第六部 第三章 第2話
フィレル・ロス少尉は、表示された波形群を切り替えながら解析を続けていたが、ふと手を止め、思わずといった様子で小さく息を漏らした。
視線は、他のどのデータでもなく、アリスの波形グラフに吸い寄せられるように固定されている。
「……正直に言っていいですか」
一拍置き、誰にともなく言葉を落とす。
「このデータだけで、一本どころか、下手をすると連作論文が書けます。理論・実測・応用例まで全部そろってる」
双峰化した主峰。
極端に短い立ち上がり。
精神波ノイズの異常な低さ。
そして副帯域の配置――。
どれもが、既存の術式理論の“外側”に位置する挙動だった。
隣でデータログを操作していたエルネア・カース中尉も、深く頷く。
普段は冷静な彼女の瞳が、研究者らしい光を帯びていた。
「波長干渉と術式共鳴の相関に加えて、遺構反応の誘発条件……」
指先でスクロールを止め、波形を重ねる。
「これまで“仮説”でしか語れなかった部分が、数値として裏づけられているわ」
声に抑えきれない熱が混じる。
「特に、副帯域と石碑の“呼吸”がここまで一致するなんて……正直、想定を超えてる」
「しかも――」
マーロ・ディルヴィン中尉が低く続けた。
その声は重く、だが確かな高揚を含んでいる。
「術者本人は、何も感じていない。違和感も、反動も、自覚的な変化もなし」
モニターを睨みつけるように見つめる。
「その状態で、これだけの差異が顕在化するのは異常だ。魔力の“波長因子”そのものを、新しい学術指標として定義できる可能性がある」
クラリスは静かに目を細め、スクロールを閉じた。
解析官としての冷静さの奥で、確信めいたものが揺れている。
「アリス……」
呼びかけは柔らかい。
「この結果、あなたが想像しているより、ずっと大きな意味を持つわ」
少しだけ言葉を選び、続ける。
「術式理論と遺構干渉、その交差点を解明できるかもしれない。――いえ、解明への扉が、今ここで開いたと言っていい」
アリスは、周囲の熱気に包まれながら、わずかに苦笑を浮かべた。
視線を落とし、控えめに言葉を返す。
「えっと……」
「すごいのは、皆さんの解析です」
「私は、本当にただ……魔法を使っただけで……」
「でも」
フィレルが、すぐに、はっきりと返す。
そこに揶揄や誇張はない。
「“その魔法”を使えたのは、あなただけだったんです」
静かな断言だった。
「同じ術式、同じ条件、同じ距離。それでも、同じ結果にはならなかった」
セシリアは記録端末を操作しながら、小さく頷く。
「この記録は、王国魔術学会にも提出されるわ」
事務的だが、重みのある声。
「だからこそ、できる限り正確に、できる限り詳細にまとめる必要がある。解釈より、まず事実を」
ティアナが興味深そうにモニターを覗き込み、腕を組んだ。
「遺構……あるいは、石碑そのものが“術者を選ぶ”のだとしたら」
考え込むように言葉を続ける。
「これは単なる調査じゃないわね。“適応性の検証”そのものになる」
テント内には、研究者特有の昂ぶりと、軍務としての冷静さが、奇妙な均衡で混ざり合った空気が漂っていた。
未知の現象に一歩近づいたという確かな手応え。
そして、それによってさらに深まった謎。
すべてが、否応なく、アリスという存在を中心に回り始めている。
そのとき、エルネアが改めてモニターに視線を落とし、目を輝かせたまま言葉を継いだ。
「……これ、学会に出したら、間違いなく複数分野で引用されるわね」
一つずつ、指折り数える。
「魔力理論学では“波長因子”の新指標として」
「術式工学では、“二重構築の安定化”の実例として」
「そして遺構学では、“未解析遺物との同調記録”として」
息を吸い、断言する。
「少なくとも、三部会同時報告レベルよ」
「しかも」
マーロが眼鏡を押し上げ、副帯域のグラフをペン先で軽く叩いた。
「これが再現性を持つなら……交信式魔導技術の基盤にまで発展する可能性がある」
「問題は」
少し間を置き、続ける。
「これが“アリスさん特有”なのか、それとも“理論的に再現可能”なのか、だ」
フィレルが即座に補足した。
「再現試験を行うなら」
「副帯域を人工的にシフトさせた疑似波形を生成し、石碑に向けて疑似術式を投射する必要があります」
「あるいは、他の術者が“二重構築”を意識的に模倣できるかどうかを試すか」
クラリスは軽く頷き、記録符丁を走らせる。
「私は模倣実験に賛成よ」
「もし他の術者が同じ挙動を意図的に再現できれば、“個人特異”ではなく“理論的汎用性”が立証される」
一拍置き、声を低くする。
「逆に、誰も再現できないなら……それはアリス固有の因子」
「“適応性”そのものが、明確に定義される」
セシリアは腕を組んだまま、全員を見渡した。
「つまり、次の段階は再現性試験」
「比較対象を広げ、人工条件下で“副帯域の一致”を起こせるかどうかを検証する」
ティアナが小さく笑みを浮かべる。
「再現できても、できなくても……学会は大騒ぎになるわね」
「できれば、新しい理論枠の提唱」
「できなければ、“適応者”という概念の証明」
