第六部 第三章 第7話
その張り詰めた空気を切り裂くように、アリスが静かに口を開いた。
「……もう一度、“直接接触”で魔力を流してみます。野戦演習のときと、同じやり方で」
一瞬、時間が止まったかのように、周囲の音が消えた。
次の瞬間――
「待って!」
最初に声を上げたのはクラリスだった。
一歩、反射的に前へ出かけ、すぐに踏みとどまる。その声は、理知的な研究者のものではなく、明らかに“友を失うことを恐れる者”のそれだった。
「それはあまりにも危険よ……!」
「午前中、あなたはどうなったか、分かっているでしょう……!」
「あれは偶然じゃない。石碑があなたに干渉した結果よ。もう一度同じことをすれば、今度こそ――」
言葉の最後が、喉の奥で詰まった。
クラリスの脳裏には、石碑の前で膝を崩し、意識を失ったアリスの姿が、焼き付くように浮かんでいる。
青ざめた顔、浅く速い呼吸、力なく垂れた腕。
その光景が、今も鮮明に残っていた。
すぐさま、セシリアの声が通信に割り込む。
『否定します』
『接触による強制干渉は、現段階では推奨できません』
冷静で、指揮官としての芯を失わない声。
だが、その奥には、明確な焦燥が滲んでいた。
『午前中の事例を踏まえれば、今回は反応条件が明らかに異なっています』
『無反応である理由が未解明のまま、再び同条件を再現するのは――』
『生命に直接的な危険が及ぶ可能性が高い』
通信の向こうで、セシリアが一拍、息を置く気配が伝わる。
『指揮官として言わせてもらいます』
『その選択は、合理的ではありません』
その言葉を真正面から受け止めながらも、アリスは視線を逸らさなかった。
「……それでも」
静かな声だった。
だが、確かな意志が宿っている。
「このままじゃ、何も分からないままです」
「魔力を流しただけじゃ、石碑は何も返してこない」
「……あのとき、反応があったのは」
一度、言葉を切る。
小さく息を吸い、胸の奥の震えを押さえ込む。
「私が“触れたとき”だけだった」
その言葉に、場の空気がさらに張り詰めた。
アリスの瞳には、恐怖があった。
だが、それ以上に――逃げないと決めた者の、硬い光が宿っている。
「怖くないわけじゃありません」
「……正直、また同じことが起きるんじゃないかって、考えないようにしても、考えてしまいます」
声はわずかに震えていた。
だが、それでも彼女は続ける。
「でも、あの反応を引き起こしたのが“接触”だとしたら」
「それを確かめないまま、引き返すわけにはいきません」
「……もし、あれが偶然じゃないなら」
言葉は、はっきりとした決意を帯びていた。
「私にしか、できない」
沈黙が落ちた。
森の霧が、わずかに揺れる。
遠くで、魔導兵装の内部機構が低く唸る音だけが、やけに大きく響いた。
護衛騎士たちは互いに視線を交わし、無言のまま武器を握り直す。
その指先に込められる力が、わずかに強くなった。
魔導兵装部隊の三名――ナディア、ミリエル、フロリアも、言葉を発することなく、それぞれの装備状態を再確認する。
誰もが理解していた。
これが、ただの提案ではないことを。
クラリスは強く唇を噛みしめ、視線を伏せる。
反論したい。
引き止めたい。
だが、アリスの覚悟が本物であることも、痛いほど分かってしまった。
そして――
セシリアが、最後に口を開いた。
『……了解しました』
一瞬、通信が静まり返る。
『条件付きで、接触を許可します』
その声は、揺るがぬ指揮官のものだった。
だが、その裏にある迷いと葛藤を、察する者は少なくなかった。
『全隊、警戒レベルを最大へ移行』
『医療班は現地待機。即応体勢を維持』
『異常を検知次第、強制介入。撤退を最優先とします』
短く、しかし明確な指示が続く。
