第八部 第一章 第4話
しばらく黙り込んで考え込んでいたアリスは、やがて胸の奥で何かが噛み合ったように、ふっと表情を明るくした。
迷いが霧のように晴れ、次の瞬間には、思い切りよく椅子から立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、小さく乾いた音が食堂の片隅に響いた。
朝のざわめきに溶け込みながらも、その音はレティアの耳には妙に大きく届く。
「――じゃあ、行こっか」
言い切るような声だった。
同時に、アリスの白くしなやかな手が、ためらいなくレティアの前へと差し出される。
朝日を受けた指先は柔らかく光を帯び、けれどそこには確かな力と意志が宿っていた。
迷いを許さない、前へ進むための手。
「え……?」
レティアはきょとんと目を瞬かせ、思考も身体も一瞬で止まってしまう。
柔らかなパンを摘んでいた指先が宙で止まり、かすかに震えた。
差し出されたアリスの手を、ただ見つめることしかできない。
胸の奥に、じわりと緊張が広がり、鼓動が一拍だけ早まる。
そんな彼女の様子を見て、アリスはにかっと眩しい笑みを浮かべた。
頬にえくぼを刻み、からかうようでいて、どこか頼もしい声を投げる。
「ほら、行動あるのみ!」
言うが早いか、アリスはためらうレティアの手を、ぐっと掴んだ。
柔らかいが確かな力で、一息に引き上げる。
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて声を上げたものの、すでに体は立ち上がらされていた。
急な動作にバランスを崩し、背後の椅子がぐらりと傾く。
レティアは思わず手を伸ばし、かろうじて椅子の背を押さえて元に戻す。
頬は一気に熱を帯び、心臓は不意打ちを受けたように早鐘を打っていた。
そのまま、テーブルに残された朝食の皿とカップに視線が向く。
はっとして息を整え、慌てて片付けに取りかかる。
カチャリ、と陶器が触れ合う音が、彼女の落ち着かない心を映すように響いた。
指先は忙しなく動き、動作はどこかぎこちない。
一方のアリスは、余裕の笑みを浮かべたまま腕を組み、じっと待っている。
焦る様子は微塵もなく、頼もしさと気楽さが同居したその立ち姿は、朝の光の中でひときわ目を引いた。
やがて、片付けを終えたレティアを待ちきれない様子で、アリスが一歩踏み出す。
その背中に、ためらいがちな小さな声が追いかけた。
「……あの、どこに行くの?」
不安をわずかに滲ませた問いかけだった。
アリスは足を止め、振り返る。
金色の髪がさらりと揺れ、窓から差し込む朝の光を受けてきらめく。
その顔には迷いの影など一切なく、満面の笑みが花のように咲いていた。
「もちろん、ティアナ様のところ!」
弾むように告げられた一言に、レティアの足はぴたりと止まる。
瞬間、頬から耳の先まで一気に真っ赤に染まり、全身がかぁっと熱を帯びた。
「え、ええっ!? い、いきなりそんな……!」
裏返った声が食堂に響き、慌てて両手を胸の前でばたばたと振る。
指先は小刻みに震え、呼吸は乱れ、まるで巨大な舞台へ押し出される直前のようだった。
「……ちょっと待って! 心の準備が……!」
しどろもどろに抗議しながら視線を泳がせる。
鼓動が耳の奥でどくどくと鳴り、今にも身体が固まってしまいそうだった。
だが、アリスはそんな様子などお構いなしに、軽やかに肩をすくめる。
くすりと笑みをこぼし、まるで子供を諭すような、それでいて背中を押す声で言った。
「なに言ってるの、レティア。準備なんていらないよ。会いに行って、ちゃんとお願いすればいいだけ!」
「そ、そんな簡単に言わないでよ!」
頬をぷくりと膨らませて抗議するが、その仕草は必死さと愛らしさが入り混じり、どうしても迫力を欠いてしまう。
アリスはその手を離さない。
ぐいっと引き寄せ、ためらいなく歩を進める。
否応なく引かれる形で、レティアもまた足を踏み出した。
