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第六部 第三章 第3話

 議論はなおも熱を帯び、学会提出後の反響や、その先に広がる未来像へと大きく飛躍していった。

 だが――不意に、テント外から低く、腹に響くような鐘の音が鳴り渡る。

 駐屯地全体に時刻を告げる合図。休憩時間の終わりを知らせる、実務の音だった。


 その瞬間、テント内の空気が一変する。

 研究者たちも、軍属たちも、自然と背筋を伸ばし、表情を引き締めた。

 学術的な夢想や未来予測は、確かに貴重だ。だが彼らの本分は、あくまで“現地での実地調査”――いま、この場所で起きている現象を、一つずつ確かめることにある。


 魔術師団の記録装置が、再び起動音を立てた。

 感応結晶が淡く輝き、既存ログを切り替えながら、新しい基準値へと調整されていく。

 測定水晶は青白い光を灯し、精神波干渉計が一定のリズムで脈動を刻み始めた。

 補助記録士たちは手慣れた動作で符丁を打ち込み、観測条件を整え、各装置の同期を確認していく。


 テント内に、張り詰めた緊張感が戻ってくる。

 先ほどまで学会誌の名前を挙げ、未来を語っていた解析士たちも、今は一言も発さず、黙々と計測機器の最終確認に集中していた。


 やがて、セシリアが通信端末を手に取り、短く一度だけ周囲を見渡す。

 そして、明瞭で揺るぎない声を響かせた。


『――これより調査第二段階、《干渉誘導試験》に移行します』

『対象は石碑の再接近および干渉誘発行動』

『アリスさん、指定範囲内へ再度移動をお願いします』

『護衛班、ならびに魔導兵装部隊三名も同行。警戒態勢を維持してください』


「了解。すぐ向かいます」


 アリスは短く、はっきりと応じた。

 その声には、迷いはなかった。


 直後、ティアナ騎士団の魔導兵装部隊――ナディア・フェルグリッド、ミリエル・オストン、フロリア・カンタールの三名が、即座に動き出す。

 各自、装備状態を確認しながら、自然な流れでアリスの後方へとついた。


 重装型魔導兵装《G-M19/EX・フルバリアント》を装着した三人の足取りは、ただ歩くだけで周囲の空気を押しのけるような重みを持つ。

 ブーツが地面を踏みしめるたび、鈍い振動が伝わり、まるで地を抉るかのようだった。


 クラリスも携行端末を胸に抱え、アリスの横に並ぶ。

 同時に、護衛班の騎士たちが周囲へと広がり、即応可能な警戒陣形を整えていく。

 霧を裂くスラスターの微かな唸り。

 鎧の接合部が擦れ合う金属音。

 それらが重なり、駐屯地を離れる一行の足取りを、より一層重く、鋭く印象づけていた。


 しかし――クラリスは、そこで一度立ち止まる。

 視線をテント内へ戻し、短く判断を下した。


「……今度は、私がここに残るわ」

 携行端末を軽く掲げる。

「波形データの観測と、補助解析に回る。アリス、あとは頼んだわよ」


「うん。いってきます」


 アリスは穏やかな笑みを返し、再び前を向いた。

 そして、石碑のある方向へと歩みを進める。


 その背後では、三人の魔導兵装騎士が等間隔で展開し、周囲への警戒網を張りながら追従していた。

 霧を切り裂くごとく、重装ブーツが硬い地面を踏み鳴らすたび、張り詰めた空気がさらに濃くなっていく。


 やがて、定められた位置に到達すると、三人は一斉に警戒態勢へと移行した。


 ナディアは、展開式スキャンゴーグルを起動。

 視界の片隅に、周囲一帯の魔力波形がリアルタイムで表示される。

 常時監視モードへ即座に切り替え、微細な変動すら見逃さない構えだ。


 ミリエルは、肩部に固定していた携行型《魔導展開盾》を解除。

 完全展開には至らせず、即応できる中間位置で構え、魔力供給ラインを待機状態に保つ。


 フロリアは、腰から《対衝魔剣》を抜き放った。

 あえて納刀せず、そのまま逆手に持つ。

 いつでも踏み込み、斬り込める距離と角度を計算した構えだった。


 三人は一言も交わさない。

 それでも互いの間合いと役割は、完全に共有されていた。

 防御、索敵、迎撃。

 実戦時と寸分違わぬ陣形。


 その姿を目にした後方の観測班の何人かが、思わず息を呑む。

 ――まるで、いまそこに本物の戦場が出現したかのようだった。


