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第八部 第一章 第8話

 ――その時だった。

 先ほどまで和やかに満ちていた室内の空気を縫うように、こんこん、と控えめながらも澄んだノックの音が響いた。

 重厚な扉に当たった音は短く反響し、その余韻が消えるより早く、落ち着いた声が続く。


「失礼いたします」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、エステル=ヴァレンタイン少尉の凛とした声音だった。

 過不足のない端正な響きに、室内の空気が自然と引き締まる。


「レティア=エクスバルドさんがお戻りです。学院生会からの正式な招待状をお持ちとのことですが、ご案内してもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


 ティアナの返答は柔らかく、しかし揺るぎのない落ち着きを帯びていた。

 その一言を合図に、重厚な扉が静かに開かれる。


 きい、と控えめな音を立てて開いた隙間から、レティアの姿が現れた。

 一歩、また一歩と慎重に踏み出す足取りはどこかぎこちなく、背筋は先ほどよりもさらに固く伸びている。


 両手には、白い封筒を胸元に抱えるようにして持っていた。

 角が折れないよう、汚れがつかないよう、無意識のうちに力が入っているのがはっきりと分かる。

 その表情には緊張が色濃く浮かび、喉を小さく鳴らしながら、ゆっくりと前へ進んだ。


「お、お待たせしました……」


 一度息を整え、意を決したように視線を上げる。


「あの……こちらが、学院生会からの正式な依頼状になります」


 そう告げると、レティアは両手でそっと封筒を差し出した。

 まるで壊れやすい宝物を託すかのような、慎重すぎるほどの仕草だった。


 その瞬間――


 アリスがびくりと肩を跳ねさせ、慌てて背筋を正す。

 さきほどまでの空気を引きずったまま、やや不自然なほど勢いよく声を張り上げた。


「お、おかえりレティア!

 ちょうどいいところに戻ってきたね。ほら、話も一段落したところだし!」


 妙に明るい声色。

 ほんのわずかに裏返った語尾と、必要以上の勢いが、その必死さを雄弁に物語っていた。

 ――まるで、先ほどまで話題に上っていた“舞踏会での踊り”の件を、全力で覆い隠そうとするかのように。


「……??」


 レティアは小首をかしげ、その場で立ち止まる。

 状況が飲み込めず、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。


「なにか……あった?」


 戸惑いを隠さない声音。

 差し出した封筒を持ったまま、視線をアリスに向ける。


「な、なんでもない!

 本当になんでもないから! 全然! 気にしなくていいからね!」


 アリスは耳まで真っ赤に染めながら、両手をぶんぶんと振って全力で否定する。

 その挙動はあまりにも慌ただしく、逆に「なにかありました」と言っているようなものだった。


「…………?」


 レティアはますます困惑し、唇をわずかに開いたまま固まってしまう。

 視線がアリスからティアナ、セシリアへと迷子のように彷徨った。


 そんな二人のやり取りを、少し離れた位置から見守っていたティアナとセシリアは、自然と視線を交わし合う。

 一瞬の沈黙ののち――


 ティアナは口元にそっと手を当て、肩を小さく揺らしながら上品に笑みをこぼした。

 抑えた笑い声が、鈴の音のように静かに響く。


 セシリアもまた堪えきれなかったように目を細め、控えめながらも柔らかな笑いを漏らす。

 その表情には、すべてを察した者特有の余裕と温かさがあった。


 事情が分からず、ただきょとんと立ち尽くすレティア。

 緊張で固かった肩が、二人の笑いにつられるように、ほんのわずかに緩んでいく。


 いつしか室内の空気は、先ほどまでの張り詰めた緊張から解け、

 親しい者同士だからこそ生まれる、温かく、柔らかな笑いに包まれていた。 


 レティアが両手で大事そうに差し出した封筒を、セシリアは静かに受け取った。

 その所作には一切の淀みがなく、長年公的文書を扱ってきた者ならではの落ち着きと、相手への配慮が滲んでいる。まずレティアへ向けて小さく一礼を返し、それから白い指先で封に添えられた蝋を丁寧に切り開いた。


 中から取り出された書状を一度机上に置き、角を揃えるように両手で整える。

 さらり、と紙が擦れるかすかな音が室内に落ち、そのわずかな音さえ、今のレティアには妙に大きく響いた。胸の奥で心臓が早鐘を打ち、視線は無意識のうちにセシリアの手元を追ってしまう。


