閑話「喪失と継承」――レティシア編(ep,200記念)
ついに『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -』も、累計200話となりました。
ここまで読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
そして世間では、明日は4月1日。
多くの方にとって、新たな門出となる日かと思います。
一方で作者にとっては、この3月31日はとても思い出深い一日でもありました。
出会いがあり、別れがあり、何かが終わり、そしてまた何かが始まっていく――
そんな節目のような日です。
なぜか200話が3月31日か4月1日になるという、どこか運命的なものを感じてしまい……(笑)
今回のお話は、そうした想いも少し重ねながら、
「喪失」と「継承」というテーマを軸に書いてみました。
ささやかながら、200話記念のSSとしてお楽しみいただければ幸いです。
その報は、あまりにも唐突だった。
大陸北西部に位置するハイエルフ王国 《エルファーレ》が一夜にして滅びた。
将軍アズマール・ベル=ノクトが王位を簒奪し、その地に新国家《魔国》が誕生したのである。
さらに――その侵攻は止まらず、王国ミラージュもまた滅亡したとの報が続けて伝えられていた。
それはすなわち、国境を守り続けてきたファーレンナイト辺境公爵家の滅亡をも意味していた。
その衝撃は瞬く間に南大陸全土へと広がり、各国を揺るがす事態となった。
そしてその報は、ザンスガード帝国帝都にもすでに届いていた。
帝都の一角にあるファーレンナイト辺境公爵家の屋敷にもまた、その知らせは重く、確かに落とされていた。
だが――
それはあまりにも現実離れしており、誰もがどこかで誤報であることを願っていた。
あの王国が、一夜で滅びるなどあり得ない。
それは誇張された噂か、あるいは敵対勢力による攪乱に過ぎないはずだと。
そうであってほしいと。
そして――
ザンスガード帝国帝都、その一角にあるファーレンナイト辺境公爵家の屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。
夕刻を過ぎ、赤く沈みかけた陽光が石畳を長く引き伸ばし、帝都の高層建築の影が幾重にも重なっている。
遠くでは商人たちの呼び声や車輪の軋む音がかすかに響いていたが、この屋敷の前だけは異様なほど音が薄く、まるで空気そのものが沈んでいるかのようだった。
門前に控える衛兵たちも、理由の分からぬ緊張に包まれている。
それは“知らない”からではない。
知ってしまったがゆえに、信じきれず、現実として受け止めきれていないがゆえの不安だった。
沈みかけた陽光は、石畳のわずかな凹凸を際立たせ、長く伸びた影の中に微細な塵を浮かび上がらせていた。
乾いた空気の中に、ほんのわずかに鉄の匂いが混じる。
理由のない違和感が、門前の全員の胸の奥に引っかかっていた。
その時だった。
石畳の奥、帝都の街路の向こうから、ふらつく影がいくつも現れる。
最初は誰も、それが何かを理解できなかった。
夕陽に逆光となったそれは、人影でありながら、まともな形を保っていなかったからだ。
だが、近づくにつれて――その異様さが露わになる。
乾ききった血と煤に覆われ、なおも行軍で開いた傷から新たな血が滲む鎧。
金属の継ぎ目は裂け、打ち砕かれた装甲片がぶら下がり、歩くたびに鈍い音を立てる。
崩れかけた隊列。
互いに肩を貸し合い、ある者は引きずられ、ある者は担がれ、それでもなお前へと進もうとする者たち。
その足取りは、もはや行軍ではない。
ただ倒れないためだけに、前へと身体を押し出しているに過ぎなかった。
それは――報ではない。
現実だった。
総勢、十七、八名。
かつて精鋭と謳われた近衛隊の面影は、そこにはほとんど残っていなかった。
夕陽が、彼らの姿を赤く染める。
それはまるで、全員が血に浸かっているかのような錯覚を与えた。
門前の衛兵――同じくファーレンナイト辺境公爵家に仕える門番たちは、その姿を視認した瞬間、理解した。
あの紋章、あの軍服、その装備――見間違えるはずがない。
