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第八部 第一章 第2話

 その時だった。

 ユリウスが一歩踏み出し、硬質な音を立ててレティアの机上に数枚の書類を置いた。


 ――ぱしり。


 上質な羊皮紙が重なり合う乾いた音が、会議室の空気を一瞬で引き締める。

 そこに記されているのは、舞踏祭全体の予算管理に直結する重要な見積もり票。精緻な文字列と数字の羅列が、整然と並んでいた。


「レティア。この機材費の見積もりについて確認したい」


 低く抑えられた声が、鋼のように響く。


「舞台照明と音響装置の増設で、全体予算が約五%上振れしている。許容範囲かどうか、判断を聞かせてほしい」


 その言葉に、周囲の委員たちの動きがぴたりと止まる。

 書類をめくっていた手、メモを取っていたペン、椅子を引く足音――すべてが一瞬、静止した。


 レティアは即座に背筋を正し、差し出された書類へと視線を落とす。

 白い指先が迷いなく紙束をめくり、必要なページを瞬時に探り当てた。


 ぱら、ぱら、と紙の端が軽く鳴る。


「……照明用魔導灯の増設分と、音響増幅器ですね」


 静かに、しかし即断即決の調子で言葉を紡ぐ。


「予定よりも規模の大きい演目が増えた影響でしょう。特に後半の合同演目、魔術演出の光量が想定以上です」


 彼女の声音は落ち着いている。

 だがその奥には、数字の重みを一切見逃さぬ会計担当としての鋭さがはっきりと宿っていた。


 その時――。


 ばたばた、と慌ただしい足音が廊下から響き、扉が勢いよく開く。


 機材担当の学院生会委員、マーカス=エルドリッジが、分厚い書類束を抱えて駆け込んできた。

 額には薄く汗が浮かび、呼吸はやや荒い。


「す、すみません! 追加分の件で……!」


 切迫した声が、その場の緊張をさらに高める。


「舞台演出班から強い要望がありまして……『この照明と音響がないと、演目の一部が成立しない』と」


 言葉の端々から、現場で受けてきた圧力と責任の重さが伝わってくる。


 レティアは書類から顔を上げ、真正面からマーカスを見据えた。


「……本当に必要なのね?」


 短い問い。

 だが、その一言には逃げ道がない。


 蒼い瞳が、真っ直ぐにマーカスを射抜く。

 一瞬、彼は言葉を詰まらせたが、すぐに歯を食いしばるようにして力強く頷いた。


「はい! 最低限の本数まで削っています。余分は一切ありません」


 そして一息置き、さらに続ける。


「搬入も、舞踏祭前日の午前中には必ず完了させます。人員も手配済みです」


 必死さと覚悟がにじむ声音に、場に漂っていた硬質な緊張が、わずかに和らいだ。


 ユリウスはその様子を静かに見極めるように、顎に手を添える。

 やがて、指先で机の縁を軽く叩いた。


 ――とん。


 小さく、しかし明確な音。


「よし。では、搬入スケジュールを最終確認しよう」


 決断を告げる声音だった。


「レティア。費用の繰り回しは任せる」


「了解しました」


 即答だった。


 レティアは数枚の帳票を引き寄せ、ペンを取り上げる。

 紙面に視線を落としたまま、計算を走らせる。


 ペン先が紙を滑る音が、短く鋭く響いた。


「装飾費の一部を削減すれば、十分に補填できます」


 淡々と、だが淀みなく。


