第八部 第一章 第3話
数日後の朝。
学院の食堂は、朝の光と人の気配で満ちていた。高い窓から差し込む柔らかな朝日が、磨き上げられた木製のテーブルや床板を淡く照らし、白い湯気を立てる料理の皿に反射してきらりと揺れる。
大広間にはすでに多くの学院生が集い、皿やカトラリーの触れ合う音、パンを割る乾いた音、抑えきれない笑い声や挨拶が絶え間なく交錯していた。舞踏祭を目前に控えた学院特有の浮き立つ空気が、朝食の時間でさえもどこか華やいでいる。
その窓際の一角で、アリスとレティアは並んで席に着いていた。
白い陶器の皿には焼き立てのパン、香草を添えた卵料理、温かなスープが盛られ、淡い湯気が立ち上っている。
アリスは椅子に深く腰掛け、身振り手振りを交えながら、昨日の出来事や学院内の噂話を楽しげに語っていた。
言葉に合わせて表情はくるくると変わり、笑みや驚きが素直に浮かぶその様子は、窓から差し込む陽光そのもののように場を明るくしている。
「それでね、クラリスがまた新しい結界術式を試してさ。今度は結界の内側で空気が逆流したんだよ」
「……逆流?」
「そう! 一瞬で風が後ろから吹いてきて、髪が全部持っていかれたの。私なんて、しばらく鳥の巣みたいだったんだから」
アリスは自分の後頭部を指し示し、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「……ふふ、そう……」
レティアはパンを小さく千切りながら、かすかに笑った。
だが、その笑みは長く続かず、視線は自然と窓の外へと逃げてしまう。
アリスはその変化を見逃さなかった。
小さく唇を尖らせる。
「えー。普段なら『見たかった!』って突っ込んでくれるとこでしょ」
「……うん、そうね」
どこか上の空の返事。
テーブルの上に、わずかな沈黙が落ちる。
アリスは肩をすくめ、すぐに別の話題を投げかけた。
「じゃあさ、舞踏祭の装飾。中央広場に大きな花冠を飾るって聞いたんだけど」
「……そうなの?」
「うん。絶対レティア好みだと思ったんだけどな。白と淡い青を基調にするんだって」
レティアは頷くが、その反応はやはり薄い。
「……そうね」
アリスは少し間を置き、さらに続ける。
「ほら、昨日のシチューも美味しかったじゃない。あれ、葡萄酒で煮込んでたんだって」
「……ええ」
「私、三杯目いけたかも」
冗談めかした声にも、レティアの返事は短い。
彼女の手元では、ちぎられたパンが無意識のうちに小山のように積み上がっていく。
「……ねえ、レティア?」
堪えきれず、アリスが声を落とす。
その声音には、はっきりと心配が滲んでいた。
「どうしたの? なんかずっと上の空。らしくないよ」
呼びかけに、レティアはびくりと肩を揺らす。
慌てて顔を上げ、笑みを取り繕った。
「そ、そんなことないわよ。ただちょっと……考え事をしてただけ」
「考え事?」
アリスは半眼になり、親友ならではの遠慮のない口調で続ける。
「どうせ、また全部ひとりで抱え込んでるんでしょ。朝からずっと様子変だよ」
「……アリスったら、鋭いんだから」
レティアは頬を赤らめ、パンを置いた指先をぎゅっと握りしめた。
その様子を見て、アリスは小さくため息をつき、わざと大げさに肩を広げてみせる。
「ほら、早く吐いちゃいなよ。聞くぐらいなら、いくらでも付き合うんだから」
その言葉に、レティアの頬がみるみる赤く染まっていく。
唇を動かそうとしては止まり、視線を彷徨わせ、言葉を探しているのがありありと分かった。
「レティア?」
「……っ!」
小首を傾げるアリスに、ついにレティアは覚悟を決めたように、勢いよく身を乗り出した。
「ちょ、近っ!? ちょっとレティア!」
アリスは思わず椅子ごと後ろにのけぞり、目を見開く。
鼻先が触れそうなほど詰まった距離に、心臓が大きく跳ねるのを感じながら、慌てて声を潜めた。
「ど、どうどう……落ち着けってば。馬じゃないんだから!」
「もうっ!」
レティアはむくれながらも、その必死な様子に思わず吹き出し、肩の力が抜ける。
「……ほんと、あなたってずるいわね」
ようやく落ち着きを取り戻したレティアは、両手を膝の上に重ね、深く息を吸い込んだ。
そして、昨夜の学院生会での出来事を、ゆっくりと語り始める。
「この前ね……学院生会で、舞踏祭当日の進行について最終確認をしたの」
「うん」
「例年通り、会長が開会挨拶をして、その後に学院長の祝辞がある予定だったんだけど……」
言葉を切り、レティアはアリスを真っすぐに見つめる。
「――でも今年は特別に、学院にティアナ騎士団が駐在してるでしょう?」
「……ああ、うん」
「それで、もしできるならティアナ様に、来賓としてご挨拶いただけないかって話が出たの」
アリスはわずかに目を見開き、パンを持つ手を止める。
レティアはその反応を確かめるように、小さく頷いた。
「けれど……返答は“辞退”だったわ」
「……辞退?」
「理由ははっきりしていて、騎士団はあくまで学院に調査にきているだけで、行事に直接関与する立場じゃないって」
言葉を選びながら、レティアは続ける。
「ティアナ様も、公女殿下としての責務を果たすなら、それは王室庁を通すべきだとおっしゃったそうよ」
話が進むにつれ、レティアの表情には疲労と戸惑いが滲んでいく。
「結局、外部から権威を借りることはできなかった。だから学院側で、“開会の場にふさわしい人”を立てなきゃならなくなったの」
「……なるほど」
「でも……誰が相応しいのか、会議では結論が出なかった」
そこまで語ると、レティアは小さく唇を噛み、俯いた。
「……だから、私、ずっと考えてたの。誰なら、この学院舞踏祭の幕を開けるに相応しいのか。誰なら、みんなが納得できるのかって」
「……ティアナ様が、そんなふうに?」
アリスの声は低く、わずかな引っかかりを帯びていた。
一瞬、遠くを見るように視線を逸らす。
(あの方なら、もっと柔らかく、もっと相手を思いやった言葉を選ばれるはず。“差し控えるべき”なんて、直接おっしゃるだろうか?)
