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第八部 第一章 第6話

 セシリアは一度、静かにアリスへと視線を戻した。


 その灰青の瞳には、感情を排した理知の光が宿っている。

 そして隣に座るティアナへとわずかに体を向け、控えめながらも確認の意を込めて問いかけた。


「……ティアナ様。私から少し補足の発言をしても、よろしいでしょうか」


 室内に落ちる声は穏やかだが、職務に基づく慎重さがにじんでいる。

 ティアナはその意図を即座に察し、柔らかな微笑を浮かべて頷いた。


「ええ。構いません、セシリア」


 許可を得たセシリアは、背筋を自然に正し、改めて場に向き直る。

 声音は淡々としているが、その一言一言には論理と責任が込められていた。


「――改めて申し上げます。仮に、あの依頼が私のもとへ直接届いていたとしても、公式な場においては、広報事務局と同様の返答をせざるを得なかったでしょう」

 さらに続けて、

「それは“公女殿下”という立場に課される責務であり、対外的にも最も波風の立たない、無難な判断だからです」


 事実を事実として切り分ける、冷静で容赦のない言葉。

 それは言い換えれば、個人の好意や感情を排した「役職としての判断」だった。


 セシリアはそこで視線を上げ、まっすぐにアリスを見る。


「その点については……異論はありませんよね、アリスさん」


 一瞬、名を呼ばれたアリスは口を閉ざしたまま考え込むように目を伏せた。

 だが、すぐに小さく息を吐き、正直な表情で頷く。


「……ええ。その通りだと思います。公女殿下としての立場を考えれば、正面からお願いして簡単に引き受けられる話じゃない」


 率直で、誤魔化しのない同意。

 その言葉が室内に落ちた瞬間、レティアの胸の奥に小さな痛みが走った。


 ――やっぱり、無理なのかな。


 わずかに伏せられた彼女の瞳に、不安の影が差す。

 膝の上で重ねた指先が、ぎゅっと強く握り込まれ、関節が白く浮き上がった。


 セシリアはその変化を視界の端で捉えつつ、すぐには続けず、一拍の間を置いた。

 そして、慎重に言葉を選ぶように、声の調子をわずかに変える。


「ただし――。今申し上げたのは、“もしこの学院に不在であれば”という前提でのお話です」


 その一言に、空気が微かに揺れる。


「確かに、“公女殿下個人”を名指しでお願いするのであれば、王室庁を経由した正式な依頼でなければ受けられません。ですが……」


 そこで言葉を切り、セシリアは周囲を見渡した。

 厚い壁、簡素だが実用性を重視した家具、机上に並ぶ調査資料。

 ここが“王都の応接間”ではなく、“学院内の臨時捜査室”であることを、あえて強調するように。


「私たちは現在、調査任務のためとはいえ、この学院に滞在しています。食事も学院のものをいただき、通路を歩き、空き時間には訓練場をお借りしている。つまり今の私たちは、“王宮にいる公女殿下”ではなく、“学院に滞在するティアナ騎士団”として存在しているのです」


 声音がわずかに強まり、論理が積み上げられていく。


「その立場であれば、学院からの依頼を一概に“外部からの要請”として退ける方が、むしろ不自然でしょう。少なくとも、話を聞く余地はある」


 その瞬間、アリスの瞳がはっと見開かれた。

 頭の中で、点と点が一気に線になる。


「……つまり」


 一呼吸置いて、

「“ティアナ様個人”へのお願いじゃなくて、“学院に滞在しているティアナ騎士団”への依頼としてなら、話は成立する……そういうことですね?」


 確認するように放たれた問いに、セシリアは思わず破顔した。

 堅い理論の鎧を脱いだような、晴れやかな笑みを浮かべる。


「ええ。まさにその通りです、アリスさん」


 あまりにも明快な肯定。

 その一言に、隣で固まっていたレティアは完全に思考が追いつかず、ぽかんと口を開けたまま動けなくなる。


 ――え?

 え、ええ……?

 そ、そういう理屈になるの……?


