第八部 第一章 第5話
重厚な扉の前に立ったものの、レティアの足は床に縫い付けられたかのように一歩も動かなかった。
磨き込まれた石床の冷たさが靴底越しに伝わり、現実を突きつけるように彼女の意識を引き戻す。
両手の指先は胸元で強く絡み合い、ぎゅっと力を込めすぎて関節が白くなっていた。
視線は扉の一点に吸い寄せられたまま逸らせず、呼吸は浅く、胸の鼓動だけが耳の奥を激しく打ち続けている。
扉の向こうに広がるであろう空気を想像するたび、胃の奥がきゅっと縮み、喉がひくりと鳴った。
「……レティア」
隣で様子を見ていたアリスは、わざとらしいほど大きく肩を落とし、はあっと息を吐いた。
「もう……ほんとに。仕方ないなぁ、レティアは」
呟くようにそう言うと、アリスは彼女より一歩前へと進み出る。
先ほどまでの軽やかな雰囲気は影を潜め、背筋をすっと伸ばしたその姿は、どこか凛として見えた。
足取りに迷いはなく、自然な所作で扉脇に控える二名の騎士へと歩み寄っていく。
「こんにちは。アリス・グレイスラーと申します」
「突然の訪問で恐縮ですが、ティアナ様はご在室でしょうか?」
その声音は、普段の砕けた調子を完全に封じた、改まった響き。
丁寧で、礼を失さない敬語が廊下に澄んで響き渡る。
あまりにも余所行きな口調に、聞いているレティアのほうが思わず目を見開いてしまった。
刹那。
鎧に身を包んだ二人の騎士は、ほんの一瞬だけ目を見合わせ――次の瞬間、思わず口元を押さえて笑みを堪えるような仕草を見せた。
張り詰めていたはずの空気から、意外なほど柔らかな雰囲気が零れ落ちる。
「アリスさん、今日はどうされたんです? ずいぶん余所行きな言葉遣いですね」
「ふふ……。いつもは、もっと気楽に話されるでしょう?」
からかうような声に、アリスは一瞬だけ視線を逸らし、気まずそうに頬を掻いた。
それでも口元には、かすかな苦笑が浮かんでいる。
「……今日は、ちょっと事情があって」
小さくそう答えると、背後に控えるレティアへちらりと視線を送った。
それだけで状況を察したらしい二人の騎士は、再び顔を見合わせ、含みのある笑みを浮かべる。
「まぁ……。なるほど、そういうことですか」
そのやり取りを遠巻きに見ていたレティアは、完全に置いていかれていた。
(え……な、なに今の……!?)
(どういう関係……!? え、知り合い……?)
唖然と目を瞬かせる。
やけに落ち着いたアリスと、親しげな態度の騎士たち。
自分だけが知らない空気の流れに取り残されたようで、胸の奥に焦燥が膨らんでいく。
そんな彼女の困惑をよそに、騎士の一人――淡い金髪を一つに結わえた若き女性騎士が一歩前へと出た。
整った立ち姿、引き締まった所作。
規律ある騎士としての佇まいを崩さぬまま、その表情にはどこか柔和な色が滲んでいる。
「在席されていますよ? ……お入りになりますか?」
その問いかけは、事務的でありながらも優しく、レティアの張り詰めた神経をわずかに緩めた。
「はい、お願いします」
アリスは即座にそう答える。
迷いのない返事に、女性騎士――エステル=ヴァレンタイン少尉は小さく頷き、扉へと向き直った。
軽やかで無駄のない動作で、扉を二度、控えめに叩く。
「失礼いたします。アリスさんと……もうお一方がお見えです」
一拍の間。
扉の向こうから、落ち着いた女性の声が返ってきた。
「……どうぞ、お入りください」
きちんと整えられた響きの中に、どこか親しみを含んだ声音。
それがセシリアの声であると悟った瞬間、レティアは思わず喉を鳴らした。
ごくり。
その音が、自分の耳にはやけに大きく響く。
扉は、すぐそこだ。
逃げ場はもうない。
いよいよ――。
扉の向こうへ、足を踏み入れる時が来たのだ。
エステルに扉を開けてもらい、二人は臨時捜査室へと足を踏み入れた。
室内は外の喧騒とは切り離されたように静まり返り、分厚い石壁と簡易結界によって外音はほとんど遮断されている。
壁際には作戦図や魔力反応の記録が貼られ、机の上には整然と積まれた書類と魔導具。ここが「学院の一室」ではなく、「騎士団の拠点」であることを、空気そのものが雄弁に物語っていた。
アリスは堂々とした足取りで迷いなく進み出る。
対して、その背後をついていくレティアは――まるで油を差し忘れたブリキの人形のようだった。