疑念を抱いたまま、アリスはレティアへと視線を戻す。
「レティア。その言葉……ティアナ様ご本人が直接言ったの?」
「……え?」
「それとも、騎士団の誰かを通して伝えられたの?」
唐突な問いに、レティアはわずかに戸惑い、瞬きをする。
「……正式な文面で、騎士団から通達されたの。だから、実際にティアナ様が直接そう言ったかどうかは、私にも分からない」
アリスは小さく唇を引き結び、顎に手を添えて考え込む。
(……やっぱり。あの方が本当に言ったとは思えない。なら、まだ望みはある)
思索を振り払うように、アリスは軽く息を吐き出した。
「ふーん……つまりさ」
「……?」
「ティアナ様に、開会式で挨拶してもらいたいってことでしょ?」
あまりにもあっさりと核心を突かれ、レティアは思わず目を丸くする。
「そ、そう! それなの!」
力強く頷いた声には、昨日から抱えていた重荷が、ほんの少し軽くなったような響きが宿っていた。
力強く頷いたレティアの声には、昨日から胸の奥に溜め込んできた重荷が、ほんの少し軽くなったような響きが宿っていた。
肩に入っていた力がわずかに抜け、呼吸も浅いものから、ようやく人心地のする深さへと戻っていく。
そして彼女は、パンの欠片を指先で転がしながら、少しだけ逡巡する。
言葉を選ぶように唇を噛み、やがて意を決したように、ぽつりと付け加えた。
「……それにね、フォイナ様のことも考えてるの」
声は抑えめだったが、そこにははっきりとした意志があった。
「今はミラージュ王国に帰国しているとはいえ、正式にはまだ学院の学院生でしょう」
「だったら……学院生代表として、開会式で挨拶をお願いできないかなって」
「ずっと、心のどこかで思ってたの」
語るうちに、レティアの頬はほんのりと赤みを帯びていく。
無意識のうちに、膝の上の布地を指先でそっとつまみ、軽く引き寄せる。その仕草には、彼女自身も自覚しきれていない緊張と期待が滲んでいた。
視線は伏せられたままだったが、その声音には確かな責任感があり、そして――
「彼女なら、きっと応えてくれるはずだ」という、淡く、しかし揺るがない信頼が滲んでいた。
それは、友人としての思いだけではない。
学院生会会計として、この舞踏祭を成功させなければならないという使命感。
その二つが、確かに彼女を突き動かしていた。
アリスは何も言わず、静かにその横顔を見つめていた。
レティアの言葉が途切れると、アリスは腕を組み、少しだけ視線を落として深く考え込む。
フォイナ。
ミラージュ王国の公女でありながら、学院に留学してきた少女。
その気高さも、立場に甘えない真摯さも。
王族としての矜持と、学院生としての誠実さを両立させようとする姿勢も。
アリスは、すぐそばで見てきたからこそ、よく知っている。
あの時の決断。
学院で共に過ごした日々。
まっすぐで、決して目を逸らさない眼差し。
幾つもの記憶が、朝の光の中で静かに脳裏をよぎる。
「……確かに」
やがて、アリスはゆっくりと口を開いた。
その声音は思索を滲ませつつも、どこか肯定的な色を帯びている。
「ミラージュに帰国しているとはいえ、正式にはまだ学院の学院生だし」
「立場的にも、“学院生代表”っていうのは筋が通ってると思う」
言葉の端々には、はっきりと賛同が含まれていた。
だが同時に、その口調には慎重さも残されている。
「ただ……帰国している以上、相手は王室になるよね」
「そうなると、学院生会が直接コンタクトを取れるルートって、あるの?」
その問いかけに、レティアははっと息を呑む。
瞳が揺れ、次の瞬間には、視線がすっと落とされた。
「……そうよね」
声は、先ほどよりも小さくなる。
「私たちに……そんな権限、ないよね……」
言葉が途切れると同時に、彼女の肩がほんのわずかに落ちた。
学院生会役員として、これまで数多くの調整や決断を担ってきた自負。
その影に隠れていた、人としての不安が、ほんの一瞬だけ顔を覗かせる。
朝の食堂には、相変わらず賑やかな音が満ちている。
だがその喧騒とは裏腹に、二人の間には、次の一手を探る静かな思考の時間が流れていた。




