第八部 第一章 第10話
学院生会室を出たレティアは、胸にまだ熱い余韻を残したまま、小走りで回廊を駆け抜けた。
石造りの床に靴音が軽やかに弾み、窓から差し込む昼前の光が、彼女の足元を明るく照らしていく。息はわずかに上がっているのに、不思議と苦しさはなく、胸の奥にはじんとした達成感だけが残っていた。
(アリスに、早く伝えたい……!)
その想いが背中を押すように、自然と歩幅が広がる。
さきほどまで張り詰めていた緊張はもうなく、代わりに身体の芯が温まるような高揚が、鼓動と一緒に脈打っていた。
やがて辿り着いた学院の喫茶ルームは、外の回廊とはまるで別世界のようだった。
柔らかなランプの灯りが落ち着いた影を作り、紅茶と焼き菓子の甘い香りが空気に溶け込んでいる。学生や教員たちの低い話し声が心地よいざわめきとなり、張り詰めた心を自然とほどいていった。
その中で、レティアの視線は迷うことなく一人の姿を捉える。
窓際の席に腰を下ろし、背筋を伸ばしたままティーカップを傾けているアリス。外光を受けて金色の髪が淡く輝き、穏やかな横顔は、まるで最初からすべて分かっていたかのように落ち着いていた。
「アリス!」
弾む声とともに駆け寄り、レティアはそのまま向かいの椅子に腰を下ろす。
呼吸はまだ少し早く、頬は上気していたが、それを隠そうともせず、満面の笑みが溢れ出た。
「ありがとう! 本当に、本当に助かったわ! 会長にも、副会長にも、ちゃんと評価してもらえて……無事に承諾も――」
言葉が追いつかないまま一気にまくし立てるレティアに、アリスはちらりと視線を向け、くすりと微笑む。
そして何も言わずにティーカップを一口。澄んだ紅茶の香りがふわりと立ち上り、彼女の仕草をいっそう落ち着いたものに見せていた。
「うん、上出来」
カップを置きながら、軽やかな声で続ける。
「これで――一つ目の目的は完了、ってところね」
そう言って、片目をつむるようにウインクを添える。その冗談めいた仕草に、レティアは思わず肩の力を抜いた。
「もう……アリスって、最初から分かってたみたいな顔するんだから」
そう言いながらも、その表情には不満よりも安堵と感謝が色濃く滲んでいる。
だが次の瞬間、アリスはすっと動いた。
ティーカップとソーサーを手早くまとめ、椅子を引いて立ち上がる。その迷いのなさに、レティアは目を瞬かせる。
「ちょ、ちょっと待って! 私、まだ全然休憩してないんだけど……!」
慌てて声を上げるが、アリスは振り返らず、軽やかに笑ったまま片手を差し伸べる。
「休憩はまた今度。次に行くよ、レティア」
「え、ええぇ……!?」
抗議の声もむなしく、その手を取らざるを得なかった。
半ば引っ張られるようにして立ち上がり、二人はそのまま喫茶ルームを後にする。
背後からは、事情を知らない客たちの微笑ましげな視線が静かに注がれていた。
廊下に出ると、アリスは迷いのない足取りで進んでいく。
その背中を追いながら、レティアは小さく息を整えつつ声をかけた。
「ね、ねえアリス……お昼は? さすがにそろそろ――」
振り返らないまま、アリスはひらひらと手を振る。
「あとで食べよ。今は先に用事を片づけちゃおう」
「……う、うん」
結局押し切られ、レティアは足早に歩く背中を追うしかなかった。
少し小走りになりながらついていく姿は、どこか主人に付き従う子犬のようで、本人も自覚して小さく唇を尖らせる。
しばらくして、視界に映った建物に、レティアははっとした。
普段、学生が滅多に立ち入ることのない講師棟。その方向へ向かっていることに気づき、思わず首を傾げる。
「えっ……講師棟? もしかして……クラリスさんのところ?」
その問いに、アリスはようやく足を止めて振り返り、にかっと笑った。
「そうだよ」
それ以上の説明はなく、二人はそのまま廊下を進む。
静かな講師棟の空気は、学生棟とは違う落ち着きを帯び、足音さえ自然と控えめになっていく。
やがて一つの扉の前に立ち、アリスは軽くノックをした。
「どうぞ」
中から返ってきた落ち着いた声に応じて扉を開くと、書き物机に向かい、資料を整理していた女性の姿が目に入った。
栗色の髪をきちんとまとめ、細縁の眼鏡の奥で灰青の瞳が知的に光る。その佇まいは落ち着いた大人の余裕を感じさせ、同時にどこか温かさを帯びている。
「アリス、それに……レティアさんも。いらっしゃい」
机から顔を上げ、柔らかな微笑で二人を迎え入れる。
「こんにちは、クラリス」
アリスはごく自然な調子で応じ、親しみを込めて軽く頷いた。
