第八部 第一章 第1話
アリスが同調鞘の調整と試験のため、連日のように王立魔術技術局へ通い詰めていた頃――。
一方の王立魔導学院では、年に一度の最大行事《学院舞踏祭》を目前に控え、学院全体が華やかな喧騒と切迫した熱気に包まれていた。
普段は落ち着いた空気に満ちた校舎の廊下には、金糸や銀装飾を施した幕布、精巧な彫刻を施した柱飾り、魔導灯用の結晶器具が所狭しと並べられている。
運び込まれるたびに、木箱が床に置かれる鈍い音が響き、設営用の木槌が乾いた音を刻む。魔導灯の調整に伴う低い共鳴音が重なり合い、そこへ学院生たちの足音と弾んだ笑い声が交錯する。
静謐な学び舎は、まるで祝祭都市へと姿を変えたかのようだった。
その準備の最前線に立っているのが、学院生会の役員たちである。
彼らは連日、早朝から夜遅くまで、ほとんど休む間もなく動き続けていた。
装飾や演出の全体構成。
各学科から提出される演目や展示の調整。
来賓として訪れる王侯貴族や要人を迎えるための警備動線と安全対策。
ひとつひとつが重大で、しかも互いに密接に絡み合う案件ばかりだ。
会議室の長机の上には、会場図面、演目表、警備計画書、予算案が山のように積み上げられ、端から端まで書類で埋め尽くされている。
空気には紙とインクの匂いが混じり、集中による張り詰めた緊張が漂っていた。
その陣頭に立つのは、学院生会長――ユリウス=ノイエラント。
長身の身体をわずかに前へ傾け、卓上に広げられた会場図面に片手を添えながら、もう一方の手には羽根ペンを握りしめている。
鋭い視線が図面の上をなぞり、細部の配置や動線を一瞬たりとも見逃さない。
「――貴族席と王都代表団の動線は、必ず分けろ」
「入場口で交錯すれば、混乱が起きる」
「一度の遅延が、舞踏祭全体を台無しにしかねない」
冷ややかでよく通る声音が、会議室の空気をぴんと張り詰めさせる。
刃のように鋭い言葉に、広い卓を囲んでいた各委員会の代表たちは思わず息を呑み、ペンを走らせる音すら控えめになった。
ユリウスの眼差しは常に冷静沈着だった。
図面上のわずかな歪みや、計画書に潜む曖昧さも見逃さない。
その判断は厳格で、時に容赦がなく、反論の余地を与えない威圧感を伴っていた。
だが、その厳しさの裏にあるのは、ただ一つ。
――この舞踏祭を、必ず成功させる。
その強い責任感と覚悟が、彼の言葉と態度のすべてに宿っているからこそ、誰もが異論を挟めず、黙って従っていた。
その隣では、副会長リヒト=クロイツベルクが、別の戦場を担っていた。
整えられた演目表を前に、彼は緻密な筆致で修正を重ねていく。
癖のない、読みやすい字が一行書き加えられるたび、全体の流れが無駄なく洗練されていった。
背筋を正し、冷静な眼差しで各学科の代表を見渡しながら、彼は淡々と指示を飛ばす。
「錬金学科の舞台実演は、予定より十五分押しています」
「このままでは魔術楽団の演奏と重なります」
「時間を繰り下げ、転換時間を十分に確保してください」
語調は穏やかだが、そこに迷いは一切ない。
論理と全体最適を突きつけるその指示に、相手が反論する余地はなかった。
指先が演目表の流れをなぞるたび、複雑に絡み合った歯車が、ひとつずつ正しい位置に噛み合っていく。
学科代表たちは次々と頷き、慌ててメモを取りながら指示に従った。
一方、会議卓の端では、会計担当のレティアが静かに、しかし休むことなく手を動かしていた。
積み上げられた請求書と領収書の束。
それらを一枚ずつ確認し、仕分け、帳簿へと正確に数字を書き込んでいく。
ペン先は止まることなく、一定のリズムで紙の上を走っている。
「装飾用の花材が、見積もりより二割高い……」
「……でも、来賓席を飾る以上、質は落とせないわね」
「――衣装費を少し圧縮しましょう。代替案で対応できます」