穏やかだが、断言に近い声音。
「どちらにしても、魔術史に残る成果よ」
その瞬間、テント内の全員が、言葉を交わさずに頷き合った。
光のスクリーンに踊る複雑な波形は、もはや単なる解析結果ではない。
これから先の学術。
そして遺構探索の未来。
その扉を叩く、新しい時代の証拠として――確かに、そこに存在していた。
光のスクリーンに浮かび上がる複雑な波形を見つめながら、議論は自然と「この成果が世に出たとき」の話題へと移っていった。
先ほどまで数値と構造に集中していた空気は、次第に“外の世界”を意識した重みを帯びていく。
解析班の誰もが、これが単なる一事例では終わらないことを、すでに理解していた。
エルネア・カース中尉が端末に指を走らせ、ログの階層を閉じながら慎重に言葉を選ぶ。
思考をまとめるように、一度だけ深く息を吸った。
「……このまま学会に提出された場合、査読者たちは間違いなく二つの態度に分かれますね」
「一方は、“未解析遺構に対する実証データ”として強い関心を示すでしょう」
「特に、波長因子と遺構同調の関係は、魔術理論学部会で最重要テーマとして扱われるはずです」
スクリーンに映る副帯域を指先で示しながら続ける。
「これまで遺構反応は、逸話か偶発事象として片付けられてきました。でも今回は、明確な数値と相関がある」
「“説明できない”ではなく、“説明に踏み込める”段階に入った……それだけで、学会は黙っていられません」
マーロ・ディルヴィン中尉が小さく頷き、手元の紙束をめくった。
走り書きされたメモには、すでに複数の学術誌名が並んでいる。
「だが同時に、強い懐疑も浴びる」
声は低く、現実を突きつける響きだった。
「査読者の中には、必ず“単なる偶発的干渉だ”と切り捨てようとする者が出る」
「学術誌『王国魔術理論紀要』なら、なおさらだ。あそこは伝統的で、保守的だ」
眼鏡越しにスクリーンを見つめ、静かに続ける。
「理論的再現性が未確立、被験者が一名、条件が特殊……」
「そう指摘されれば、一旦は差し戻し、あるいは“追加検証要請”になる可能性が高い」
フィレル・ロス少尉が苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
だが、その表情に諦観はない。
「逆に、軍学会寄りの雑誌なら話は早いです」
「例えば『戦術魔導工学紀要』や『軍事魔導応用誌』」
「“実戦環境で得られた希少データ”として、即時掲載される可能性は高い」
一拍置き、声を落とす。
「ただし……そうなると、評価軸が変わる」
「これは“研究成果”ではなく、“軍事的価値を持つ事象”として扱われるリスクがある」
ティアナがその言葉を受け取り、静かに呟いた。
腕を組み、視線をスクリーンから外さない。
「学術会は理論を求め、軍学会は応用を求める」
「どちらに出しても波紋は広がるでしょうね」
「そして、“適応者”の存在をどう位置づけるかで、論調は決定的に分かれる」
クラリスが端末を閉じ、思索するように指先で顎を支えた。
視線は遠く、データの先を見据えている。
「学術会側は、間違いなく“アリスさん個人の特異性”に焦点を当てるわ」
「体質因子、魔力傾向、精神波特性……徹底的な分解と分類」
「その過程で、“適応性”という概念が、学理として定義されていくでしょう」
少し間を置き、続ける。
「でも、軍学会は正反対」
「見るのは結果だけ。“石碑が反応した”“遺構が同調した”――それだけで十分」
「次の任務で再現性が確認されれば、“適応者”は即座に戦力区分へ入れられる」
セシリアが腕を組んだまま、低く言葉を継ぐ。
冷静な声の底に、わずかな警戒が滲んでいた。
「つまり、評価される前提が違う」
「学術は時間をかけて理解しようとする。でも軍は、結論を急ぐ」
「このデータは……その両方から同時に注目される」
マーロが眼鏡を外し、布で丁寧に磨きながら付け足した。
「仮に査読が通った場合でも、掲載誌は二系統に分かれるでしょう」
「学術会なら『王国魔術理論紀要』、あるいは特集号」
「軍学会なら『応用魔導戦術学報』。再現性が示されれば、来季の軍備研究会で必ず議題になる」
エルネアは苦笑しながらも、小さく肩を震わせる。
「……査読者同士が激論を交わす光景が、もう目に浮かびます」
「“再現性のないものは学術ではない”と切り捨てるか」
「それとも、“未知の因子が存在する”と踏み込むか」
一瞬、視線を上げる。
「どちらに転んでも、間違いなく歴史に残る論文になりますね」
ティアナがテント内を見渡し、低く呟いた。
「学会は慎重に認めたがる」
「軍は、早く使いたがる」
「……このデータは、その狭間に置かれることになる」
テント内に、再び沈黙が訪れた。
だがそれは、不安や恐れによるものではない。
確信に裏打ちされた、重い沈黙だった。
いま目の前にあるデータが、王国の学術史にも、軍事史にも刻まれる一歩であることを。
そして、その中心にアリスという存在がいることを――
ここにいる全員が、はっきりと理解していた。




