第六部 第三章 第5話
魔導車の中。
薄暗い照明が静かに揺れ、車体を伝ってくる低い振動が、空気そのものをかすかに震わせていた。
外界の音は遮断され、代わりに耳へ届くのは、魔導機関の規則正しい駆動音と、抑えられた声で交わされる短い会話だけだ。
アリスは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界の中、天井に埋め込まれた魔導灯の光が、淡く滲みながら伸びている。
一瞬、どこにいるのか分からず、思考が空白になる。
呼吸を一つ。
次いで、胸の奥に重たい倦怠感が広がっていることに気づいた。
体を動かそうとした、そのとき。
右腕に、かすかな引き込みを感じる。
視線を向けると、手の甲には点滴用の細い管が固定され、透明な液体が、一定の間隔で静かに滴っていた。
転倒の際に擦りむいた腕や膝には小さなガーゼが当てられ、包帯で固定されている箇所もある。
だが、全身を覆うような重傷ではない。
痛みよりも――
身体の中心にあるのは、鉛を詰め込まれたような、深い疲労感だった。
「アリスさん……意識が戻りましたか?」
優しく、穏やかな声が耳に届く。
視線を向けると、ティアナ騎士団の救護班の一人が、手当てをしていた手を止め、ほっとしたように微笑んでいた。
彼女たちは後方で常に待機し、緊急時には即座に駆けつけられる体制を取っていたのだ。
「大丈夫ですよ。今は魔導点滴で、栄養と水分、それから魔力回復用の安定剤を補給しています」
救護班はそう説明し、声をさらに落ち着かせる。
「無理は禁物です。しばらくは横になって、安静にしてくださいね」
アリスは小さく喉を鳴らし、かすかに頷いた。
声を出そうとしたが、思ったよりも喉が乾いていて、言葉にならない。
それでも。
誰かに守られているという感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。
その様子を確認した救護班が、視線を後方へ向けた。
ほどなくして、魔導車の扉が開き、外の光が一瞬だけ差し込む。
ティアナ、セシリア、クラリスが、慌ただしく乗り込んできた。
鎧が触れ合う金属音とともに、三人の影がアリスの上へと落ちる。
「アリスさん……」
ティアナが身をかがめ、顔を近づける。
「分かりますか? 私です」
その声に、アリスはゆっくりと視線を向けた。
力なくも微笑み、わずかに首を振る。
「……もう……大丈夫です」
息を整えながら、続ける。
「ご心配を……おかけしました」
そのやり取りを見ながら、救護班のスタッフが、バイタル測定器を確認しつつ報告を付け加えた。
「状態は安定しています」
「外傷は軽微。点滴の効果も出ていますので、回復は早いでしょう」
少しだけ表情を引き締める。
「ただし、過度な魔力消耗による負担が大きかったようです。無理は厳禁です」
セシリアはその言葉を受け、すぐに椅子を引き寄せ、簡易ベッドに横たわるアリスの顔を覗き込んだ。
一瞬だけ、安堵と緊張が入り混じった視線を落とす。
次いで、冷静な声で救護班に問いかけた。
「意識の安定度は?」
「幻覚や、記憶の混乱は見られない?」
「はい」
救護班は即答する。
「現時点では確認されていません」
少し間を置き、慎重に続けた。
「ただ……魔力消耗に伴う自律神経の乱れが強く、体温もわずかに低下しています」
「幻視や錯覚の可能性を完全には否定できませんが、経過観察を続ければ問題ない範囲でしょう」
セシリアは小さく頷き、顎に指を添えて考え込む。
「……つまり、即座に再調査へ戻すのは不可能」
「少なくとも、休養と補給が必要、ということね」
「その通りです」
「数時間の休息を取れば、回復傾向はより明確になるはずです」
その言葉に、場に短い沈黙が落ちた。
誰もがアリスの顔色を気にかけながらも、軽々しく言葉を挟まない。
医療機器の電子音。
点滴から滴る液体の、かすかな音。
それだけが、静まり返った魔導車内に規則正しく響いていた。
その沈黙を破るように、クラリスが懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
そして、思わず小声で呟いた。
「……実は」
「石碑を離れてから、まだ三十分も経っていないのよ」
その言葉に、アリスのまぶたがかすかに揺れた。
(……まだ……そんなに……?)