 一連の動きを見ていたティアナは、静かに息を吐き、テント外の影に寄りかかっていたセシリアへ声をかける。


「……彼女たち、本当に頼もしいわね」

「動きに無駄がない。あの距離感、実戦慣れしていないと出せないわ」


「ええ」

 セシリアは小さく頷く。

「とくにあの三人は……というより、二人、ですね」

 一瞬だけ視線を送り、続ける。

「何というか……妙に“噛み合って”ますから」


 その言葉に、ティアナは小さく笑った。

 誇らしさと、わずかな安堵を含んだ微笑だった。


 再び、場の視線が石碑へと向かう。

 第二段階――《干渉誘導試験》。

 ここから先は、仮説ではなく、実際の“応答”を引き出すための局面だった。


 その少し離れた場所――

 石碑の前で、アリスが静かに構えを取った。

 再接近しつつ、今度は“触れずに”、わずかな魔力を流すことで干渉を試みる段階。

 距離は計測済み、立ち位置は指定範囲の中心。

 踏み込めば危険域、引けば反応は得られない。

 そのぎりぎりの境界に、彼女は立っていた。


『魔力誘導開始まで、あと十秒』

『五秒……四……三……』

『――アリスさん、どうぞ』


 通信機から届くセシリアのカウントに合わせ、アリスは両手を軽く持ち上げた。

 掌を開きすぎず、力を込めすぎず。

 指先から、霧のように淡い魔力が滲み出る。


 胸の奥で、緊張が脈を打つ。

 心臓の鼓動が、わずかに早い。

 だが呼吸は乱さない。

 吸って、吐いて。

 意識を一点へと沈めていく。


 石碑が――こちらを“見返している”ような圧迫感。

 視線はない。

 意思も、表情もないはずの石。

 それでも確かに、そこに“存在感”がある。

 ただの無機物ではないと、肌で訴えかけてくる。


(……怖くない)

(大丈夫)

(私は、これを“知る”ために、ここに立ってる)


 アリスはわずかに唇を引き結び、指先へと意識を落とし込む。

 魔力を流す速度を、呼吸と完全に同期させる。

 速すぎれば刺激になる。

 遅すぎれば、反応は拾えない。

 ――まるで細い糸の上を歩くような、精妙な調整。


 心は張り詰めている。

 だが、その奥底には、微かな期待が芽生えていた。


(私の力が……)

(本当に、この石碑に届くのなら――)

(何かを、知れるはず)


 瞬間。

 石碑の表面に刻まれた文様が、再び淡く浮かび上がった。

 彫り込まれた線が、内側から光を宿すように輝き、ゆっくりと明滅する。

 それはまるで、生き物が呼吸をするかのような律動。


 冷気を帯びた風が、足元を撫でる。

 霧がわずかに揺れ、空気が軋むような低い音が響いた。


『反応確認――全班、データ取得開始』


 観測班から一斉に合図が飛ぶ。

 符丁が走り、記録結晶が眩く点滅する。

 魔力計測値が跳ね上がり、波形表示が次々と更新されていく。


「来ました、明確な波形変化」

 フィレル・ロス少尉が声を張り上げる。

「先ほどと同じ“収束”反応」

「微弱ですが、連続性があります」


 彼のモニターには、波形が圧縮され、わずかに歪み、そして解放される様子が映し出されていた。

 一度きりではない。

 断続的ではあるが、確実に“続いている”。


「干渉可能性、高い……」

 エルネア・カース中尉がスクリーンに目を凝らし、声を絞り出す。

「誘導成功の範囲に、確実に入っています」

 その眼差しは、興奮を抑えきれずに揺れていた。


 そのとき、アリスの耳元の通信機から、落ち着いた声が届く。


『この状態を維持して』

『次は、低位構築魔術を重ねてみて』

『再度、《アイシクルランス》でいきましょう』


「了解」


 アリスは短く応じる。

 視線を石碑から外さず、距離を保ったまま、術式の構築へと移行した。


 胸の奥がざわめく。

 先ほどの反応が、偶然ではない。

 自分の魔力が、確かに石碑に届いている。

 そう実感した瞬間、次に起こることへの予測が、どうしても頭をよぎる。


(……何が起きても、おかしくない)

(でも――)

(ここで止まるわけには、いかない)


 恐れはある。

 それでも、一歩引けば、誰も確かめられない。


(私が、やらなければ)

(誰も、答えに辿り着けないんだから)


