひとつに正直な戸惑いが滲んでいた。
『ふふ……』
水晶板越しに、柔らかな笑みが伝わってくる。
『そんなにかしこまらなくて、よろしいのに』
少しだけ声の調子を落とし、フィオナは穏やかに続けた。
『いままでどおりでいいのですわ。――“フィオナ”で、お願いします』
「……っ!」
その一言に、レティアの灰色の瞳が大きく揺れる。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけていくのを、自分でもはっきりと感じた。
そして、胸の奥から静かに、温かいものが込み上げる。
「……うん」
小さく、けれど確かな声。
「わかった……フィオナ」
『ええ。その方が、ずっとしっくりきますわ』
フィオナの声音には、かつて同じ学び舎で過ごした日々が、そのまま蘇ったかのような温もりが宿っていた。
その様子を少し離れた場所から見守りながら、アリスは目を細め、心から安心したように微笑む。
クラリスもまた、余計な言葉は挟まず、静かに頷きながら二人の再会を見届けていた。
水晶板の淡い光の中で交わされる視線と声は、
“王女と学院生”という立場を越え、確かに「かつての友人同士」の距離へと戻りつつあった。