『アリスさん』
『……少しでも違和感を覚えたら、躊躇なく引いてください』
アリスは、静かに頷いた。
言葉は返さない。
ただ、深く息を吸い込み、胸の奥で自分自身を奮い立たせる。
(……怖い)
(でも、やらなきゃ)
(私にしかできないなら――)
再び、緊張が極限まで高まる。
護衛騎士たちは間合いを詰め、いつでも彼女を引き戻せる位置に立つ。
魔導兵装部隊は武装を完全展開し、石碑を囲むように半円の防御陣を構築した。
観測班では計測器が一斉に起動され、結晶が脈動を始める。
記録士の符丁が、張り詰めた空気の中で、乾いた音を刻み始めた。
そのすべてを背に受けながら――
アリスは、一歩、また一歩と、石碑へ向かって歩き出した。
霧の中、その背中を。
全員が、無言で見守っていた。
アリスは石碑の正面に立ち、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
胸の奥で心臓が強く打ち、鼓動がそのまま耳の奥に響いてくる。
右手を軽く握りしめると、革手袋の内側で指先がわずかに汗ばんでいるのが分かった。
冷たい霧が足元を這い、石碑から放たれる無言の圧が、肌を通してじわじわと伝わってくる。
その一瞬、アリスは背後を振り返った。
護衛騎士、魔導兵装部隊、観測班、そしてクラリスとセシリア。
全員の視線が、寸分の揺らぎもなく彼女に集まっている。
「……では、接触します」
低く、しかしはっきりとした声だった。
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段階張り詰める。
護衛騎士たちは一斉に姿勢を改め、剣と盾を構え直す。
鎧の接合部がわずかに鳴り、緊張が金属音として漏れた。
ナディアは眉間に深い皺を刻み、スキャンゴーグル越しに石碑を凝視する。
数値と現実の光景を重ね合わせ、わずかな変化も見逃すまいとする眼差しだった。
フロリアは歯を食いしばり、魔力探知装置の感度を最大まで引き上げる。
指先が装置の縁に食い込み、彼女自身の緊張を物語っていた。
ミリエルは展開盾をさらに一歩前へ出し、アリスと退避経路の間に自分の身体を差し込む。
何が起きても、即座に守りに入れる位置だ。
後方では、観測班の面々が息を詰める。
記録結晶の淡い光が一斉に明滅し、符丁を打つ指先がかすかに震えた。
クラリスは祈るように両手を胸の前で組み、唇を強く結んでいる。
セシリアは冷静な表情を崩さぬまま通信端末を握りしめ、いつでも指示を飛ばせるよう、親指をスイッチの上に置いていた。
全員の緊張が、極限に達する。
――その中で。
アリスは、ゆっくりと右手を石碑へと伸ばした。
霧を切り裂くように、慎重に。
ためらいを振り切るように。
指先が、石碑の冷たい表面に触れた瞬間。
淡い光が、内側から滲み出すように文様を走った。
まるで呼吸を再開したかのように、石碑が静かに発光する。
同時に、アリスの指先から微細な魔力が流れ込み、周囲の空気がびりりと震えた。
『接触確認』
『魔力流入開始、石碑側に反応あり!』
観測班から、鋭い報告が飛ぶ。
仮設観測テント内では、解析班の三人――フィレル・ロス少尉、エルネア・カース中尉、マーロ・ディルヴィン分析士が、ほとんど身を乗り出すようにモニターを見つめていた。
「石碑の魔力波形、微細な変化を検出!」
「アリスさんの魔力流入に呼応して、反応波が明確に立ち上がっています!」
フィレルが声を張り上げ、指先でグラフを示す。
モニターには、先ほどまで平坦だった波形に、鋭い山が走り始めていた。
「ピークが前回よりも鋭い……」
「魔力の流れが、より安定して強まっている証拠だ」
カースが冷静に補足し、数値を追い続ける。
「……ただし、この周波数帯は異常です」