それは紛れもなく、自分たちと同じ家門に属する近衛隊だった。
胸元に刻まれた家紋。
肩当ての形状。
帯剣の位置。
すべてが一致している。
だからこそ――
理解してしまった。
あの“報”が。
噂ではなく。
誇張でもなく。
事実であることを。
だが――
あまりにも、変わり果てていた。
鎧は裂け、焦げ、原型を留めていない。
焼け焦げた金属はすでに冷え切り、黒く変色したまま歪に固着している。
長距離の行軍によって擦れ、削れ、ひび割れ、かつての装甲としての機能をほとんど失っていた。
誇りの象徴であったはずの紋章も、血と煤に覆われ、かろうじて識別できる程度にしか残っていない。
その紋章に付着した血は、すでに乾き黒く固着しているものと、行軍によって開いた傷口から新たに滲み出たものが混じり、何層にも重なっていた。
立ち方も、歩き方も、すでに“兵”のそれではなかった。
その足取りは、もはや歩行と呼べるものではなかった。
一歩踏み出すごとに膝が揺れ、重心が崩れ、それでも倒れまいと無理やり身体を支える。
長い道のりの果てに、限界を超えた身体をなお前へと押し出している。
呼吸は荒く、喉の奥で擦れる音がかすかに聞こえる。
乾ききった喉が、空気を通すたびに悲鳴を上げていた。
門前の衛兵が、息を呑む。
誰もが同じものを見ている。
だが、それを言葉にできない。
喉が、動かない。
それでも――職務が、反射的に身体を動かした。
「……止まれ!」
声が出る。
だが、それは本来の張りのある声ではなかった。
自分でも分かるほどに、かすれていた。
反射的に声を張り上げる。
だが、その言葉の後が続かない。
本来であれば、身分確認、所属確認、状況確認――続くべき言葉はいくらでもある。
「……所属を……いや、その……」
言葉が絡まり、消える。
別の衛兵が、口を開こうとする。
「お、お前たち……何が……いや……」
そこで止まる。
問いかけるべき内容は分かっている。
だが、それを口にすること自体が、現実を認めることになる。
それを、本能が拒んでいた。
それでも――
何も、出てこなかった。
目の前の光景が、それを許さなかった。
先頭に立つ男が、膝をついたからだ。
いや――力尽きて、崩れ落ちた。
レグリス・ハワード。
ファーレンナイト辺境公爵家、近衛隊副隊長。
その体は、すでに限界を超えていた。
鎧は深く裂け、胸部の装甲は内側から押し潰されたように歪んでいる。
焼け焦げた跡は残っているが、それはすでに冷え切り、ただ黒くこびりついているだけだった。
乾ききった血が幾重にもこびりつき、その上から行軍で開いた傷口から新たな血が滲み出ている。
血が石畳に滴り、乾いた音を立てて広がっていく。
それは戦場の直後の血ではない。
長い道のりの中で、何度も開き、何度も流れた傷の証だった。
呼吸は荒く、喉の奥で擦れる音がかすかに漏れる。
肺の奥で血が泡立ち、吸うたびに痛みが走っているのが見て取れた。
それでも彼は、顔を上げる。
震える首を無理やり持ち上げるようにして。
焦点の合わない視界の中、それでも必死に“ここ”を見据えようとする。
「……レティシア様に……お会い、したい……この身が朽ちる前に……必ず……お言葉を……お届け……しなければ……ならない……ここまで……必ず……辿り着くと……誓って……」
かすれた声だった。
言葉の合間に、血混じりの息が漏れる。
一語ごとに、喉の奥が裂けるような痛みが伴っているのが分かる。
だが、その声音には、揺らぎがなかった。
命が尽きかけていることなど、些事に過ぎないと言わんばかりに。
その場にいる者すべてが、その一言の重さを理解した。
後方で、仲間たちが崩れる。
支えていた者が膝を折り、連鎖するように倒れ込む。
装備が石畳にぶつかり、鈍い音がいくつも重なる。
一人、また一人と膝をつき、その場に倒れ込む。
腕の力だけで身体を支えようとする者。
倒れた仲間に手を伸ばそうとして、そのまま力尽きる者。
だが――
それでも、誰一人として声を上げない。
呻きすら、押し殺している。
それは規律ではない。
ただ一つ。
“辿り着く”という意志だけが、彼らをここまで運んできた。
