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第八部 第一章 第9話

 重々しい扉を押し開けた瞬間、ひやりとした空気がレティアの全身を包み込んだ。

 学院生会室特有の張り詰めた空気――整然と並べられた資料の束、乾いたインクの匂い、きっちりと引かれたカーテン越しに差し込む光の鋭さ。そのすべてが、これから報告を受け止める覚悟を問うかのように、彼女の感覚を研ぎ澄ませる。


 長机の最奥には、学院生会会長ユリウス=ノイエラントが端然と腰を据えていた。

 背筋は寸分の乱れもなく伸び、切り揃えられた金髪の奥から覗く瞳は、氷の刃のように冷徹な光を宿している。その視線が真正面から突き刺さった瞬間、レティアの喉がきゅっと鳴った。


 その隣では、副会長リヒト=クロイツベルクが議事録に淡々とペンを走らせている。さらさらと流れるインクの音が、やけに大きく耳に残る。レティアが入室したのを察すると、彼は一度だけ書面から視線を上げた。

 眼鏡の奥で研ぎ澄まされた瞳が、彼女の手元から表情までを逃さず観察するように光り、胸の奥で心臓がひとつ強く跳ねた。


 机を挟んだ両脇には、庶務のエリナ=フォルセティと書記のミーナ=アルベルティが控えている。二人は抱えていた書類を思わず下げ、扉を開けたレティアの姿を見て顔を上げた。その表情には緊張と期待が入り混じり、彼女が持ち帰る答えをどれほど待ちわびていたかが、一目で伝わってくる。


「おかえり、レティア!」


 最初に声をかけたのはエリナだった。快活な声音が、張り詰めた室内の空気をわずかに和らげる。


「お疲れさまです」


 ミーナも小さく微笑みを添え、控えめに声をかける。その温かな響きに、レティアの胸の奥で固くなっていた緊張が、ほんの少しだけ溶けるのを感じた。


 だが、その安堵は束の間だった。


「……どうだった?」


 ユリウスの低く落ち着いた声が響く。

 無駄を削ぎ落とした短い問い。しかしそこには、結果のみを求める冷厳な圧が込められており、場の空気を再び凍りつかせる。問いかけというより、報告を命じる宣告だった。


 レティアは一歩、前へと進み出た。

 硬い床を踏みしめる靴音が、妙に大きく響く。


 胸の前で深く息を吸い込み、震えそうになる肩を押さえつけるように姿勢を正す。そして、両腕で大切に抱え込むように守ってきた羊皮紙の返信状を、ついに掲げた。指先は小さく震えていたが、それを必死に抑え込みながら、はっきりと口を開く。


「――正式に承諾をいただきました。舞踏祭開会式の挨拶は、ティアナ騎士団の代表が務めてくださるそうです!」


 その瞬間、張り詰めていた空気が一気に揺れた。


「やったぁ!」


「本当に承諾を……!」


「これで来賓への顔向けができますね!」


 沈黙に覆われていた室内に、喜びの声が次々と溢れ出す。

 庶務のエリナは両手を合わせて目を潤ませ、書記のミーナは胸に手を当てたまま、今にも泣き出しそうなほど安堵の息を漏らす。隣席のリヒトですら、口元にわずかな笑みを浮かべ、机上のペンを置いて小さく頷いた。


 仲間たちの声が重なり合い、張り詰めていた緊張の糸が解けていく。

 それは同時に、全員が同じ重圧を背負っていたことの証でもあり、そして今、それを乗り越えた達成感が共有されている証でもあった。


「……そうか」


 ユリウスは短く告げると、椅子を引いて立ち上がり、レティアの手から返信状を受け取った。

 封蝋に刻まれた騎士団の紋章をじっと確かめ、文面へと静かに目を走らせる。その姿は感情を一切表に出さず、ただ事実を精査する者の厳格さそのものだった。


「確かに……ティアナ騎士団代表による開会式挨拶、承諾済みだな」


 低く読み上げられる声は、しかしはっきりとした重みを伴って室内に響く。その言葉に、自然と全員の背筋が伸びた。


 やがてユリウスは文面から視線を外し、まっすぐにレティアを見据えた。

 氷のように冷徹な眼差し――だがその奥には、確かな成果を認める光がわずかに宿っている。


「……よくやった、レティア。これで舞踏祭の開会は揺るぎないものとなるだろう」


 その一言に、レティアの胸の奥が熱く震えた。

 張り詰めていた糸がぷつりと切れるように、押し殺していた緊張が一気に解けていく。頬はじんわりと熱を帯び、視界がわずかに滲んだ。


「……はい……!」


 掠れた声での返答だったが、その頷きは驚くほど力強かった。


「さすがだな」


 副会長リヒト=クロイツベルクが、さらりとペンを置いて横顔を向ける。

 眼鏡の奥で光る瞳は細部を逃さぬ観察眼を保ったまま、口元にはめったに見せない小さな笑みが浮かんでいた。


「正規ルートでは断られた依頼を、こうして通してきた。……見事だ。詳細は議事録に残すから、後ほど経緯をまとめて報告してくれ」


「ええ、任せて」


 レティアは胸を張り、まだ赤みの残る頬を隠すことなく、誇らしげに答えた。


「すごいです、レティアさん!」


 庶務のエリナ=フォルセティがぱっと表情を明るくし、瞳をきらきらと輝かせながら両手を胸の前でぱんっと合わせる。


「これで来賓対応も万全ですね! 正直、私……ずっと不安で」


「ほんとうに……よかったです」


 書記のミーナ=アルベルティは胸元に手を添えたまま、長い息を吐いた。細い肩が小さく上下し、その仕草には、昨夜から胸にこびりついていた不安がようやく抜け落ちた安堵が滲んでいる。