心臓はまだ早鐘を打ったままだが、その奥で、逃げ場のない覚悟が静かに芽生え始めていた。
朝の食堂を抜ける二人の背中を、陽光とざわめきが包み込む。
こうして、思いがけない勢いのまま、運命の扉は音もなく開かれようとしていた。
しぶしぶながらも一歩ずつ進むその姿は、まるで駄々をこねる子供を引っ張っていく姉と、その後ろで顔を真っ赤にしてついていく妹のようだった。
朝食で賑わう食堂を背に、二人の影が床に並んで伸びていく。
ざわめきの残響がまだ耳に残る中、学院の廊下に響くのは、アリスの明るい笑い声と、それに重なるレティアの小さな抗議だった。
その様子はどこか可笑しく、同時に微笑ましい。言葉を交わさずとも伝わる親しさが、二人の間に確かに流れていた。
食堂を出た二人は、学院の長い石畳の回廊へと足を踏み入れる。
高い位置に並ぶ窓から朝の陽光が斜めに差し込み、古びた石壁に柔らかな金色の影を落としていた。
柱の間には舞踏祭に向けた装飾が仮留めされ、淡い色の布が空気を含んでわずかに揺れている。
花壇には新しく植え替えられた花々が整然と並び、緋色、白、淡い紫の花弁がそよ風に揺れていた。
学院生たちが行き交い、リボンや旗、装飾用の箱を抱えて忙しそうに駆け抜けていく。
笑い声や指示の声、石畳を踏み鳴らす靴音が重なり、回廊全体は華やかな活気に満ちていた。
だが――その流れの中で、レティアの足取りだけがやたらと重い。
今にも石畳に根を張ってしまいそうなほど、歩みは遅く、慎重だった。
「ど、どうしよう……もし断られたら……。それに……どうやって切り出せばいいの……」
俯いたまま、胸の奥から絞り出すように小声で呟く。
胸の前で強く組まれた指先は白くなるほど力が入り、抑え込もうとする鼓動は、それでも耳の奥で大きく響いていた。
肩はわずかに震え、背筋は緊張で強張っている。
一方その隣で、アリスはというと――。
両手を頭の後ろに組み、軽やかな足取りで石畳を踏みしめていた。
視線は前を向いたまま、歩幅も一定で、まるで散歩にでも出かけているかのようだ。
「なーに、レティア。大丈夫、大丈夫。ティアナ様なら、ちゃんと話せば分かってくれるって」
その声音は気楽で朗らか。
不安や迷いの影は微塵も感じられず、朝の空気に溶けるように軽い。
その余裕に、レティアは思わず足を止め、目を大きく見開いた。
回廊を行き交う学院生たちが追い越していく中、彼女だけが取り残されたように立ち尽くす。
「アリスは簡単に言うけど……! これ、学院全体のことなんだからね!? 失敗したら、学院生会の顔に泥を塗ることになるかもしれないのよ!」
切羽詰まった声が、思わず少しだけ大きくなる。
慌てて口元を押さえ、周囲を気にするが、胸の内に溜まった不安は簡単には引っ込まなかった。
「うんうん、分かってる分かってる」
アリスは振り返り、にこにこと笑いながら頷く。
深刻な言葉を真正面から受け止めつつも、その調子はどこか軽妙で、レティアの焦燥をふわりと受け流してしまう。
「……分かってないでしょ」
レティアは頬を赤らめ、ぷいと顔を逸らした。
声には苛立ちと羞恥が入り混じっている。
だがその裏には――アリスの言葉にすがりたいという、素直な本音が隠れていた。
不安を悟られたくなくて、唇をきゅっと結ぶ。
それでも、隣を歩くアリスの明るさに、心の奥の硬い殻が少しずつほぐれていく。
ぎこちない足取りながらも、レティアはまた一歩を踏み出した。
視線はまだ伏せられたままだが、歩調は確かにアリスと揃い始めている。
アリスは楽しげに鼻歌を口ずさみながら歩く。
その軽やかな旋律が回廊に反響し、緊張に押し潰されそうなレティアの心を、少しずつ引き上げていく。
――一方は、胸の奥で不安を抱えながら必死に歩みを進める少女。
――もう一方は、親友の不安を知った上で、あえて気楽に振る舞い、その背中を押す少女。
対照的な二人の姿は、石畳の回廊に並んで伸びた影となり、