「来賓席の華やかさは維持します。その代わり、冗長な装飾を削ぎ落としましょう。……問題ありません」


 そして顔を上げ、まっすぐにマーカスを見る。


「マーカス。搬入は確実に。遅延は絶対に許されないわ」


 視線を受け止めたマーカスは、背筋を伸ばし、力強く答えた。


「任せてください! 現場の責任は、僕が必ず果たします!」


 その言葉に、ユリウスはわずかに目を細めた。

 満足と信頼を含んだ表情だった。


 場の空気は再び整然とした秩序を取り戻し、会議室には確かな一体感が生まれていく。

 舞踏祭を目前に控えた学院生会は、確実に一つの方向へと進んでいた。


 ――その直後。


 控えめなノックの音が響き、扉が静かに開く。


 庶務担当、エリナ=フォルセティが姿を現した。

 淡い栗色の髪を後ろでまとめ、両腕には厚みのある封筒の束を抱えている。蝋印の押された白封筒が、きっちりと揃えられていた。


「会長、副会長、会計担当」


 落ち着いた声で呼びかける。


「招待状の最終確認をお願いします」


 彼女は机の上に封筒を丁寧に並べながら続けた。


「王都貴族宛て、地方領主宛て、すべて発送準備は整いました。来賓対応についても、当日は応接担当を五名配置予定です」


 ユリウスは片手で封筒の束を軽く押さえ、鋭い眼差しで蝋印を確認する。

 各家の紋章を瞬時に識別する様子は、軍務に携わる将校の査閲を思わせた。


 隣では副会長リヒトが既に羽ペンを走らせ、応接人員の割り振りを書き留めている。

 迷いのない筆致だった。


「到着時間にばらつきが出た場合、待機室での応接が必要になるな。配置換えは可能か?」


 ユリウスの問いに、エリナは一拍も置かず頷く。


「はい。交代要員を含めて名簿は組んであります。配置換えにも即応できます。返答状は発送後、随時取りまとめてご報告します」


 その即答に、会議室の空気がわずかに緩んだ。


「よし」


 ユリウスは短く頷き、資料の端を整える。

 冷徹な視線の奥には、庶務担当への確かな信頼が見え隠れしていた。


 横でそれを聞いていたレティアは、ようやく小さく安堵の息を吐く。

 予算調整という重圧の中で、庶務が万全に機能していることは、何より心強かった。


 ユリウスは再び机上の封筒に視線を落とし、蝋印に反射する微かな光を一瞥する。

 そして鋭く、副会長へと顔を向けた。


「リヒト。招待状リストの最終チェックは君に任せる。席次や来賓の顔ぶれに誤りがあれば、式典そのものに支障が出る。念には念を入れてほしい」


「承知しました」


 リヒト=クロイツベルクは即答した。

 その声に迷いはなく、横顔には凛とした静けさが宿っている。


 羽ペンの穂先が再び紙を擦る音が、

 会議室の張り詰めた空気を、さらに研ぎ澄ませていった。


 その流れで、四人――会長ユリウス=ノイエラント、副会長リヒト=クロイツベルク、会計担当レティア、そして書記のミーナ=アルベルティが、会議室中央に据えられた長机を囲んだ。

 高い天井に吊られた魔導灯は夕刻仕様へと光量を落とし、窓越しには傾き始めた陽が淡く差し込んでいる。分厚いカーテンの縁取りは金色に縁取られ、揺れる光が机上の書類の白を柔らかく染めていた。

 机の上には、分厚く束ねられた計画書、演目表、招待状の控え、そして未整理の付箋が折り重なるように積まれている。紙とインクの匂いが混じった空気には、舞踏祭を目前に控えた緊張と責務の重みがはっきりと漂っていた。