 セシリアは書状を両手で持ち上げ、静かに目を走らせた。

 整然と並ぶ文字を一行一行、飛ばすことなく確認していく。その途中で、眉がほんのわずかに動いた。


「……ふむ」


 短い呟きに、レティアの肩がぴくりと跳ねる。

 だが、すぐにセシリアは続きを読み進め、やがて長く澄んだ吐息をひとつ落とした。


 書状が丁寧に畳まれ、机上に戻される。


「問題ありません」


 顔を上げたセシリアの声音は、はっきりとした安堵をもたらす響きを帯びていた。


「学院生会から、“ティアナ騎士団”宛てとして、礼を尽くした正式な形で依頼が記されています。文面も明瞭ですし、不備も見当たりません。……これであれば、正式に受理が可能でしょう」


「ほ、本当ですか……!」


 レティアの瞳がぱっと大きく見開かれ、頬が一気に明るく染まった。

 胸を締めつけていた緊張の糸が解け、肩がほっと沈むように緩んでいく。


「ええ」


 ティアナはそんな彼女を温かな眼差しで見守りながら、静かに頷いた。


「これで学院舞踏祭の開会式に、騎士団としての挨拶を立てることができます。あなたの準備が、きちんと実を結びましたね」


「……よかった……」


 レティアは胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、押し殺したような小さな吐息をこぼした。

 張りつめていた感情が一気に緩み、その頬はわずかに潤んでいる。


 その姿を横で見ていたアリスは、自然と口元を緩め、そっとレティアの肩を軽く叩いた。


「ほらね。ちゃんと準備して、正式に持ってきたら大丈夫だって言ったでしょ?」


「……もう、アリスったら」


 レティアは頬を赤らめ、照れ隠しのように小さく声を返す。

 だが、その唇には抑えきれない笑みが浮かび、心からの安堵が滲んでいた。


 セシリアは依頼状を丁寧に畳み直すと、胸の前に掲げるようにして一礼した。

 その動きは、騎士としての厳格さと、貴族女性としての優雅さを兼ね備えたもので、思わずレティアの背筋もぴんと伸びる。


「では、この依頼状は確かにお預かりいたします。そして――こちらで正式な返信を作成しましょう。少々お待ちください」


 落ち着いた声音とともに、セシリアは机上に新しい羊皮紙を滑らかに広げた。

 白い紙面に窓からの淡い光が反射し、室内の空気が自然と引き締まる。


 羽根ペンを取り上げた瞬間、小さなインク壺がかすかに揺れた。


 さらさら、と淀みのない筆致が羊皮紙の上を走る。

 規則正しい筆音が静かに響き、一文字一文字が確かな意味を伴って刻まれていく。


 レティアは息を呑み、瞬きすら忘れたように、その手元を見つめ続けた。


「学院生会よりのご依頼、確かに受領しました――」


 セシリアは書き進めながら、文面を小さく読み上げる。

 公的文書らしい格調を帯びた声でありながら、どこか柔らかさも含んでいた。


 やがて最後の一文を書き終え、筆先をそっと持ち上げる。

 余分なインクを払うと、そのまま乾きを待つ静かな時間が流れた。


「こちらが正式な返信です。ご確認ください」


 差し出された羊皮紙を、レティアは両手で大切に受け取る。

 恐る恐る目を走らせると、そこには学院舞踏祭開会式において、“ティアナ騎士団の代表者が挨拶を行う”旨が明瞭に記されていた。


「……間違い、ありません」


 喉の奥から掠れた声がこぼれ、瞳に安堵の光が宿る。


「では、署名を」


 セシリアの言葉に応じ、ティアナがすっと姿勢を正した。

 白磁のような指先で羽根ペンを取り、流麗で気品ある筆跡で自らの名を記す。


 最後に小さな印章を取り出し、家紋をかたどった朱印を羊皮紙の端に押した。

 鮮やかな赤が、公的な重みをはっきりと示している。


「これで正式な返答となります。――学院へお持ち帰りください」


 ティアナはそう言って、柔らかな微笑とともに羊皮紙をレティアへ差し出した。


「……ありがとう、ございます……!」


 レティアは胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じながら、両手で文を受け取った。

 深々と頭を垂れるその肩は小さく震え、声には安堵と感謝、そしてようやく掴み取った達成感が混じっていた。


 アリスは隣でその姿を見守り、自然と胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 レティアは返信状を両腕で抱きしめるように胸元に引き寄せ、改めて深く頭を下げる。