 混乱がそのまま表情に浮かび、目は泳ぎ、肩は強張ったまま。

 その様子がよほど微笑ましかったのか、ティアナは思わず声を漏らして笑った。


「ふふ……レティアさん、顔に“まだ理解が追いついていません”って、はっきり書いてありますよ」


 からかうようでいて、どこまでも柔らかな声音。

 レティアは一気に顔を赤くし、耳の先まで熱くなる。


 だが――

 重苦しかった空気は、確かにここで一段、和らいでいた。


 しばらく沈黙を保っていたレティアだったが、やがて意を決したように、ゆっくりと顔を上げた。

 まだ喉の奥に引っかかるような緊張を残しながらも、学院生会の会計担当としての責任が、彼女の背中を押していた。


「……でも……その……“騎士団に依頼しても、だめだった”って……聞いています」


 声はかすかに震えていたが、逃げることはしなかった。

 視線は揺れながらも、確かにセシリアとティアナを捉えている。


 その言葉を受けたセシリアは、一瞬きょとんとした表情を見せ――次の瞬間、ふっと肩の力を抜いて笑みをこぼした。


「ふふ……それは、そうでしょうね」


 くすりと含み笑いを浮かべながら、彼女は軽やかに続ける。


「第三騎士団の“広報”に、“ティアナ様へ”と名指しで依頼したのなら、返事は“不可”しかありませんよ」

「むしろ、それ以外の回答が来たら、そちらの方が問題です」


 そう言って肩をすくめ、机の縁を指先で軽く叩く。


「あなたたち学院生会は、とても真面目ですね。だからこそ、正規ルートにこだわりすぎてしまう」

「正式な窓口である広報に依頼した、となれば――それはもう“公女殿下”としての扱いになります。そうなれば、王室の手続きを通せ、という話になるのは当然です」


 言葉の調子はあくまで穏やかで、責める色はない。

 むしろ、少しだけ茶目っ気が混じっていた。


「でも……もし最初から“ティアナ騎士団として”という形で依頼を投げていたら、少なくともこの部屋まで話が届く可能性はありました」

「名指しは、だめ。そこが分かれ道でしたね」


 最後に、セシリアは悪戯っぽく片目をつむり、ほんの一瞬だけウインクしてみせる。


「まあ……正直に言えば、私やレイラが受け取っていたら。せめて“ご本人はどうなさいますか?”くらいの確認は、回したかもしれませんけど」


 そのあまりにも軽やかな言いぶりに、レティアは言葉を失った。


 (な……なんだか、すごく簡単に言ってるけど……!)


 両手で頬を押さえ、赤くなった顔を隠そうとするが、動揺は隠しきれない。


 横で見ていたアリスは、肩をすくめながら苦笑し、ちらりと「ほらね」とでも言いたげな視線を送ってくる。


 そのやり取りにさらに混乱するレティアをよそに、ティアナはついに堪えきれなかったように、柔らかな笑い声を零した。


「ふふ……もう。セシリアは、本当に意地悪なのですから」


 上品で楽しげなその声に、張り詰めていた室内の空気が、一気に和らぐ。


 その変化に気づいたレティアも、ようやく肩を落とし、深く息を吐いた。


「……はぁ……」


 胸の奥を締め付けていた緊張が、少しだけほどけていく。

 頬の火照りは残っているが、呼吸はようやく落ち着いていた。


 (……よかった。少しは、ちゃんと話せそう……)


 膝の上で指を組み直し、レティアは小さく背筋を正す。


「――それで。ご相談、というのは?」


 場が落ち着いたのを見計らい、セシリアが穏やかな笑みを浮かべて問いかける。

 ティアナも静かに頷き、興味深そうにレティアへ視線を向けた。


 その視線に、心臓が再び大きく跳ねた。

 けれど――今度は、逃げなかった。


 (……学院生会の一員として。ちゃんと、伝えなきゃ……!)


 レティアは大きく息を吸い込み、顔を上げて二人をまっすぐに見据える。


「……その……今回の学院舞踏祭の開催式で――」


 一拍。

 視線が揺れそうになるのを必死にこらえ、両手を強く握りしめる。


「ティアナ様に……開会のご挨拶を、お願いしたいのです」


 言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に溜め込んでいた緊張が一気に熱となって溢れ、頬を染め上げた。


「学院生会としても……学院の皆にとっても。ティアナ様のお言葉は、とても大きな意味を持つはずです。ですから……どうか。このお願いを、お受けいただけないでしょうか」


 そう言って、深く頭を下げる。


 その背を、アリスは隣で黙って見守っていた。

 ティアナとセシリアもまた、真摯な眼差しでその姿を受け止めている。


「……ふむ」


 ティアナがわずかに目を細め、セシリアと視線を交わす。

 二人の間に、短い沈黙が流れた。


 やがて、セシリアが口を開く。


「“ティアナ騎士団の誰か”という形であれば……そのお話、お受けしてもよいでしょう」


「……えっ」


 思わず、レティアの口から声が零れた。

 断られるかと思っていたからこそ、予想外の言葉に思考が追いつかない。


「えっ……どういう、こと……?」


 掠れた声で呟く彼女の横から、アリスが苦笑混じりに口を挟む。


「レティア。つまりね、まずは学院生会から、“ティアナ騎士団”宛てに正式な招待状を出すんだよ。内容は――舞踏祭の開会式で、騎士団の代表者の方にご挨拶をお願いしたい、って」