「まるで空間そのものに干渉しているかのような振動が出ています」
ディルヴィンが険しい表情で解析を続け、低く呟いた。
「このまま継続すれば……」
「何らかの“封印”や“障壁”に、直接干渉する可能性が高い」
フィレルの声が低く落ち、テント内に重苦しい沈黙が広がる。
「だが、その反動は未知数だ」
「現場は、アリスさんの体調管理を最優先に」
カースが即座に通信を開く。
『護衛班、魔導兵装部隊へ』
『反応増大中。アリスさんの状態を最優先で監視してください』
解析班の緊迫した声が響く中。
アリスの手から流れ込む魔力と、石碑の光は、さらに強さを増していく。
文様は脈打つように明滅し、周囲の空気は心臓の鼓動に合わせるかのように震え始めていた。
――まるで、この場所そのものが、目覚めようとしているかのように。
護衛騎士たちが即座に動いた。
アリスを中心に距離を詰め、盾と剣を半円状に構えて密着する。
一歩でも異変があれば、瞬時に引き戻し、あるいは覆い隠すための布陣だった。
金属が擦れる音と、鎧の重みを伴った気配が、周囲の空気を一層張り詰めさせる。
その異常な緊張を一瞬で察したセシリアが、迷いなく通信機に手を伸ばした。
指先が操作盤を叩き、鋭く、短い指示を飛ばす。
『――魔導兵装部隊、全員戦闘モードへ移行』
『即時対応態勢を維持せよ。想定外事象、すべて対処優先』
声が響いた、その瞬間だった。
三名の魔導兵装隊員が、まるで合図を待っていたかのように一斉に動く。
駆動音が低く唸り、空気が震えた。
ナディア・フェルグリッドは前へ一歩踏み出す。
重装の足が地を踏みしめ、鈍い衝撃が伝わる。
彼女は大盾を正面に構え、魔導回路を強制展開した。
盾面に刻まれた術式陣が蒼白に輝き、幾何学模様の光が層を成して広がる。
次の瞬間、彼女の全身を包み込むように防御結界が形成された。
空間が一枚の壁を得たかのように、圧が変わる。
「前方防御、最大出力」
低く、短い報告。
その声には一切の揺らぎがなかった。
フロリア・カンタールは反対側へと軽やかに移動する。
重装兵装でありながら、その動きは驚くほど鋭い。
長槍を構え、石碑と周囲を鋭く睨みつける。
感知装置の水晶が淡く点滅し、微細な魔力変動を拾い上げていた。
「感知範囲、拡張完了」
「……来るなら、どこからでも来なさい」
歯を食いしばるような低い声。
視線は一瞬たりとも逸らされない。
ミリエル・オストンは展開盾を斜めに掲げ、陣形の後方を固める。
盾の角度は、アリスと護衛騎士、双方を同時に覆う位置だった。
腰部に装着した支援機構が低い駆動音を立て、魔力供給用の補助陣が起動する。
淡い光の線が走り、仲間の装備へとリンクが形成されていく。
「支援リンク、全員接続」
「退避経路、確保しています。いつでも下がれます」
落ち着いた声だったが、その裏には強い緊張が滲んでいた。
魔導兵装部隊が完全に戦闘体制へと移行したことで、石碑を囲む陣形は一気に強固なものへと変わる。
防御、迎撃、支援――すべてが噛み合った一線級の布陣。
その圧力だけで、場の空気が押し潰されそうだった。
しかし――。
石碑は、爆発的な反応を見せなかった。
ただ、静かに。
まるで意思を秘めたかのように、淡い光を放ち続けている。
表面の文様を、脈動するような輝きがゆっくりと走る。
呼吸のように、収縮と拡張を繰り返す光。
だが、数秒が経過しても、魔力の暴走や空間歪曲といった異常現象は発生しない。
観測装置の警告音も鳴らず、空間は不気味なほど静まり返っていた。
その沈黙が、かえって不安を煽る。
誰もが理解していた。
これは「安全」なのではない。
――待たされているのだと。
石碑は、いまもなお、何かを測るように光り続けていた。