「さて、次は当日の開催式についてだ」


 ユリウスが低く、しかし会議室の隅々まで通る声で切り出す。

 その一言に、空気がぴんと張り詰めた。


 隣に座るミーナは即座に背筋を正し、羽根ペンをすっと構える。

 指先はわずかに震えていたが、議事録用の紙を整える動作には一切の無駄がなく、真剣な眼差しが紙面へと落とされた。


「例年通りであれば、学院生会長による開会挨拶に続き、学院長の祝辞。その後に来賓代表の簡単な言葉を挟む流れだ」


 ユリウスは指先で資料を押さえながら、淡々と確認していく。


「だが、今年は状況が違う」


 そこで、リヒトが静かに口を開いた。

 眼鏡の奥の瞳がわずかに曇り、声音には普段の冷静さの奥に、抑えきれぬ苦味が滲んでいる。


「今年は特例として、ティアナ騎士団が学院に駐在している。その点を踏まえ、可能であれば――」


 一拍置き、言葉を選ぶように続けた。


「ティアナ様に、一言ご挨拶をお願いできないかと、こちらから打診してみた」


 ミーナの羽根ペンが、かすかに止まる。

 紙を擦る音が途切れ、室内の空気がさらに張り詰めた。


「しかし、返答は……辞退だった」


 リヒトは淡々と告げたが、その声の奥には歯がゆさがはっきりと滲んでいた。


「騎士団は、あくまで演習場で発生した案件の調査として学院に滞在している立場にすぎない。よって、学院行事への関与は差し控える――それが公式な回答だ」


 そして、さらに続ける。


「加えて、公女殿下としての出席や発言を希望するのであれば、王国王室庁を通じて正式に依頼せよ、とのことだった」


 言葉が落ちた瞬間、重たい静寂が広がった。

 紙をめくる音すら消え、遠く廊下から聞こえていた準備の喧騒が、まるで別世界の出来事のように感じられる。


 ユリウスは腕を組み、深く考え込むように目を伏せる。

 その横顔には、冷厳な学院生会長としての威容と、状況を打破せねばならぬ責任の重さが刻まれていた。


 レティアは小さく唇を噛み、俯いたまま資料に視線を落とす。

 冷静に数字と向き合ってきた彼女にとっても、外部の威光が得られないという現実は、決して軽いものではなかった。


「……なるほど」


 やがて、ユリウスが低く呟く。


「外部からの威光に頼れないとなれば、我々だけで式を成立させねばならない、ということだな」


 その声は静かだが、会議室の空気をさらに沈ませる重みを帯びていた。


「ええ。ただ……」


 レティアが、そっと指先を重ねる。

 机上の紙束を撫でるように押さえ、視線をゆるやかに伏せた。淡い睫毛の影が頬に落ち、室内にはほんの一拍の静寂が落ちる。


 彼女の胸の内では、迷いと決意がせめぎ合っていた。


 (――もし、あの二人なら)


 アリスの姿が、そしてその隣に立つクラリスの面影が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。

 だが、その名を軽々しく口にすれば、彼女たちを勝手に縛ることになる。それを理解しているからこそ、言葉は喉元で止まった。


「……宛てがあります」


 やがて、慎重に選ばれた言葉が、落ち着いた声音で紡がれる。


「正式にお願いできるかは、まだ分かりません。でも……この場に相応しい人を、必ず呼べるはずです」


 ユリウスが、静かに顎を上げた。

 その眼差しは鋭く、まるで相手の覚悟の奥を測るかのようだ。


「……そうか」


 短い言葉だったが、確かな重みがあった。


 やがて彼は腕を解き、真剣な眼差しのままレティアに向き直る。


「ならば任せよう。レティア、君に託す」


 机上に差し込む夕光が、レティアの横顔を柔らかく照らす。

 彼女は静かに息を吸い込み、胸の奥で生じたざわめきを押しとどめた。


「……はい」


 その一言に、場の空気が一瞬だけ揺らぐ。


「……誰を呼ぶつもりなのか、聞いてもいいか?」


 ユリウスの問いは慎重で、会長としての責任感が滲んでいた。


 隣で記録を取っていたリヒトも、静かに羽根ペンを止める。


「確かに気になるな。学院の式典に相応しい人物など、そう多くはいない」


 冷静な声音の奥に、探るような関心が潜んでいる。


 だが、レティアは視線を伏せ、机上の書類を整えながら、柔らかく微笑んだ。


「……今は、まだ。お約束できる段階ではありませんから」


 それ以上は語らず、あえて余白を残して言葉を切る。


 ユリウスとリヒトは一瞬だけ視線を交わし合い、それ以上追及することなく、小さく頷いた。

 二人とも、彼女の言葉に込められた確信の色を感じ取っていたのだ。


「……分かった。ならば信じよう」


 ユリウスが短く告げ、視線を再び資料へ戻す。


「では、次の確認事項に移ろう」


 リヒトも紙束を整え、会議の流れを途切れさせない。


 レティアは胸の奥で、そっと息を吐いた。


 (――アリス、クラリスさん。どうか、無事でいて)


 その祈りを言葉にすることはなく、静かに次の資料へと視線を移す。


 ……そして、ほんの一瞬。


 (できれば――フィオナ様にも)


 そんな思いが、脳裏をかすめた。

 壇上に立てば、誰もが息を呑む存在。舞踏祭の格式を一段引き上げるに足る人物。


 だが、立場も責務も重い。

 軽々しく名を出すことはできない。


 レティアはその考えを胸の奥に沈め、再び会議へと意識を戻した。

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