鮮やかな朝の光の中へと、静かに溶け込んでいった。
二人が辿り着いたのは、学院西棟の最奥――。
普段はほとんど使われることのない会議室を改装し、現在はティアナとその騎士団が調査拠点として利用している臨時捜査室だった。
長い回廊の突き当たり。
他の部屋とは明らかに異なる空気が、そこだけ濃く淀んでいる。
厚い木製の扉には金属製の補強板が幾重にも打ち付けられ、蝶番や取っ手にも魔導加工が施されていた。
扉の前には二名の騎士が直立不動で立っている。
磨き上げられた銀色の鎧は朝の光を受けて鈍く反射し、装甲の継ぎ目一つひとつに隙はない。
腰に佩いた剣はわずかな動きにも即応できる角度で構えられ、鞘越しであっても刃の冷たさが伝わってくるようだった。
彼らの視線が廊下をゆっくりと走るたび、ただそれだけで周囲の空気が引き締まり、温度が一段低くなったかのように感じられる。
ここが単なる学院の一室ではなく、王国の威信と責務が持ち込まれた場所であることを、無言の圧が雄弁に物語っていた。
「……ここ、だよね?」
レティアは足を止め、喉の奥がひりつくような感覚を覚えながら、かろうじて声を絞り出した。
唾を飲み込もうとしても口内はからからに乾き、指先は小刻みに震えている。
胸の奥では心臓が暴れ馬のように跳ね回り、その鼓動が耳の内側を強く打っていた。
その横で、アリスは驚くほど気楽な調子で頷く。
「うん、そうだよ。ほら、さっきまでレティアが『絶対お願いしたい』って言ってた相手の部屋」
「わ、分かってるけど……!」
レティアは思わず声を上げ、胸元に手を当てた。
浅く乱れそうになる呼吸を必死に整えながら、視線を扉から逸らそうとする。
ここはただの応接室ではない。
臨時捜査室――学院内で発生した異常事態を調査するために設けられた、公務の最前線だ。
扉一枚向こうは、すでに私的な領域ではなく、王国の責務が支配する空間。
学院生の立場で、軽々しく踏み込んでいい場所ではないことを、理性が痛いほど理解していた。
「し、失敗したらどうしよう……。学院の顔に泥を塗るようなことに、なったら……」
胸中で膨れ上がる不安が、思わず言葉となって零れ落ちる。
それを聞いたアリスは、肩をすくめるようにして軽く笑った。
「大丈夫だって。もし失敗したら、私が隣で適当にごまかしてあげるから」
あっけらかんとした口調。
その横顔には緊張の影など一切なく、むしろこれから何か面白いことが始まるのを楽しんでいるようにすら見えた。
「ごまかすって……!」
思わず反射的に突っ込みを入れる。
だが、そのやり取りのほんの一瞬、張り詰めていた胸の糸が少しだけ緩んだ。
アリスの笑顔は、いつもこうしてレティアの心を軽くしてしまう。
しかし――。
ふと視線を上げた瞬間。
扉の前に立つ騎士の一人と、目が合った。
鋭利な刃のような眼光。
一瞥されただけなのに、背筋が凍りつき、全身の血が一瞬で冷えた気がした。
冷たい汗が背中をつうっと伝い、喉がきゅっと塞がれる。
肺に吸い込む空気さえ、重く感じられた。
「……やっぱり、無理かもしれない」
声は掠れ、今にも消え入りそうだった。
足が竦み、無意識のうちに一歩、後ろへ下がりそうになる。
その時――。
アリスが、そっとレティアの手を握った。
驚くほど温かく、そして確かな力のこもった手だった。
その感触に、レティアははっとして顔を上げる。
すぐ傍で、アリスがにっこりと微笑んでいた。
その瞳には揺らぎがなく、迷いも怯えもない。
まっすぐで、強くて、いつも通りの光が宿っている。
「ほら! ここまで来たんだし」
一瞬、指に込められる力がわずかに強まる。
「あとはノックするだけだよ」
その一言は、張り詰めていたレティアの胸を、そっと前へ押し出した。
震えはまだ消えない。
不安も恐怖も、決してなくなったわけではない。
それでも――。
握られた手の温もりが、確かにそこにあった。




