第六部 第三章 第6話
昼食と休養を終えたあと、アリスは再び魔導車の簡易ベッドに横になっていた。
車内は静かで、外から届く音は遠く、魔導車特有の低い安定振動だけが床と空気を通して伝わってくる。
点滴スタンドから落ちる雫が、一定の間隔で小さな音を立て、その規則正しさが、時間の流れを穏やかに刻んでいた。
淡く灯された照明が、天井と白布をやわらかく照らす。
アリスは目を閉じたまま、自分の呼吸と心拍が落ち着いていることを確かめていた。
先ほどまで胸の奥を占めていた冷たい重圧は薄れ、代わりに、静かな集中と覚悟がゆっくりと形を成しつつある。
やがて、魔導車の扉が控えめに開く。
足音を忍ばせるようにして、セシリアと救護班のスタッフが中へ入ってきた。
救護班の一人が端末を確認しながら、落ち着いた声で報告する。
「バイタル、安定しています」
「体温は平常値へ回復」
「脈拍も規則的で、魔力循環にも大きな乱れは見られません」
端末を操作しつつ、さらに続ける。
「軽度の疲労感は残っていますが、活動に支障が出るレベルではありません」
「現時点では、歩行・集中動作ともに問題なしと判断できます」
その言葉を聞き、セシリアは一度だけアリスの顔を見てから、確認するように問いかけた。
「つまり――」
「任務への復帰に、医学的な問題はない、ということね?」
救護班スタッフは即座に頷いた。
「はい」
「ただし、過度な負担は禁物です」
「再度、めまいや意識混濁、魔力失調の兆候が見られた場合は、即時中断を」
そのやり取りを聞きながら、アリスはゆっくりと上体を起こした。
まだ完全ではない体の重さを感じつつも、その動きに迷いはない。
「……もう大丈夫です」
一度、呼吸を整えてから、はっきりと続ける。
「行かせてください」
「今なら、ちゃんと立てます」
その声音には、無理に気丈を装った響きはなかった。
静かだが揺るぎのない意思が、確かに込められている。
救護班スタッフは、その表情を一瞬だけ見つめ、やがて小さく微笑んだ。
「分かりました」
「では、点滴を外しますね」
手際よく留め具を外し、慎重に針を抜く。
軽い痛みが走るが、それもすぐに収まった。
「念のため、しばらく腕を押さえてください」
「止血を確認したら、すぐ動いて大丈夫です」
アリスは軽く頷き、自分の指でガーゼの上を押さえた。
血が止まっていることを確認しながら、静かに息を吐く。
体のだるさは、まだ完全には消えていない。
だが、胸の奥には、確かな覚悟が灯っていた。
逃げるのではなく、向き合うための覚悟だ。
その様子を見届けたセシリアは、短く一息つき、決断を告げる。
「……分かったわ」
視線を上げ、通信機を取り出す。
「これより、調査を再開する」
「護衛班、魔導兵装部隊――全員、配置につきなさい」
その声は、迷いのない指揮官のものだった。
魔導車の外では、すでに再展開の準備が進み始めている。
装備の確認、配置の再編、通信網の再接続。
静けさの中に、再び緊張が満ちていく。
こうして――
アリスは再び立ち上がり、任務へと戻る準備を整えた。
未知と向き合うために。
そして、石碑の奥に眠る“答え”へ、もう一歩踏み込むために。
午後――十五時。
太陽は厚い雲の向こうへと完全に姿を隠し、森全体を覆う霧はいっそう濃さを増していた。
湿った空気が肌にまとわりつき、吐く息は白く滲む。
遠くで鳥の羽音が一瞬だけ聞こえたが、それもすぐに霧の奥へと吸い込まれていった。
調査隊は再び現地へと向かう。
先ほどまで休養と点滴によって回復に努めていたアリスの体調が安定していることは、救護班から正式に報告されていた。
血圧、脈拍、魔力循環、精神波――すべてが基準値内。
セシリアはその内容を細部まで確認し、複数の安全条件が満たされていることを確かめたうえで、任務再開を決断したのである。
霧に包まれた森の中、隊列は静かに進む。
足音は極力殺されているが、それでも鎧の接合部がわずかに軋む低音、魔導兵装の内部機構が発する抑えた駆動音が、断続的に空気を震わせていた。
視界は悪く、数歩先の影が滲むように揺れるたび、無意識のうちに呼吸が浅くなる。
誰もが周囲に神経を張り巡らせ、霧の奥に潜む“何か”を警戒していた。
アリスは先頭寄りの位置を保ち、右手で胸元を軽く押さえながら歩いていた。
呼吸は整っている。
足取りも確かだ。
数時間の休養で体力は確実に戻りつつある。
だが――胸の奥に残る、あの冷たい違和感だけは、完全には消えていなかった。
(……もう倒れたりしない)
(今度こそ、確かめないと)
内心でそう静かに誓い、彼女は一歩一歩、地面の感触を確かめるように前へ進む。
湿った土の感触が、現実に立っていることを確かに教えてくれた。
やがて、霧の向こうに石碑が姿を現した。
灰色の巨石は午前中と変わらぬ姿でそこに立ち、古い文様は苔と風化に覆われている。
まるで長い眠りに沈む墓標のように、周囲の空気を吸い込みながら、無言で存在していた。
その姿を認めた瞬間、隊は自然と足を止める。
合図は不要だった。
全員が即座に自分の持ち場へと散開する。
魔導兵装部隊の三名――ナディア、ミリエル、フロリアが即応する。
ナディアは片膝をつき、スキャンゴーグルを展開。
視界に走る数値と魔力反応を即座に解析しながら、前方の空間を睨み据えた。
ミリエルは肩部から展開盾を解放する。
魔導回路が低く唸り、防御障壁を即座に展開できる体勢を取る。