ただ――ここまで辿り着くために。
屋敷の空気が、一変する。
門前で抑え込まれていた緊張が、一気に弾けた。
張り詰めていた空気が破れ、静寂が音を立てて崩れる。
衛兵が駆け出し、門が開かれ、使用人たちが慌ただしく動き出す。
鉄製の門扉が軋みを上げて開かれ、重い音が低く響いた。
担架が運ばれ、治癒術師が呼ばれ、血の匂いが急速に広がっていく。
乾いた空気の中に、古い血と新しい血が混じった重い鉄の匂いが濃く広がり、鼻腔を刺す。
白布を抱えた使用人が走り、治癒術師は術式を展開しながら指示を飛ばす。
「急いで運んで! 長距離の行軍で傷が開いてる、止血を最優先に!」
「こっちは意識ありだ! だが消耗が激しい、すぐに処置を――無理に動かすな!」
怒号にも似た声が飛び交い、整然としていた屋敷の秩序が一瞬で戦場のような緊迫へと変わる。
その報は、屋敷の奥へと一瞬で駆け抜けた。
廊下を走る足音。
磨き上げられた床に靴音が鋭く響き、壁に掛けられた装飾がわずかに揺れる。
息を切らした使用人の声。
「セリオナ様! 門前に……近衛隊が……レグリス副隊長が……ただ事ではありません……全員が重傷で、立っているのもやっとの状態です……ここまで……長距離を踏破してきた様子で……!」
その言葉を受けたセリオナ・エクスバルドは、即座に踵を返した。
躊躇はない。迷いもない。
その判断は、思考よりも先に身体が動いたかのようだった。
向かう先は、ひとつだった。
レティシアのもと。
扉の前に立ち、ノックを入れる間すら惜しむように声をかける。
「レティシア様、失礼いたします。門前にレグリス副隊長が到着しました。重傷、他にも生存者が複数確認されています……長距離の行軍の末に到達した様子で、ただならぬ状況です、至急のご判断を」
短い沈黙。
だが、その静寂は重くはなかった。
むしろ、極めて速く、研ぎ澄まされた思考の時間だった。
すぐに、内側から応答が返る。
「……どちらに?」
落ち着いた声音だった。
だが、その奥にある緊張は、セリオナにははっきりと伝わっていた。
わずかに抑え込まれた呼吸。
その一拍の中に、すべてを受け止める覚悟が宿っている。
「正門前です。すでに応急処置を開始していますが……状態は深刻です、長くは保たない者も出るかと」
そこまで告げたところで、扉が開く。
レティシア・ファーレンナイトが現れた。
簡素な室内着のワンピース姿のまま、整えきる間もなく出てきたことが一目で分かる。
髪もわずかに乱れ、普段の整った姿とは異なっている。
そのままでは外に出るにはあまりにも無防備だった。
セリオナは一瞬で判断し、すぐ傍の衣装掛けから薄手の濃紺の外套――カーディガンのような上着を取り上げる。
「失礼いたします」
そう一言添え、レティシアの肩にそっと羽織らせる。
指先の動きは無駄がなく、乱れた襟元も素早く整えられる。
肩口のずれを直し、前合わせを整え、風を通さぬよう軽く押さえる。
レティシアはそれを拒まず、ただ静かに受け入れた。
濃紺の外套がその身を包む。
それだけで、彼女は再び“公爵家の令嬢”としての姿を取り戻していた。
その瞳にはすでに覚悟が宿っている。
揺らぎはない。
「案内して」
「はい」
セリオナは一礼し、先導する。
二人は廊下を進む。
足音は最小限。
だが歩みは速い。
長い廊下を進むたび、屋敷の空気が変わっていく。
静謐だった空間に、ざわめきが混じる。
使用人たちが駆け交い、指示の声が低く飛び交っている。
屋敷の空気が、次第に変わっていく。
慌ただしさが濃くなり、血の匂いが微かに漂い始める。
その匂いは、戦場の直後のものではない。
長い道のりの中で積み重ねられた傷と、再び開いた血の現実を伝えていた。
曲がり角をいくつも抜け、広間を横切り、外へと続く回廊へ。
外気が流れ込み、夕暮れの冷たい風が頬を撫でる。
そして――
門前へと至る。
レティシア・ファーレンナイトが、その場に現れた。
濃紺の外套の裾が、静かに揺れる。
足音はほとんど響かない。
だが、その場のすべての視線が、自然と彼女へと集まった。
ざわめきは、一瞬で消えた。
使用人の動きも、治癒術師の詠唱も、すべてがわずかに遅れる。
