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第八部 第一章 第7話

 ――扉が静かに閉じられ、木と金具が触れ合う低い音が、臨時捜査室の中に短く反響した。

 その余韻が消えきると同時に、さきほどまで漂っていた人の気配や慌ただしさが、嘘のように引いていく。

 重厚な調度品に囲まれた室内には、柔らかな魔導灯の光と、湯気の残る茶の香りだけが静かに満ちていた。


 アリスは深く息を吐き、無意識に少しだけ丸まっていた背中を正す。

 ついさっきまで隣にあった親友の存在感が消えたことを、遅れて実感しながら、ゆっくりと視線をティアナとセシリアへ向けた。


「今回は……どうもすみません。レティアもかなり緊張していましたし、きっとご迷惑をおかけしたと思います」


 余計な飾りのない、率直な謝罪だった。

 学院生でも、英雄でもなく、一人の少女としての素直な言葉。


 それを受けて、ティアナは小さく首を振り、柔らかな微笑を浮かべる。

 その表情には、咎める色も、困惑もない。むしろ、どこか親しみと安堵が混じっていた。


「いいえ。むしろ――これで、大きく積もっていた“貸し”のうち、ほんの小さなひとつを返せたのかもしれませんね」


「……貸し、ですか?」


 思わずアリスは首を傾げた。

 言われた意味がすぐに掴めず、瞳に戸惑いが浮かぶ。


「私には、そんなつもりは……」


「いいえ、ありますよ」


 言葉を継いだのはセシリアだった。

 穏やかな声音でありながら、芯の通った響き。控えめな微笑の奥に、揺るがぬ認識が宿っている。


「あなたに、私たちは“国運”という、決して軽くない借りを背負ってもらっているのですから」


 その一言は重く、しかし責めるようではなかった。

 事実として、淡々と告げられるからこそ、言葉は胸に深く沈んでいく。


 ティアナもまた小さく頷き、淡い金の髪を揺らしながら、まっすぐにアリスの瞳を見つめた。

 その視線は揺らぎなく、威厳よりも誠実さと温もりを帯びている。


「だからこそ――いえ、それとは別に、私はあなたを“友人”だと思っています。

 頼ってくださること、それ自体が……とても嬉しいのです」


 その言葉に、アリスは一瞬、息を詰めた。

 胸の奥に小さな熱が灯り、それがじわじわと広がっていく。喉の奥がひりつくように熱くなり、心臓の鼓動がはっきりと自覚できるほど早まった。


 (……友人、か)


 ふっと力が抜け、口元に小さな微笑が浮かぶ。

 だが、そのまま見せるのは少し気恥ずかしくて、アリスは視線を伏せ、指先で頬を軽くかいた。


「……そんなふうに言ってもらえるなんて、ちょっと照れます」


 声は自然と小さくなり、わずかに揺れていた。

 けれど、再び顔を上げたとき、瞳は逃げずに二人を見据えていた。


 胸の奥に広がる温もりが、少しずつ形を変え、静かな決意へと変わっていくのを感じる。

 ティアナとセシリア――二人の真摯な眼差しが、自分に向けられていることが、はっきりと伝わってくる。


 視線を逸らすのもためらわれ、自然と唇が緩んだ。

 そのまま、気持ちを隠さず言葉にする。


「でも……ありがとうございます。本当に嬉しいです。

 私も、ティアナ様たちのことを……友人だと思っています」


 少し照れくさそうで、語尾がほんのわずかに震えていた。

 だが、そこに偽りはひとつもなく、胸の奥から溢れ出た想いそのものだった。


 その言葉が届いたと確信した瞬間、アリスの内側で張り詰めていた何かが、ゆっくりと溶けていく。


 ティアナは静かに目を細め、淡い金の睫毛が頬に影を落とす。

 その表情は陽だまりのように穏やかで、見ているだけで包み込まれるような温かさがあった。


「ええ……その言葉だけで、十分です」


 澄んだ声が響くと、室内の空気までもが柔らかく満たされていく。


 セシリアもまた軽やかに頷き、控えめながらも慈愛を湛えた微笑を添えた。

 その眼差しの先にあるのは、ただ一人のアリス。

 力ある存在としてではなく、信頼すべき一人の友として、確かに迎え入れている視線だった。


 その二人の表情に、アリスは胸の奥がじんわりと熱くなるのを堪えきれず、膝の上で指先をぎゅっと握りしめる。


 (……ああ、やっぱり。私も、この人たちの力になりたい)