(あんなに……長く……果てしない時間を……さまよった気がしたのに……)
胸の奥に、冷たいざわめきが広がる。
自分が見た、あの戦場の幻影。
そして、今こうして横たわる現実との落差に、思わず小さく震えた。
その様子を見て、ティアナは静かに息を吐く。
安堵を滲ませつつも、慎重な口調で言った。
「一度、昼食と休憩を取りましょう」
「体調を整えてから、改めて調査に戻るべきです」
セシリアも同意するように頷き、通信機を操作する。
『――全隊に通達』
『これより、しばらく休憩に入る』
『昼食を取り、次の行動に備えて待機せよ』
通信が切れ、魔導車内に再び静けさが戻る。
アリスは差し出された水を受け取り、ほんの少しだけ口に含んだ。
乾ききった喉を、ゆっくりと潤す。
冷たい感触が食道を伝い、点滴の雫とともに、全身へと沁み渡っていく。
そのわずかな流れが、鉛のように重かった身体に、少しずつ力を取り戻させている――そんな感覚が、確かにあった。
視線を上げると、簡易照明に照らされた魔導車内の空間に、ティアナ、セシリア、クラリス――そして医療スタッフたちが、息を詰めたように立っていた。
揺れる照明の下、誰もが安堵を滲ませながらも、完全には力を抜いていない表情で、アリスのわずかな仕草や呼吸の変化を見逃すまいとしている。
その視線の重なりが、彼女がどれほど心配されていたのかを、静かに物語っていた。
「……ごめんなさい」
「驚かせちゃいましたよね」
力の抜けた声でそう口にし、アリスは小さく苦笑を浮かべた。
唇の端には、かすかな自嘲が混じる。
震えの残る指先を膝の上でそっと組み合わせながら、倒れ込んだ瞬間の無力感と、仲間に余計な心配をかけてしまったという罪悪感が、胸の奥を刺していた。
その言葉に、クラリスが一歩近づく。
彼女は静かに首を振り、落ち着いた声音で告げた。
「謝る必要はないわ」
その瞳には、友を気遣う柔らかさと同時に、解析者としての鋭い光が宿っていた。
感情と理性、その両方を併せ持った眼差しで、アリスをまっすぐに見つめる。
「あなたは職務を果たした」
「それ以上に、危険な兆候を“身体で知らせてくれた”のよ」
そして、声を少し低くして続ける。
「倒れる直前、何か感じなかった?」
「身体の変調でも、視界の揺らぎでもいい」
「本当に些細なことでも構わないわ」
「あなたの体験こそが、今の私たちにとって最大の手掛かりなの」
その言葉には、仲間としての心配と、調査を背負う者としての責任感が、確かに込められていた。
静まり返った魔導車の内部に、クラリスの声音が重く、しかし明確な意味を伴って響く。
アリスはすぐには答えられなかった。
視線を落とし、言葉を探すように沈黙する。
額を伝って落ちる一筋の汗の感触を意識しながら、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……視界が、歪みました」
「空間そのものが……溶けるみたいに、崩れていって」
呼吸を一つ挟み、続ける。
「足元の感覚が消えて」
「音が……全部、遠ざかっていく感じがして……」
喉がわずかに震える。
「気づいたら、霧の中みたいな場所に、立っていたんです」
「異空間、ということ?」
セシリアが眉を寄せ、声をわずかに硬くする。
指先は無意識に通信端末へ伸びていた。
アリスは小さく頷く。
「はい」
「最初は……真っ白な霧だけでした」
視線を上げず、言葉を選ぶように語る。
「冷たくて……」
「霧が肌に触れるたびに、心臓をぎゅっと掴まれるみたいな感覚があって……」
点滴の刺さった手を、無意識に握り締める。
針の周囲に小さな痛みが走るが、それすら意識に上らない。
「でも、少しずつ霧が晴れて」
「輪郭が……浮かび上がってきて……」
声が、かすかに震える。
「気づいたら、戦場の真ん中にいました」
「私の身体は……透けていて」
「手を見ても、骨の影すら映らないくらいで……」
一瞬、言葉に詰まり、それでも続ける。