淡々とした声色の奥には、鋭い計算力と揺るがぬ責任感があった。
予算の一手を誤れば、準備全体が瓦解しかねない。
その緊張感が、彼女の背筋を自然と伸ばし、瞳に静かな光を宿らせている。
周囲の部員たちは、レティアの判断を聞くたび、ほっとしたように表情を緩めた。
数人の書記は即座に修正案を書き留め、次の調整へと備える。
こうして――。
会長による全体統括。
副会長の緻密極まる調整。
そして会計担当による確実無比な予算管理。
三人の役員の采配が、歯車のように寸分の狂いなく噛み合うことで、《学院舞踏祭》という一大行事の骨格は、少しずつ、しかし確実に形を成していった。
会議室の空気は、先ほどまでの緊張を保ったまま、さらに一段階ギアを上げたような熱を帯びている。
積み上げられた資料の山。
図面の上を行き交う無数の書き込み。
誰もが、自分の役割と責任を理解した上で、迷いなく動いていた。
やがて――。
レティアは帳簿から顔を上げ、卓上に広げられた資料と計画書へと改めて視線を走らせた。
数字だけでなく、会場配置、時間配分、人員配置――すべてが一枚の絵として頭の中に立ち上がっていく。
その全体像を把握した瞬間、彼女は静かに、しかし迷いなく口を開いた。
「各部門の代表、少し集まってください」
その呼びかけは決して大声ではない。
だが、芯の通った声音は、会議室の隅々まで確かに届いた。
呼ばれた学院生たちが、即座に動く。
椅子を引く音。
書類を抱えて駆け寄る足音。
誰一人として躊躇する者はいない。
レティアは細い指先で紙面をなぞりながら、次々と指示を飛ばしていく。
「この演目、開始時間が重なっているわね。調整が必要よ」
「こちらの配置案、もう一度見直して。来賓の動線と交差してしまう」
「装飾班は、この区画を優先。警備計画と噛み合っていないわ」
落ち着いた口調。
だが、その一言一言には判断の速さと確信が宿っている。
呼びかけられた学院生たちは、瞬時に反応した。
「了解しました!」
「すぐ修正します!」
「こちらで再計算を!」
軽く頷いて走り去る者。
その場で慌ただしくメモを取る者。
緊張で喉を鳴らしながらも、はっきりと返事をする者。
誰もが彼女の言葉を合図に、歯車のように正確に動き始めていた。
部屋の中には、紙の擦れる音、走り書きのペン先が刻む乾いた音、そして指示を受けた者たちが廊下へと消えていく足音が重なっていく。
それらが一体となり、舞踏祭準備特有の熱気と張り詰めた緊張感を生み出していた。
学院全体を巻き込む一大行事。
その一端を担う責任の重さは、決して軽いものではない。
だが、レティアは弱音を吐かなかった。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
それでも背筋は伸び、視線は常に前を見据えている。
声色に迷いはなく、判断は揺るがない。
淡々と、しかし確実に準備を進めていくその姿は、学院生会役員の中でもひときわ凛とした存在感を放っていた。
……その時だった。
ふと、一瞬だけ。
レティアの視線が、手元の書類から外れる。
窓の外。
舞踏祭に備え、華やかな装飾が次々と取り付けられていく。
陽光を受けて、布やリボンがきらめき、風に揺れる。
中庭の広場では、舞台の組み立てが進み、学生たちの掛け声や笑い声が絶え間なく響いていた。
談笑の輪。
忙しなく走り回る姿。
学院全体が、ひとつの大きな熱を帯びている証だった。
――だが、その喧騒の中に。
アリスの姿は、なかった。
レティアの胸に、かすかな影が差し込む。
(アリス……)
思考の奥で、その名を呼んだ瞬間。
胸の奥に、小さなざわめきが生まれた。
彼女が学院にいない理由は、もちろん知っている。