一歩踏み出すたびに動きはぎこちなく、肩は不自然に持ち上がり、首は完全に固まっている。
膝の曲げ伸ばしすら直線的で、今にも「ぎし、ぎし」と音が鳴り出しそうなほどで、本人は必死でも、その様子はどう見ても分かりやすい緊張の塊だった。
「いらっしゃい」
先に声をかけてきたのは、室内奥のソファーに腰掛けていたティアナだった。
落ち着いた声音と穏やかな眼差し。軍務中であっても、その佇まいには自然と人を安心させる余裕が滲んでいる。
その隣で、セシリアも静かに立ち上がり、柔らかな微笑みを浮かべながら手を添えて席を示した。
「どうぞ。こちらへお掛けください」
アリスは臆することなく、
「お邪魔します」
と軽く会釈をして、そのまま自然な動作でソファーへ腰を下ろす。
一方でレティアはというと、ぎくしゃくと首を縦に振りながら、まるで一歩ごとに内部歯車を噛み合わせているかのような動きで進み――
背筋は真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで、指先は不自然なほど揃えられ、視線は正面固定。
やっとのことでソファーの前に辿り着き、慎重すぎる動作で腰を下ろすと、そのまま膝をぴたりと揃えて完全に固まった。
呼吸は浅く、肩は強張り、まばたきの回数すら減っている。
そのあまりに正直すぎる緊張ぶりに、ティアナは思わずふっと柔らかな笑みをこぼした。
「……そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
包み込むようなその声音は、むしろ優しすぎて――
レティアの胸の鼓動を、さらに一段速めてしまう結果になった。
「今日は、どういったご用件でしょうか」
セシリアがそう尋ねながら、銀盆に載せた茶器を手に近づいてくる。
手際よくカップに琥珀色の茶を注ぎ分け、湯気とともに立ち上る香りが室内に広がった。
「ありがとうございます」
アリスが受け取り、自然な仕草で一度香りを楽しんでから口をつける。
「――実はですね、少しご相談がありまして」
そう切り出すと、アリスはさりげなく隣へ視線を向けた。
「……っ」
その瞬間、レティアはびくりと肩を跳ねさせる。
声を出そうとして口を開きかけるが、言葉が喉に引っかかったまま出てこない。
背中にじわりと脂汗が滲み、両手は膝の上で固く握りしめられる。
ティアナとセシリアも改めて正面の席に腰を下ろし、静かで逃げ場のない視線をレティアへと向けた。
――その瞬間だった。
場の重みが、はっきりと増した。
レティアの心臓は限界を超え、ついに弾けるように跳ね上がる。
隣でそれを察したアリスが、そっと声をかける。
「レティア?」
その一言が引き金だった。
びくり、と大きく肩を震わせたレティアは、反射的に勢いよく立ち上がり――
「しゃ、しゃいっ!」
意味不明な返事を発したかと思うと、そのまま止まらず、勢い任せに自己紹介へ突入した。
「わ、わたくしっ……し、学院生会会計の……」
「レ、レティア……え、エクスバルドと……もうし、ます……!」
最初の一声だけは無駄に大きかったが、
言葉が進むにつれて声量は急降下し、最後は消え入りそうな音量になる。
俯いた顔は真っ赤に染まり、首筋から耳の先まで茹で上がったように熱を帯び、今にも湯気が立ちそうだった。
その様子を見て、セシリアは堪えきれずにくすりと笑みを漏らす。
「レティアさんには失礼かもしれませんが……。アリスさん、失礼を承知で言わせていただくと、これが“初めてティアナ公女殿下と直接対面した一般の方の、実に標準的な反応”ですね」
「……ということは」
アリスが首を傾げ、少しだけ間を置いてから、すっとぼけた調子で続ける。
「私は普通じゃない、と?」
セシリアは微笑んだまま、さらりと頷いた。
「ええ。少なくとも“普通の方”であれば、今のレティアさんのように、固まってしまうのが自然ですから」
「ふふ……確かに」
ティアナも小さく笑い、場の空気は一気に和らいでいった。
レティアはというと――
ますます顔を赤くし、思わず目をぎゅっと閉じて身を縮める。
自分が“普通の反応”をしてしまったのだと理解しつつ、
その事実が逆に恥ずかしさを倍増させ、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