「……まるで、幽霊みたいでした」
「戦場……」
「どんな光景だったの?」
ティアナが静かに問いかける。
その声色には、聞くこと自体を恐れているかのような、抑えた緊張が滲んでいた。
アリスは深く息を吸い、唇を震わせながら答える。
「血と、火薬の匂いがして……」
「焼けた土と、鉄の味が……空気に混じっていました」
その瞳に、恐怖と敬意が入り混じる。
「地面は、えぐれていて」
「剣や鎧が……無数に散らばっていて……」
一拍置き、声を落とす。
「その真ん中に……二人の女性騎士が、立っていたんです」
車内の空気が、さらに張り詰める。
「二人は背中を合わせて」
「無数の魔人族と、戦っていました」
言葉を紡ぐごとに、アリスの表情が引き締まっていく。
「一人は……王祖レティシア様に、とてもよく似ていて」
「もう一人は……エルファーレの女王のような方でした」
静かな驚きが、周囲に広がる。
「魔力は尽きていて」
「装備も、ほとんど壊れていて……」
声が、かすかに揺れる。
「全身、血で染まっているのに」
「それでも……最後まで剣を握って、立ち続けていたんです」
その姿を思い出すように、目を伏せる。
「互いに声を掛け合って」
「絶望の中で……それでも、必死に……」
その言葉に、ティアナ、セシリア、クラリス、医療スタッフ――全員の表情が強張った。
それが単なる幻覚ではないと、誰もが直感で悟っていた。
ここまで具体的で、しかも歴史の空白をなぞるような光景は、偶然の産物ではない。
「……そして」
「また霧に包まれて」
アリスは、静かに締めくくる。
「耳が塞がれるような轟音と一緒に……」
「気づいたら、ここに戻っていました」
声は落ち着いていたが、細い肩がかすかに震えている。
その震えは、恐怖だけではない。
彼女自身も気づかぬうちに抱いた、二人への深い敬意。
そして、その戦場を垣間見てしまった者としての、言い知れぬ重責。
魔導車内には、しばし言葉がなかった。
ただ、アリスの語った“光景”の重みだけが、静かに、確かに、その場に残っていた。
クラリスは腕を組み、目を細めたまま長い沈黙に入った。
魔導車内に、点滴の雫が落ちる微かな音だけが規則正しく響く。
やがて、低く、噛みしめるように呟く。
「……やはり、石碑があなたに“見せた”のね」
一拍置き、さらに声を落とす。
「あるいは――意図的に、強制的に引き込んだ可能性もある」
クラリスの視線が、静かにアリスへ向けられる。
「そして……あなたが見た二人」
「間違いないわ」
「王祖レティシア様と、リディア・エルファーレ女王よ」
その名が告げられた瞬間、空気が一層張り詰めた。
ティアナとセシリアは思わず顔を見合わせ、短く、無言で頷き合う。
互いの内心に走った衝撃を悟りながらも、それを表に出すことはなかった。
ティアナは胸の奥で息を整え、視線を伏せる。
セシリアはわずかに顎を引き、冷静さを保ったまま思考を巡らせていた。
クラリスは続ける。
「記録に残っているのは……本当に、断片だけ」
「王祖と初代女王が同じ戦場に立っていた、という伝承は確かに存在する」
「けれど、正確な戦闘記録は失われているわ」
指先で空中をなぞるようにしながら、淡々と言葉を重ねる。
「公文書には曖昧な表現しか残っていない」
「歴史学会の中には、意図的に伏せられたのではないかと疑う者すらいる」
「……あなたが見たのは、その“空白の真実”の一端」
視線が、再びアリスに戻る。
「おそらく――ファーレンナイト奪還戦」
「人魔大戦の、最も過酷で、最も語られなかった局面よ」
その言葉を聞いている間、アリスの胸は重く締め付けられていた。
点滴スタンドから落ちる雫が、一定の間隔でカチリ、と音を立てる。
その律動が心臓の鼓動と重なり、耳の奥に強く残る。
無意識のうちに呼吸が浅くなり、胸が上下する。
(……私が見たものは、ただの幻じゃない)
(もし、あれが本当に歴史の真実だとしたら……)
疑問が、恐怖とともに込み上げる。
(どうして……私に……?)