「開会式がぐだぐだになったらどうしようって、昨日から落ち着かなくて……でも、これで安心できますね」


 喜びと安堵の声が次々と重なり合い、重苦しかった空気は完全に解けていった。

 張り詰めていた緊張が和らぎ、学院生会室には柔らかな温かさが広がる。


 だが――ユリウスは机に返信状をそっと置き、再び鋭い視線を巡らせた。氷のような冷徹さを取り戻しながらも、その瞳の奥には確かな成果を認める静かな誇りが漂っている。


「これで最大の懸念は解消された。――では、舞踏祭当日の式典進行を改めて確認する。準備を怠るな」


 その一声に、学院生会室の空気は一瞬で引き締まった。

 緩んでいた背筋が一斉に正され、メンバーたちはそれぞれ資料を手に取り直し、筆記具を整える。

 達成感の余韻を胸に残したまま、次なる責務へと、学院生会は再び歩みを進めるのだった。


 レティアもまた、ゆっくりと深呼吸をしてから自分の席に腰を下ろした。

 椅子に身を預ける感触が、確かに自分の居場所がここにあるのだと告げてくる。先ほどまで小刻みに震えていた膝は、今はしっかりと床を踏みしめ、指先に伝わる木机の感触も驚くほど現実的だった。

 仲間たちと同じ長机に並び、学院生会の一員として堂々と座っている自分をはっきりと自覚しながら、胸の奥には温かな達成感が静かに灯っていた。


 (……やり遂げたんだ、私)


 心の中でそっと呟く。

 その想いがじんわりと胸に広がり、呼吸のたびに少しずつ身体の奥へ染み込んでいく。瞳の奥で小さく揺れる光は、これまで積み重ねてきた不安や緊張、何度も迷いながら踏み出した決断のすべてを、今この瞬間に報いてくれるかのように、確かな輝きを帯びていた。


 学院生会室には、安堵と達成感が溶け合った穏やかな空気が満ちている。

 だがレティアは、そこで満足して思考を止めることはなかった。胸の奥に残るわずかな緊張を押しほぐすように、もう一度深く息を吸い込み、小さく瞬きをしてから、真っ直ぐに会長席を見据える。


「……でも、会長」


 静かに、しかしはっきりとした声だった。

 室内の空気が、再びわずかに引き締まる。


「実は、もう一人……考えている方がいるんです。ですから、開会式の挨拶については……最終決定を、もう少しだけ待っていただけませんか」


 言葉を選びながら告げられた申し出に、ユリウス=ノイエラントの鋭い眉が、ほんのわずかに動いた。

 一瞬、沈黙。だが次の瞬間には、彼はすぐに表情を整え、短く頷く。


「分かった。――君がそう言うなら、待とう」


 低く落ち着いた声音。その奥には、彼女の判断を信じる意思と同時に、会長として背負う冷徹な責任感がはっきりと滲んでいた。


 その横で、副会長リヒト=クロイツベルクが静かに懐中時計を取り出す。

 銀色の蓋を開くと、ちり、と小さな音を立てて内部の文字盤が露わになり、刻まれる針の動きがはっきりと見えた。


「ただし、猶予は三日だ」


 冷静な声が、時計のかすかな針音と重なって学院生会室に響く。


「それを過ぎれば、式典進行に支障が出る。……その点は理解しているな。大丈夫か?」


 問いかけに、レティアは即座に背筋を正した。

 両手を胸の前で組み、決意を宿したきらめく瞳を、真っ直ぐにユリウスとリヒトへ向ける。


「はい。三日以内に、必ず結果を出します。どうなるか、きちんとはっきりさせてきます」


 迷いのない声音だった。

 その答えに、リヒトがふと目を細める。


「……ちなみに、その“もう一人”というのは、誰だ?」


 問いを投げかけられた瞬間、レティアの頬がかすかに赤みを帯びた。

 一度視線を逸らし、口元に小さな苦笑を浮かべてから、正直に答える。


「断られたら……正直、恥ずかしいので。今は内緒にさせてください」


 率直すぎるほど率直な言葉に、リヒトは一瞬だけ唇の端を上げると、それ以上は追及せず、懐中時計を静かに閉じた。


 ユリウスは短く彼女を見据え、そしてわずかに口元を緩める。


「では任せる。――行ってこい」


「……ええ」


 短く、しかし確かな返答。

 レティアは深く一礼すると、自分の机に残していた書類を丁寧に揃え、椅子を音も立てずに押し戻した。


 仲間たちの視線が一斉に背中へ注がれるのを感じる。

 それは不安ではなく、期待と信頼のこもった視線だった。


 レティアは迷うことなく歩き出し、扉の前に立つ。

 取っ手に手をかけ、そのまま振り返ることなく軽やかに押し開けると、廊下から柔らかな光が差し込んだ。


 緊張と期待の入り混じった空気を背に受けながら、レティアは真っ直ぐな足取りで学院生会室を後にする。

 次なる決断へ向けて――その歩みには、もはや迷いはなかった。

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