――逃げたい。
――でも、もう逃げられない。
そんな相反する思いを抱えたまま、レティアはその場に立ち尽くしていた。
「……とりあえず、座ろう」
アリスがそう柔らかく声をかけると、レティアはびくりと肩を跳ねさせ、まるで合図を受けた機械のように即座に腰を落とした。
背筋は棒を通したかのように硬直し、両手は膝の上にぴたりと揃えられている。
視線は正面一点に固定され、周囲を見回す余裕すらなく、呼吸も浅く速い。
そのあまりにも分かりやすい緊張状態に、アリスは小さく息を吐き、肩をすくめる。
……ま、仕方ないか
独り言のようにつぶやいてから、気持ちを切り替えるように視線を上げ、ティアナとセシリアへと正面から向き直った。
先ほどまでの軽さは影を潜め、声音は自然と引き締まる。
「実は今日は、少しご相談があって来ました」
前置きを置いてから、アリスは言葉を選びつつ、はっきりと続ける。
「まず最初にお伝えしておきます。私は学院生会のメンバーではありません。それでもここにいるのは、学院生会――正確には、レティアたちから正式な打診を受けたからです」
その言葉に、ティアナとセシリアは一瞬だけ視線を交わし合い、やがて互いに小さく笑みを浮かべた。
「ええ。分かっていますよ? レティアさんは学院生会の一員ですし、あなたはその親友。だからこそ、こうして一緒に来られたのでしょう?」
セシリアが茶目っ気を含ませてそう言えば、ティアナも穏やかに頷く。
アリスは軽く肩をすくめ、余計な説明は省いて本題へと踏み込んだ。
「舞踏祭の開催式での開会挨拶についてです。その役を、ティアナ様にお願いしたい――という要請が、学院生会から出されたと聞きました。でも、その打診は辞退された」
アリスは一呼吸置き、
「それに加えて、“もし公女殿下として依頼するなら、王室庁を通して正式に”という回答が届いた、と」
一つ一つ確認するように言葉を重ねながらも、アリスの声は終始穏やかだった。
だが、その奥には――その返答が本当に目の前の人物の意思なのか、という疑念が微かに滲んでいる。
脂汗を浮かべて固まっているレティアを一瞥し、アリスは改めてティアナをまっすぐに見据えた。
その言葉が途切れると、臨時捜査室には短い沈黙が落ちた。
ティーカップから立ち上る湯気が、ゆっくりと空気に溶けていく。
レティアはソファの端で身を縮めたまま動けず、
ティアナは変わらぬ穏やかな表情で、静かにその沈黙を受け止めている。
やがて、セシリアが小さく息を吐き、口を開いた。
「……まず最初に、はっきりさせておきましょう。その件については、私の耳にも確かに届いています」
卓上のカップに視線を落としながら、セシリアは淡々と続ける。
「学院生会から、“開会の挨拶をティアナ様にお願いしたい”という要請があったこと。そして、それに対して“辞退”と、“公女殿下として依頼するなら王室庁を通すように”という文面が返されたこと。――それ自体は、事実です」
そこで一度言葉を切り、セシリアは小さく首を振った。
「ただし。その返答は、私たちの意志を直接示したものではありません」
レティアの指先が、ぴくりと震える。
「回答を出したのは、《第三騎士団の広報事務局》です。私たちも、あの文面が通達されて初めて、その内容を知りました」
余計な感情を交えない、事務的とも言える口調。
しかしそれは同時に、その返答がティアナ本人の意思をそのまま反映したものではない、という事実を明確に示していた。
その言葉を聞いた瞬間、アリスははっとしたように目を瞬かせる。
「……なるほど。やっぱり、そうでしたか」
胸の奥に張り付いていた違和感が、すっとほどけていく。
アリスは小さく息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。
「それを聞けて、安心しました。ティアナ様が、あんな突き放すような言い方をされるなんて……どうしても信じられなかったから」
その声音は柔らかく、気負いのないものだった。
隣のレティアは、依然として緊張で固まりながらも、アリスのその反応にほんのわずかだけ肩の力を抜く。
まだ心臓はうるさく鳴っているが――それでも、絶望ではないと分かっただけで、胸の奥に小さな光が灯っていた。