震える心を押し隠すように、アリスは布団の上から胸元を軽く押さえた。
全身に残るだるさ。
皮膚に滲む冷たい汗。
針の刺さった手に残る、鈍い痛み。
それらすべてが、まだ完全に現実へ戻りきれていないことを、否応なく思い知らせてくる。
ティアナはアリスを見つめながらも、言葉を発しなかった。
その瞳には、騎士団長としての判断と、一人の人間としての逡巡が同時に浮かんでいる。
セシリアは目を細め、何度も情報を整理するように思案を巡らせていた。
クラリスの言葉をきっかけに、全員の心に、ひとつの確信が芽生えていた。
――アリスは、石碑によって歴史の“深淵”に触れさせられた。
その確信は、声にされることなく、静かに広がっていく。
魔導車内を、重苦しい沈黙が包み込んだ。
アリスは静かに目を閉じる。
点滴の雫が、また一滴、静かに落ちる音を聞きながら、長く息を吐いた。
その後、主要メンバーは仮設食堂テントで昼食を取った。
布張りのテント内には、湯気を立てるスープの香りが満ちている。
硬いパンと簡素な具材。
質素ではあるが、その温かさが、張り詰めていた心を少しずつ解きほぐしていった。
アリスはまだ点滴を続けていたため、スープを数口と、柔らかく浸したパンを少量口にするだけに留めた。
それでも、仲間と同じ卓を囲む時間は、確かな安堵を彼女にもたらしていた。
そこへ、足早に駐屯地の解析班が姿を見せる。
フィレル、エルネア、マーロ。
現場には同行していなかった彼らは、撤退の報告を受けてから、ずっと不安げに待機していたのだ。
アリスの姿を認めた瞬間、三人の表情が一斉に緩んだ。
「……無事でよかった」
フィレルが、胸を撫で下ろすように言う。
「倒れたと聞いたときは、本当に……胸が凍りつきました」
エルネアも深く息を吐き、アリスの隣に腰を下ろす。
「数値だけでも、異常なのは分かっていましたけど……」
「実際に何が起きたのか、想像が追いつかなくて……」
マーロは眼鏡を直し、静かに頷いた。
「学術的な発見よりも、まずあなたの命が守られたこと」
「それが何よりです」
「……どうか、無理はしないでください」
アリスは三人の真剣な眼差しを受け止め、微笑を浮かべる。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
「でも……こうして、皆さんの顔を見られて……安心しました」
その言葉に、解析班の三人は同時に息を吐いた。
張り詰めていた緊張が、ようやく解けたかのように。
短い昼食だったが、互いの無事を確かめ合うそのひとときは、隊全体に確かな安堵を広げていった。
昼食後。
アリスは医療班に伴われ、再び魔導車内の簡易ベッドへと戻る。
点滴はそのまま続けられ、照明は落とされ、静かな環境が整えられた。
セシリアの判断により、午後の再展開は十五時以降に延期。
駐屯地には、一時的な静けさが戻ってくる。
アリスは目を閉じ、微かな揺れと点滴の律動を感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
その胸の奥には、未だ解けぬ問いと、歴史の重みが、静かに残り続けていた。