まるで、その場の時間そのものが、彼女を中心に再編されたかのようだった。
蒼銀の瞳が、倒れ伏す者たちを見渡す。
乾いた血と新たな血が混じる石畳。
崩れた近衛。
必死に意識を繋ぐ者たち。
ほんの一瞬。
わずかに、その奥が揺れた。
胸の奥に突き刺さる光景。
見慣れているはずの血と傷。
だが――
それが「自分の家門」であるという事実が、わずかにその心を震わせた。
だが次の瞬間には、消えている。
すべてを押し込み、沈め、ただ一つの役割だけを残す。
受け止める者としての姿。
レティシアは、ゆっくりと歩み寄る。
石畳に刻まれた血の跡を踏みしめながら。
靴底が、乾いた血と新たな血の混じる表面を踏み割る音を立てる。
わずかに滑る感触すら、意識の外に押しやられていた。
そして、レグリスの前で止まった。
「……話して。すべてを。何があったのか、一つ残らず……あなたが見たままを、ここに至るまでのすべてを」
短い一言だった。
命令でも、問いでもない。
ただ、受け止める覚悟だけがそこにあった。
レグリスは、かすかに息を吐き、わずかに笑う。
その笑みは、安堵と、悔恨と、すべてを含んでいた。
「……申し訳、ありません……本来なら……皆で……帰るべき、はずでした……一人も欠けることなく……この報を……お伝えするべきでした……」
言葉の途中で、血が喉を塞ぐ。
それでも、吐き出すように続ける。
「……ですが……それすら……叶わず……このような……有様で……長い道を……ただ……ここまで……辿り着くことだけを……」
背後で、仲間の一人が拳を握りしめる。
だが、何も言わない。
言えない。
その拳は震えている。
悔しさか、痛みか、それとも両方か。
レグリスが、続ける。
「……辺境公爵領は……陥落、しました……オルド砦……半日で……崩れました……守りきれませんでした……我らの力では……あまりにも……」
その言葉に、周囲の空気が凍りつく。
半日。
五百年守り続けてきた防衛線が、たったそれだけで崩壊した。
誰もがその意味を理解しながら、理解したくなかった。
それはすでに届いていた報の裏付けであり、否定していた現実そのものだったからだ。
「……敵は……二千以上……魔人兵……術士部隊……空間跳躍……黒き礫……砦の防壁ごと……吹き飛ばされました……防御陣は……意味を成さず……」
途切れ途切れの言葉。
だが、その一つ一つが鮮明な光景を伴っていた。
それは今この場で起きているものではない。
彼の中に焼き付き、ここまで持ち運ばれてきた“記憶”だった。
黒き閃光。
砕ける石壁。
吹き飛ぶ兵。
そのすべてが、時間を越えてこの場に再現されていく。
「……砦の門が……一撃で……消し飛び……壁を……魔人が……這い上がり……破壊の巨人が……拳で……城壁を……砕き……中に……侵入され……」
呼吸が乱れる。
胸が大きく上下し、そのたびに傷口が軋み、再び血が滲み出る。
だが、止まらない。
「……通路が……血で……埋まり……炎が……天井を……焼き……逃げ場は……なく……三日後……レイザンクロス城……包囲……すでに……退路は……なく……」
語られるのは、過去。
だがその重さは、今この場に生々しく存在していた。
レティシアは、動かない。
ただ、聞いている。
その場に立つ誰よりも静かに。
「……ロドルフ様は……最前線に……立たれ……最後まで……退かず……ラルフ様も……共に……門前で……すべてを……食い止めるために……我らに……命じられました……退くなと……だが……」
その先は、言葉にしなくても分かる。
沈黙が、すべてを語る。
レティシアの表情は、変わらない。
「……続けて」
ただ、それだけを言う。
レグリスは、ゆっくりと頷く。
「……最後に……お二人から……言葉を……預かりました……」
空気が張り詰める。
周囲の誰もが、息を止める。
「……続けて」
レグリスは、一度だけ強く息を吸い込む。
その胸は裂けるように上下し、今にも崩れそうだった。
「……本来であれば……私は……公爵様と共に……最後まで……戦い……果てるべき身でした……その覚悟で……剣を取り……盾を掲げておりました……」