 指先に集められる微細な蒼光が、ゆっくりと形を成していく。

 冷気が立ち昇り、周囲の空気がきしむように収束する。

 氷の粒子が、まるで意志を持ったかのように整列し、一本の輪郭を描き始めた。


 呼吸に合わせて、術式は正確に組み上がっていく。

 魔法陣の環が幾重にも重なり、冷ややかな輝きを放つ。

 その様子は、氷晶が静かに花開くかのようだった。


 アリスは、わずかに震える息を吐く。


(お願い……)

(どうか、答えて)

(私の魔力に、あなたが応じてくれるなら――)


 その背後で、護衛騎士たちが無言のまま再配置に入る。

 左右の位置を微調整し、万一の際には即座にアリスを石碑から引き離せる距離と角度を確保する。


 同時に、ティアナ騎士団の魔導兵装部隊三名も、一斉に完全戦闘モードへ移行した。


 フロリアが即座に《対衝魔剣》を正眼に構える。

 刃先は石碑を斜めに捉え、踏み込み一歩で間合いに入れる位置。


 ナディアはスキャンゴーグルを戦闘解析モードへ切り替え、周囲の魔力変動と空間歪曲を同時監視。

 警告ラインが視界に走る。


 ミリエルは展開盾を最大待機状態へ引き上げ、攻撃支援モジュールを起動。

 魔力供給ラインが低く唸りを上げた。


 三者は石碑を挟むように半円形に展開し、互いの射線と死角を補完し合う。

 それは、実戦で幾度も磨かれた、一線級の布陣。


 その場にいる誰もが理解していた。

 いまこの瞬間、調査はすでに“戦闘の縁”に足を踏み入れている。


 そして――

 放たれた氷の槍が、空気を切り裂いた、その瞬間。


「反応極大!」

 フィレル・ロス少尉の声が、張り詰めた空気を震わせた。

「前回より明瞭な共振を確認! 位相一致率、急上昇しています!」


 モニターに走る波形が、鋭く跳ね上がる。

 収束と拡散を繰り返していた線は、今度ははっきりと“噛み合い”、確かな干渉の証拠を刻み込んでいた。


 同時に、石碑の文様が――今度は誰の目にも明確に分かるほど、強く光を放つ。

 刻まれた溝の一つ一つが内側から照らされ、淡い蒼白光が脈動する。

 微細な振動が地面を伝い、周囲の空気がざわめいた。


 霧が、細かく震える。

 まるで不可視の波に揺さぶられるかのように、白い靄が波紋を描き、淡い光粒が散るように宙を舞った。

 冷気が一段階、深くなる。


「……石碑、完全に起きてるわね」

 後方で、エルネア・カース中尉が息を詰めるように呟く。

「反応が受動じゃない……誘導に“応じて”る」


 魔導兵装部隊の三名は、即座に動いた。

 合図も声もない。

 それでも完全に同期した動きで、前進。


 石碑とその周囲を半包囲するように間合いを詰め、感知装置と迎撃装備を同時に起動させる。


 フロリアが一歩踏み込み、《対衝魔剣》の切っ先をわずかに下げ、石碑全体を制圧線に収める。

 ナディアはスキャンゴーグルに映る数値を即座に更新し、空間歪曲と魔力集中点を同時捕捉。

 ミリエルは展開盾を前方へ半展開させ、衝撃吸収と遮断を両立できる位置で固定した。


 護衛騎士たちも即応する。

 アリスの背後と側面に配置を再調整し、退避経路を確保。

 同時に、防衛へ移行する場合でも即座に盾列を組める、絶妙な距離を維持した。


 ――それは、疑いようのない“応答”だった。


 偶然でも、錯覚でもない。

 明確に。

 はっきりと。

 石碑が、アリスの魔力に“応じた”。


 アリスの胸は、激しく波打っていた。

 冷気に包まれた指先が、かすかに震える。

 吐く息は白く、視界の端で揺れた。


 目の前で光り続ける石碑。

 その脈動は、まるで彼女を引き止め、呼びかけているかのようだった。


(……やっぱり)

(私の魔力に、反応してる……!)


 心臓を締めつけるような圧力。

 畏怖に近い感覚。

 それでも、不思議と――逃げたいとは思わなかった。


(怖い……)

(でも……知りたい)

(もっと、確かめたい……)


 この石碑が、何を隠しているのか。

 何を待ち、何に応じたのか。


 胸中で震える感情とは裏腹に、アリスの視線は、決して逸れなかった。

 目の前で確かに“答えを返してきた存在”を、ただ、真っ直ぐに見据え続けていた。

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