その視線は石碑と、仲間の位置を同時に捉えていた。
フロリアは剣を半ば抜き、低く息を整えながら周囲を一瞥する。
霧の揺らぎ一つさえ見逃さぬよう、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。
護衛騎士たちはアリスの周囲を固め、即時退避が可能な陣形を構築する。
盾と剣が半円を描き、動線が確保される。
鎧の継ぎ目から淡い魔力光が漏れ、全員が臨戦状態にあることを無言のうちに示していた。
霧の森の中心で、石碑を囲む陣形が完成する。
静寂の中、次の瞬間を待つ緊張だけが、重く空気を支配していた。
アリスは石碑から一定の距離を保ち、静かに足を止める。
足裏に伝わる地面の冷たさを確かめるように、ほんの一瞬だけ体重を預け直した。
一度、深く息を吸う。
肺の奥まで冷たい空気を送り込み、ゆっくりと吐き出す。
呼吸のリズムを整えるたび、心拍が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
そして、右手を前へ掲げる。
指先に宿る微細な魔力が、淡く、ほとんど脈動するように瞬いた。
光は霧を押し分けるように広がり、空気に小さな波紋を生む。
霧の粒子がその振動に呼応し、わずかに揺れ、滲む。
額には細かな汗が浮かんでいた。
だが、その瞳は揺らがない。
視線はただ一点――沈黙する石碑だけを、真っ直ぐに見据えている。
後方の仮設観測拠点では、クラリスと魔術師団の観測班が装置を操作していた。
精神波干渉計の結晶が低く脈動し、淡い光を放ちながら回転する。
波形は次々とスクリーンへ描き出され、複数の解析層が重ねられていく。
記録士の指先が符丁を打ち続ける。
静寂の中に、かすかな打鍵音だけが一定のリズムで刻まれていた。
誰一人として、無駄な動きはない。
セシリアは通信端末を握り、全体へ低く、しかし明確に指示を飛ばす。
『――警戒態勢を維持』
短い命令が空気を引き締める。
『あらゆる変化を見落とさないで』
間髪入れず、次の指示。
『アリスさん、微弱な魔力で干渉を開始してください』
その声に、アリスは小さく頷く。
視線は石碑から逸らさないまま、魔力の出力をさらに絞り込む。
魔力を、さらに静かに。
さらに慎重に。
まるで細い糸を指先から紡ぐように、わずかずつ放出する。
その一瞬。
誰もが呼吸を止めた。
霧の揺らぎ、空気の変化、石碑の文様――そのすべてを見逃すまいと、視線が集中する。
しかし――
『……特に変動なし』
観測テントから、ロス少尉の淡々とした声が届く。
『魔力波形、正常範囲内』
続けて、冷静な報告。
『共振反応も検出されません』
彼の前のモニターには、規則正しく揺れるだけの平坦な波形が映し出されていた。
午前中に見た、あの異常な跳ね上がりとは、あまりにも対照的だ。
隣でデータを確認していたカース中尉も、スクリーンから目を離さずに口を開く。
『石碑表面の文様に光輝反応なし』
数値を一つずつなぞるように確認しながら、続ける。
『アリスさんの生命反応、精神波ともに安定』
『計測器の誤作動の可能性も低いと判断します』
声は冷静だった。
だが、彼の眉間には深い皺が刻まれている。
セシリアは通信越しに一つ息を置き、現地の状況を脳内で整理する。
そして、アリスへ視線を向けたまま告げる。
『……確認しました』
短く、間を取って。
『アリスさんの身体に、目立った負荷や変調は認められません』
『調査、続行可能です』
その言葉に、後方の医療班が小さく、しかし確かに安堵の息を漏らした。
一方で――
アリス自身は、ゆっくりと首を横に振った。
確かに、魔力は石碑に触れているはずだ。
距離も、角度も、出力も、午前と同じ。
それなのに――何の手応えもない。
朝に感じた、あの重苦しい干渉。
胸を締めつけ、魂の奥に触れてくるような圧迫感。
身体の芯を掴まれるような、あの“存在感”は、今は影も形もなかった。
(……まるで、別物)
胸の内で、言葉にならない違和感が渦を巻く。
(あのときの石碑とは……違う)
胸の奥に、冷たい空白が静かに広がっていく。
「……さっきとは、まるで別物みたい」
思わず零れた呟きは、霧の中に溶けるように消えた。
周囲の騎士たちが互いに視線を交わす。
誰も即答できない。
その表情には、戸惑いと、不安、そして説明のつかない違和感が混じっていた。
その後も、午前中と完全に同一の手順で再検証が行われた。
魔力干渉の出力は段階的に引き上げられ、角度と波長も細かく変更される。
観測班は一つ一つの変化を符丁に落とし込み、厳密に記録を取っていく。
アリスの立ち位置。
姿勢。
呼吸のタイミング。
護衛騎士の陣形。
すべてが、午前の条件と寸分違わぬよう、徹底的に再現された。
だが――
結果は、沈黙だった。
石碑は冷たい石のまま。
文様は鈍い灰色を保ち、光の兆しすら見せない。
記録水晶は淡く明滅しながら、異常反応を刻むことなく、ただ時を数えていく。
張り詰めていた隊列の中に、次第に落胆の気配が滲み始めた。
騎士たちは武装を構えたまま動きを止め、観測班はスクリーンを凝視し続ける。
だが、そこに映るのは、変化のない数値と波形だけだった。
午前中以上に厳重な態勢で挑んだにもかかわらず、石碑は沈黙を保ち続けている。
その沈黙は――
ただの無反応以上に。
不気味で。
不可解な重みとなって。
霧に包まれたその場に立つ全員の心へ、静かに、確実にのしかかっていた。