 その想いはまだ言葉にはならなかったが、確かな輪郭をもって、アリスの胸の奥に刻まれていた。


 和やかな余韻が室内にゆっくりと落ち着いた、そのときだった。

 セシリアは静かに背筋を伸ばし、先ほどまでの柔らかな空気をそっと切り替えるように、わずかに声の調子を変えて口を開く。


「――ところで、少し話題を変えましょうか。

 “同調鞘”の件については、すでに私たちのもとにも正式な報告が上がっています」


 不意に出た言葉に、アリスの瞳がわずかに見開かれた。

 一瞬、呼吸が止まりかけるのを自覚し、喉が小さく鳴る。


 ……もう、ここまで把握されている。


 驚きと緊張が同時に胸を満たすのを感じるアリスに対し、セシリアはその反応を咎めることなく、むしろ安心させるような穏やかな微笑を浮かべて、ゆっくりと言葉を続けた。


「初期試験は概ね順調だったそうですね。

 安定化の兆しが見え始めた、と。

 正直に言って――とても良い報告でした」


「……はい」


 アリスは一度、小さく息を吐いてから答える。

 頬にはわずかな熱が残っていたが、逃げることなく胸を張った。


「まだ、課題は本当に山積みです。

 でも……ひとまず、暴走や急激な共振を起こさずに維持できる目途は立ちました」


 その声音には、長い試行錯誤を経た末にようやく得られた安堵と、確かな達成感が滲んでいた。

 机上に積まれた書類や、壁際に設置された簡易解析装置が、その裏付けのように静かに存在感を放っている。


 ティアナはその様子をじっと見つめ、静かに頷いた。

 視線は柔らかいが、そこに宿るのは評価と敬意だった。


「あなたが、どれほどの時間と労力をその研究に注いできたか――

 私たちも、断片的ではありますが耳にしています。

 その努力が、こうして形になり始めていることを……私は心から嬉しく思います」


 その言葉を受けた瞬間、アリスの胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 思わず視線を伏せ、口元に小さな微笑が浮かぶ。