 その仕草には、ここに至るまでの緊張と、それを乗り越えた安堵がすべて込められていた。


 アリスも一歩前に出て、礼儀正しく頭を下げる。


「本日はお時間をいただき、本当にありがとうございました」


 その言葉に、ティアナは柔らかく微笑み、セシリアもまた穏やかに頷いた。


「こちらこそ。……お気をつけて」


「ええ、また必要とあれば、いつでもお越しください」


 温かな声音に背を押されるように、アリスとレティアは揃って一礼し、静かに部屋を後にした。


 ――扉が、音もなく閉じられる。


 外で直立していた二名の護衛騎士は、羊皮紙を大事そうに抱えたレティアの姿を一目見て、わずかに顔を見合わせた。

 そして何も言わず、口元に柔らかな微笑を浮かべる。


 その表情には、若い学院生が責務を果たして戻ってきたことへの、静かで温かな眼差しが確かに宿っていた。


 その瞬間、二人を包んでいた張り詰めた緊張が、ふっと音もなくほどけた。

 重い扉を背にした廊下には、先ほどまでの公的な空気とは異なる、学院らしいざわめきと朝の明るさが戻ってきている。


「……や、やった……!」


 廊下に出るなり、レティアは胸に抱いた羊皮紙をぎゅっと強く抱きしめた。

 細い両腕に力を込めるたび、紙の端がわずかに擦れる。熱を帯びた頬は赤く染まり、目尻には抑えきれなかった感情の名残が、うっすらと涙のきらめきとなって浮かんでいた。


「私、本当に……やり遂げられたんだね」


 震えを含んだ声だったが、そこには確かな安堵と達成感がはっきりと宿っている。

 長い緊張の時間をくぐり抜けた末にようやく実感が追いついたかのように、胸の奥からこみ上げるものを噛みしめるような言い方だった。


「うん。ほんとに、よく頑張ったよ、レティア」


 隣に立つアリスは柔らかな笑みを浮かべ、ぽん、と軽く彼女の肩を叩く。

 その何気ない温もりに触れた瞬間、レティアの胸に溜まり続けていた緊張が完全に溶け、深い吐息となって静かに漏れ出した。


「もう……心臓が飛び出すかと思った……」


「見てたよ。最初なんて、まるでブリキ人形みたいにぎこちなかったからね」


 くすっと笑いを含んだアリスの軽口に、レティアはむっと顔を赤くして振り返る。


「も、もうっ! 言わなくてもいいでしょ!」


 抗議の言葉は強めだったが、その声色には先ほどまでの切迫感はなく、張りつめていたものを乗り越えたあとの晴れやかさが滲んでいた。


 やがて二人は並んで歩き出す。

 学院の回廊には大きな窓から朝の光が差し込み、磨き上げられた石畳の床をきらきらと反射させている。舞踏祭の準備に追われる学院生たちが行き交い、色鮮やかな布飾りや花籠を抱えて忙しそうに動き回っていた。指示を飛ばす声、笑い声、足音が重なり合い、学院全体が生き物のように脈打っている。


 その中を歩きながら、レティアは胸に抱えた羊皮紙の重みを改めて感じていた。

 それはただの紙切れではなく、自分が学院生会の一員として果たした役目と努力の証そのものだった。


 だが、階段の踊り場に差し掛かったところで、アリスがふと足を止めた。


「……ごめん、レティア」


 軽く吐息をこぼしながら、彼女は欄干に手を添えるようにして腰を伸ばし、少し疲れたような、それでいてどこか気楽な笑みを浮かべる。


「ちょっと今日は疲れちゃったみたい。私は喫茶ルームで待ってるから、学院生会への報告はお願いしていい?」


 唐突な申し出に、レティアは思わず足を止め、驚いたように振り返った。


「えっ……アリス、来ないの?」


 大きな瞳に、ほんのわずかな不安の色が滲む。

 ついさっきまで緊張の場を共にくぐり抜けてくれた親友が、ここで離れるのだと思うと、胸の奥に小さな心細さが広がった。


 だがアリスは片方の肩をすくめ、あくまで軽い調子で言う。


「だって、私、学院生会のメンバーじゃないしね」


 そう言いながらも、その瞳は真っ直ぐにレティアを見据えている。


「ここまで一緒に来たし、あとはレティア自身の言葉でちゃんと伝えた方がいいと思うんだ。……それに、もう大丈夫でしょ?」


 にかっと明るく笑い、ひらひらと手を振ってみせる。その何気ない仕草には、「信じてるよ」という無言の後押しが確かに込められていた。


 しばし迷った末、レティアは胸の前で両手をぎゅっと組み、深く息を吸い込む。


「……分かったわ。すぐに戻るから」


 声の端にはまだわずかな不安が残っていたが、それでも頷きにははっきりとした決意が宿っていた。


「うん、頑張って」


 アリスは柔らかく笑い、軽く片手を振り上げて応援するように言葉を添える。


 短いやり取りのあと、二人はそこで別れた。

 レティアは足取りを引き締め、学院の中棟にある学院生会室へと向かう。


 一方のアリスは、くるりと軽やかに踵を返す。

 まるで先ほどまでの緊張など最初から存在しなかったかのように、自然体の歩調で回廊を進み、その背中はやがて喫茶ルームの方向へと消えていった。

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