剣と鞘の試験――アリスにしか果たせない、大切な使命に臨んでいることも理解している。
頭では、十分すぎるほどわかっている。
それでも。
心は、ときどき空白を覚える。
準備に追われる学院生たちの中で。
本来なら、肩を並べて動いているはずの友の姿がない。
その事実が、知らず知らずのうちに、ひとりで背負っているような心細さを呼び寄せていた。
レティアは無意識のうちに、指先で書類の端を撫でる。
紙の感触が、現実へと意識を引き戻す。
深く、ひとつ息を吐いた。
強くあろうとする自分を保ちながら、その裏で――。
「早く戻ってきてほしい」
そんな願いを、胸の奥へと押し込める。
(……大丈夫よね)
心の中で、そっと言い聞かせる。
(アリスなら、きっと無事にやり遂げて帰ってくる)
その確信を支えに、レティアは一度だけ瞳を閉じ、再び資料へと視線を戻した。
だが。
胸の奥のざわめきは、完全には消えない。
淡い期待と、拭いきれぬ不安。
そのせめぎ合いが、余韻のように静かに残り続けていた。
すぐにレティアは、小さく息を吐いた。
胸の奥に残っていたざわめきを、ゆっくりと吐息に混ぜて外へ逃がすように。
そして、意識的に表情を整える。
わずかに強張っていた口元を引き締め、背筋を正し、いつもの「学院生会役員としての顔」を取り戻した。
「……今は、私にできることをやるだけ」
誰に聞かせるでもない、小さな呟き。
それは自分自身への確認であり、決意の再確認でもあった。
レティアは再び書類へと視線を落とす。
卓上には、演目表、会場配置図、見積書、警備計画案――整理されつつも、なお膨大な資料が広がっている。
ペン先が紙を走る。
かりかりと乾いた音が、会議室の静けさに規則正しく刻まれた。
そして、次の指示が告げられる。
「――さて、この見積もりの修正を最優先に進めてください。舞台装置の追加費用は、明日までに必ず確定させないと間に合いません」
声を発した瞬間、周囲にいた委員たちが一斉に顔を上げる。
空気が、ぴんと張り詰めた。
「装飾班、こちらに来て」
「警備計画はこの配置と照合して。動線が交差していないか、もう一度確認を」
「演目担当、時間調整案を二案出して。予備も必要よ」
レティアは迷いなく指示を繰り出す。
各班の代表を次々に呼び寄せ、状況を聞き取り、即座に判断を下していく。
演目表と会場図面を突き合わせる。
来賓席の配置を微調整する。
搬入予定と警備動線を重ね合わせ、問題点を洗い出す。
書類の束を仕分ける指先は淀みなく、
口から出る言葉には、一切の逡巡がなかった。
つい先ほど胸を掠めた不安や寂しさは、今や表情の奥にきっちりと仕舞い込まれている。
それを表に出す余裕も、必要も、今の彼女にはない。
――ただ、役職を果たす者として。
仲間を導き、
準備を滞りなく進め、
《学院舞踏祭》を成功させる。
それが、今の自分にできる最善であり、果たすべき責任だと、レティアははっきりと理解していた。
(気持ちに振り回されてなんて、いられない)
胸の内で、静かに言い聞かせる。
(私は、学院生会の会計担当。責任を果たすために、ここにいる)
その決意は、書類を束ねる彼女の手に確かな力を宿らせ、
自然と背筋をすっと伸ばさせていた。
落ち着きと力強さを帯びたその声音は、先ほどと何一つ変わらない。
的確で、冷静で、信頼に足るものだった。
――けれど。
その心のどこかで。
ほんの小さな場所で。
アリスの無事を祈る気持ちが、確かに息づいている。
それは表に出ることのない、静かな想い。
忙しさの合間にふと胸をよぎり、そして再び奥へと押し戻される、大切な感情。
レティアはそれを否定しなかった。
ただ抱えたまま、前へ進む。
そうして今日もまた、
学院舞踏祭という大きな歯車を、確かな手で回し続けていた。