 だが、すぐに彼女は深くひとつ呼吸し、研究者としての顔へと切り替えた。

 曖昧な感情に流されるのではなく、現実と課題を正確に見据えるために。


「……ただ、正直に言えば、まだ不安定な要素は多いです。

 特に、魔力の負荷が構造の一部に偏りやすくて……

 長時間保持すると、どうしても波形が乱れ始める傾向があります」


 言葉を選びながら、しかし隠すことなく続ける。


「それに、“刀”の形態に完全に適合した専用鞘の試作も、今後は避けて通れません。

 現行モデルでは汎用性は確保できても、最適解とは言い切れないので……」


 語るうちに、先ほどまでの照れや遠慮は影を潜めていた。

 瞳には、純粋に問題を見据える研究者の鋭い光が宿っている。


 セシリアはその姿を興味深そうに見つめ、手元のカップを指先でなぞりながら、ゆっくりと頷いた。


「なるほど……。

 実用化に向けては、構造的な負荷分散と、使用条件の最適化が鍵になりそうですね。

 ですが――そこまで冷静に自己分析ができている時点で、すでに大きな段階を越えています」


 その言葉には、お世辞ではない確かな評価があった。


 ティアナもまた、優雅に頬へ手を添え、穏やかな微笑を浮かべる。


「どんな技術も、最初から完璧な形で完成することはありません。

 大切なのは、歩みを止めず、問題から目を逸らさないこと。

 そして……あなたは、確かに着実に前へ進んでいます」


 静かで、しかし力のある言葉だった。


 アリスは深く頷き、胸の奥に確かな熱と重みを感じる。

 それは期待ではなく、自ら背負うと決めた責任の重さだった。


「……ありがとうございます。

 もっと良いものにしてみせます。必ず」


 短い言葉の中に、これまでの苦闘と、これから先を見据える強い決意が込められていた。

 その声音は揺るがず、静かに、しかし確実に室内へと響いていた。


 ティアナは静かに一息つくと、椅子に深く腰掛け直し、背筋をすっと正した。

 その所作ひとつで、場の空気が自然と引き締まる。柔らかさを残しながらも、公的な話題へと踏み込む前触れだった。


「……話は変わりますが。

 学院舞踏祭の最終日に行われる舞踏会には、公式に“公女”として、私も参加いたします」


「――えっ!」


 思わず零れ落ちた声が、静かな室内に小さく反響した。

 まるで静かな水面に石を投げ込まれたかのように、アリスの胸の内で驚きが波紋となって広がる。


 瞳は大きく見開かれ、背筋が反射的に伸びる。

 気づけば椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめ、指先に力がこもっていた。


 ティアナはその様子を不思議そうに眺め、わずかに小首を傾げる。

 金の髪が肩先で揺れ、柔らかな微笑が唇に浮かんだ。


「……なぜ、そんなにも驚かれるのです?」


 アリスは一瞬言葉に詰まり、視線を宙に彷徨わせてから、戸惑いを隠しきれない声音で答えた。


「だって……王代家は、これまで学院の行事には“原則不参加”でしたから。

 舞踏祭も、例外ではないと聞いていましたし……」


 その説明に、ティアナは静かに目を細め、ゆっくりと頷いた。

 否定でも肯定でもない、すべてを承知した者の穏やかな反応だった。


「ええ。その認識で、間違いはありません。

 ただ――挨拶の件と同じです。今年は私自身が学院に滞在している以上、立場上、参加しないという選択は取りづらいのですよ」


「……なるほど」


 アリスは小さく息を吐き、ようやく納得したように視線を落とした。

 胸の奥でまだざわめいている驚きを整えるように、握っていた拳をゆっくりと開き、また閉じる。


 その横で、セシリアが静かに姿勢を正す。

 柔らかな微笑を浮かべたまま、しかし声音にはわずかな切り替えを滲ませて、言葉を継いだ。


「そこで……ひとつ、お願いがあるのです」


「お願い、ですか?」


 アリスは顔を上げ、訝しげに首を傾げる。

 瞳の奥に、ほんのわずかな緊張が揺れた。


 セシリアはその視線を正面から受け止め、ゆっくりと表情を引き締めていく。

 冗談ではない、本題に入る合図だった。


「はい。

 さすがに舞踏会当日、ぞろぞろと護衛を引き連れて参列するのは無粋でしょう。

 ですが――身辺警護を欠かすわけにもいきません」


 一拍、間を置き、静かに続ける。


「そこで、アリスさん。

 私と共に、ティアナ様の側に立ち、護衛をお願いできないかと考えました」


 澄んだ声が落ちた瞬間、室内の空気がぴんと張り詰めた。

 予期せぬ依頼に、アリスは言葉を失い、ただ瞬きを繰り返す。


 胸の奥に、ずしりとした重みが落ちる感覚。

 視線をセシリアからティアナへ、そしてまた戻しながら、答えを探す。


 ティアナは微笑を絶やさず、どこか期待を含んだ眼差しでアリスを見つめていた。

 その視線に射抜かれるように、心臓がどくんと大きく跳ねる。


 セシリアは落ち着いた声音で、さらに補足するように続けた。


「もっとも、“警護”といっても、本格的な護衛任務を担わせるつもりはありません。

 実際の警護は、私が責任を持ちます。

 アリスさんには……万が一の際に、即応していただければ十分です。その範囲で構いません」


 押しつけがましさのない口調に、相手を気遣う配慮がにじんでいる。

 セシリアは小さく笑みを添え、さらに穏やかに言葉を重ねた。


「もちろん、舞踏会で踊ることも自由ですよ。

 有事にさえ応じていただければ、それで問題ありません」


 その一言に、アリスは思わず胸を撫で下ろし、肩を少し落とした。


「……なるほど。それなら――」


 ほっとしかけた、その瞬間だった。


「それに……」


 ティアナが、すっと言葉を差し挟む。


「噂では、アリスさんは“男性パート”がお上手だとか」


「な、なんでそんなこと知ってるんですか!?」


 声が裏返り、アリスは思わず身を乗り出した。

 頬は一気に赤く染まり、指先が小刻みに震える。


 セシリアは楽しそうに肩をすくめ、片手をひらひらと振ってみせた。


「ふふ……我々の情報網は、思っている以上に細かいのですよ?」


「こ、こわい……」


 アリスは反射的に身を引き、肩を抱くように腕を回す。

 その反応がよほど可笑しかったのか、ティアナはくすりと笑みをこぼし、まっすぐアリスを見据えた。


「ぜひ、私と踊ってください。

 両方のパートで」


「ええぇぇぇ!?

 両方って、どういうことですか!」


 耳まで真っ赤に染め、アリスは両手をぶんぶんと振って抗議する。

 必死なその姿は、どこか滑稽で、室内に和やかな空気を呼び戻していた。


 その横で、セシリアは少し困ったように眉を下げながらも、優しい笑みで説明を添える。


「実はティアナ様、ご自身は“男性パート”の方がお得意なのです。

 ですが……公女殿下と踊る相手が他の貴族となると、どうしても余計な問題が生じます。

 ですから――アリスさん、あなたにお願いできればと」


 ティアナは視線を逸らすことなく、アリスを見つめていた。

 頬はほんのりと朱に染まり、照れを隠すこともなく、その眼差しには真摯さとわずかな期待が宿っている。


 その視線に捕らえられ、アリスの抗議の言葉は喉の奥で止まった。

 逃げ場を失ったような感覚に、観念するしかないと悟る。


「……わ、分かりましたよ。

 ティアナ様がそこまで言うなら、両方でも何でも踊ります!」


 半ば投げやりで、けれどどこか覚悟を決めた声音。

 それを聞いた瞬間、セシリアは堪えきれないように笑みを浮かべ、ティアナもまた嬉しそうに目を細めた。


 アリスは両手を腰に当て、深いため息をひとつ吐く。

 すっかり二人に振り回された自分を自覚しながら、最後には苦笑いを浮かべるしかなかった。

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