 アリスは微笑みながら、

「絶対に名指しはしないこと。そのうえで、この部屋に直接持ってくる」


「そ、そうすれば……?」


 身を乗り出すレティアに、アリスはにかっと笑って答える。


「しばらくしたら、返事の手紙が来る。それを学院生会に持ち帰れば――当日は、きっと騎士団の団長さんが挨拶に来てくれるよ」


「……なるほど」


 ようやく腑に落ちた、その瞬間。

 ティアナが申し訳なさそうに微笑み、言葉を添えた。


「ごめんなさいね、レティアさん。こんな私でも……立場は立場ですから。正面から名指しでお受けするわけにはいかないのです。だから、こうして“隙間を縫う”ようなやり方でなければ……どうしても、難しくて」


 セシリアも柔らかく笑い、少しだけ肩をすくめる。


「先ほどは、少し意地悪に聞こえたかもしれませんが……悪気はありませんよ? むしろ普通です。初めて公女殿下を前にして、冷静に話せる方のほうが珍しいくらいですから」


 その言葉に、レティアははっと息を呑み、肩から力が抜けていくのを感じた。

 胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ和らいでいく。


「……そっか。じゃあ……」


 小さく息を吸い込み、レティアは顔を上げた。

 頬はまだ赤く火照っているが、その瞳には新しい光が宿っている。


「ちゃんと、正式に準備します! 学院生会の代表として……きちんと招待状を整えて、持ってきます」


 言葉にすることで、自分の迷いを断ち切るように。


 その姿を見て、アリスはにやりと笑い、

 ティアナとセシリアもまた、静かに、しかし確かに満足げに頷いた。


 「……それじゃあ、私、すぐに戻って招待状を準備してきます!」


 レティアは勢いよく椅子から立ち上がった。


 張りつめていた表情にはまだ緊張の名残が色濃く残っているが、その瞳の奥には、学院生会の一員として責務を果たそうとする確かな意志が灯っていた。

 背筋を正し、両手を揃えて深々と一礼すると、裾を揺らして慌ただしくも真剣な足取りで出口へ向かう。


 その動きに連なるように、椅子の脚がかすかに床を擦り、室内に短い余韻を残す。

 レティアの背中は少し小さく、けれど逃げるようではなく、前へ進む者の姿勢だった。


 その背を見送りながら、アリスもまた腰を浮かせ、自然な流れで扉へと歩み出す。

 だが、そのとき――


「アリスさん。もし少しお時間がありましたら、このまま残っていただけませんか?」


 不意に掛けられたセシリアの声は、静かで柔らかく、しかし確かな意図を帯びていた。

 その落ち着いた声音に、アリスは思わずきょとんと目を瞬かせる。


 足を止め、一拍置いてから振り返り、今度は扉の前に立つレティアへ視線を向ける。


「レティア、どうする?」


 問いかけられたレティアは、取っ手に手をかけたまま、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

 唇をきゅっと結び、迷うように視線を落とすが、やがて小さく息を吐き、努めて明るい笑みを作る。


「大丈夫。私もすぐ戻ってくるから……逆に、アリスがここにいてくれたほうが安心かも」


 その声音は軽やかに装われていたが、内側には「一人でもやり遂げなければならない」という覚悟と、「親友が待っていてくれる」という確かな支えが同時に滲んでいた。


 その言葉を聞き、ティアナとセシリアは互いに視線を交わし、わずかに微笑んで頷く。


「では、それまでアリスさんをお借りしますね」


「ええ。どうぞご心配なさらずに」


 二人の穏やかな声が重なり、張りつめていた室内の空気が、少しだけ柔らいでいく。


 レティアはそのやり取りを耳に留めながら、胸の奥にかすかな緊張を残したまま、深く一度だけ呼吸を整えた。


 ――大丈夫。やれる。


 誰にも聞こえないよう、心の中でそう言い聞かせる。

 そして背筋を伸ばし、扉にかけた手に力を込めると、最後にもう一度だけ姿勢を正し――


 静かに扉を開け、部屋の外へと歩み出ていった。


 残された室内には、扉が閉まる小さな音とともに、次の時間へ向かう静かな予感だけが漂っていた。

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