そのやり取りに漂う親密さに、レティアは一瞬きょとんと目を瞬かせる。
「お邪魔してすみません。突然押しかけてしまって……」
慌てて頭を下げると、クラリスは穏やかに首を横に振った。
「いいえ、気にしないでください。ちょうど一区切りついたところですから」
そう言って眼鏡の奥の瞳を和らげ、静かに問いかける。
「――それで、今日はどういったご用件でしょうか?」
その声音には、研究者としての落ち着きと、アリスへの揺るぎない信頼が、はっきりと滲んでいた。
アリスは一度だけ静かに息を整えると、室内の空気を確かめるように視線を巡らせてから、机の前に腰掛けるクラリスへと向き直った。
窓から差し込む午後の光が、書きかけの資料とインク壺を淡く照らし、部屋全体に落ち着いた陰影を落としている。
「クラリス、ちょっと聞きたいんだけど……フィオナ第三王女に、すぐに連絡を取ることってできる?」
探るようでいて、どこか確信を含んだ問いだった。
クラリスは一瞬だけ意外そうに瞬きをしたが、すぐに状況を飲み込んだように口元を緩める。
「ええ、大丈夫ですよ。この前の件で“直通の連絡ルート”が整いましたから。いまなら、こちらからすぐにでもお声がけできます」
淡々とした口調で告げられたその一言に、レティアは思わず息を呑んだ。
背筋がぴんと伸び、思考が追いつかないまま、大きな瞳を見開く。
「ちょ、直通……王女殿下に……!?」
声が裏返り、思わず両手で口元を押さえる。
クラリスはその反応を不思議そうに眺め、小首をかしげた。
「どうかされましたか?」
その問いに答える前に、アリスが穏やかに視線をレティアへ向ける。
いつもの柔らかな笑みだが、どこか背中を押すような温度を帯びていた。
「レティア、説明は君からお願いできる?」
「わ、分かりました……」
小さく頷いたものの、レティアは一度唇をぎゅっと結び、胸いっぱいに空気を吸い込む。
肩を上下させて呼吸を整え、意を決したようにクラリスへと向き直った。
「じ、実は……学院舞踏祭の“開催式”でのご挨拶を、フィオナ第三王女殿下にお願いできないかと……学院生会として、打診を考えているんです」
言い切った瞬間、胸の奥で鼓動が大きく跳ねた。
頬にははっきりと緊張の赤みが差し、視線は無意識にクラリスの眼鏡の縁へと吸い寄せられる。
クラリスは驚いたように一度だけ瞬きをし、興味深そうに指先で眼鏡を押し上げた。
数秒の沈黙。
そのわずかな間さえ、レティアにはやけに長く感じられた。
「……なるほど。それで“直通の件”をお尋ねになったのですね」
やがて静かに頷き、理知的な灰青の瞳を細める。
声には戸惑いよりも、納得と理解の響きがはっきりと宿っていた。
レティアは背筋を正し、両手を太ももの上でぎゅっと握りしめる。
「はい……学院の代表として、どうしても一度、殿下にお願いできればと思って……」
「お気持ちは、よく分かりました」
クラリスは穏やかな笑みを浮かべ、指先で眼鏡の位置を丁寧に直す。
「ただし、直通ルートがあるとはいえ、殿下は王女でいらっしゃいます。正式な依頼としてお伝えする以上、言葉選びや順序は慎重に整える必要がありますね」
その落ち着いた指摘に、レティアの背筋は自然とさらに伸びた。
隣でアリスは、その様子を満足そうに眺めている。
「ふふ、レティア。今朝、私に話してくれたことを、もう一度ちゃんと言ってみて」
助け舟を出すような、けれど逃がさない声音。
レティアは頬を赤くしながら視線を泳がせ、しどろもどろに言葉を探す。
「え、えっと……その……フィオナ殿下は、立場としては王女殿下ですけど……学院では、私たちと同じ学院生で……だから……」
声が次第に小さくなり、語尾が曖昧に溶けていく。
「……学院生代表として、開会式でご挨拶をお願いできたら……って……」
最後はほとんど囁き声になり、視線も床へ落ちてしまった。
「ちょっと、レティア。しっかりして」
アリスがぱんと軽く背中を叩く。
その一撃には叱責よりも、友としての励ましが込められていた。
「ひゃっ……!」
小さく声を上げて肩を震わせ、思わず固まるレティア。
その様子に、クラリスはとうとう堪えきれず、くすっと柔らかな笑い声をこぼす。
「なるほど……そういうことだったのですね」
眼鏡の奥の灰青の瞳を細め、楽しげに微笑む。
「開会式で、学院生であるフィオナ殿下に、“学院生代表”として挨拶をお願いしたい……そういうご相談、ということですね」
「は、はい……!」
顔を真っ赤にしながらも、今度ははっきりと頷く。
その表情には、恥ずかしさと同時に、確かな決意が宿っていた。