血に濡れた拳が、石畳をわずかに掴む。
その血は、戦場のものではない。
ここまでの道のりで開き続けた傷の証だった。
「……ですが……ロドルフ様と……ラルフ様より……厳命を受けました……命を賭してでも……レティシア様へ……この言葉を……届けよと……」
声が震える。
「……『生きて……行け』と……『レティシア様に……必ず……伝えろ』と……我らの死よりも……その言葉を優先せよと……」
奥歯を噛み締める音が、かすかに響く。
「……私は……命を……繋ぎました……仲間を……見捨てる形で……」
顔が歪む。
「……生き恥を……さらしてでも……ここまで……参りました……それが……命であったがゆえに……ただ……この場所に……辿り着くためだけに……」
涙が、血に混じって石畳へと落ちる。
それでも――
彼は顔を上げる。
そして、最後の力を振り絞る。
「……ロドルフ様は……『剣であれ。盾であれ。何を失おうとも、守ることをやめるな』……と……おっしゃいました……最後まで……笑って……我らを……送り出されました……」
レティシアの指先が、わずかに震える。
「……ラルフ様は……『生きろ。すべてを継げ。お前なら、できる』……と……その言葉を……何度も……繰り返されました……」
その言葉が落ちた瞬間――
空気が、止まる。
レグリスは、深く頭を垂れた。
「……これにて……我が役目は……終わりました……命を繋いだ理由は……ここにあります……」
一拍。
「……どうか……この場で……私に……裁きを……主を守れず……国を守れず……ただ命を……繋いだだけの身……それは……恥でしかありません……」
声は静かだった。
「……自害……あるいは……処刑を……お命じください……それが……近衛としての……最後の務めと……心得ております……」
沈黙。
その場の誰もが、言葉を失う。
だが――レティシアは、一歩だけ前に出た。
石畳に残る乾いた血と新たに滲んだ血が混じるその上を踏みしめる。
靴底がわずかに滑る感触を伝えるが、彼女の歩みは一切乱れない。
その視線は、真っ直ぐにレグリスを捉えている。
逸れない。
揺らがない。
その瞳に宿るのは、怒りでも悲嘆でもなく、すべてを受け止めるという絶対の意志だった。
「……顔を上げなさい。レグリス、副隊長としてではなく、私のもとへ辿り着いた者として、正面から応えなさい」
その声音は静かであるにもかかわらず、場の空気を支配する。
命令であることを疑う余地はなく、逆らうという選択肢は初めから存在しない。
レグリスは、ゆっくりと顔を上げる。
視界は濁り、焦点は曖昧に揺れている。
だが、それでも彼は必死にその声の主を見据えようとする。
「……あなたは、命令に従った。命を懸けて守るべきものを守り、託された言葉をここまで運びきった。その重さを、私は理解している」
一歩、さらに近づく。
距離が詰まる。
それに比例して、言葉の圧が増していく。
「……祖父の命令に従い、すべてを背負ってきた。その覚悟を、あなたは最後まで手放さなかった」
さらに一歩。
視線がわずかに下がり、レグリスの傷だらけの姿を正面から受け止める。
「……父の命令に従い、生きるという選択を貫いた。その意味を、あなたは決して裏切っていない」
蒼銀の瞳が、まっすぐに射抜く。
「……ならば、今は私の命令に従いなさい。ここにいる者として、今を生きる者として、その命を使いなさい」
空気が変わる。
誰もが息を呑む。
「……生きなさい。ここで終わることは許さない。あなたが繋いできた命を、ここで断ち切ることを、私は許さない」
一切の迷いはない。
「……私のために生き続けなさい。ここで死ぬことは許さない。あなたはすでに役目を果たした。だからこそ、これ以上背負う必要はない。ただ生きて、ここに在り続けなさい」
それは赦しではない。
命令だった。
絶対の命令だった。
レグリスの瞳が見開かれる。
絶望に沈みかけていた意識の奥で、何かが再び灯る。
崩壊しかけていた内面が、静かに再構築されていく。
そして――戻る。
ゆっくりと、深く頭を垂れる。
「……御意……この命、レティシア様のために尽きるその時まで……」
その一言が、確かに響く。
次の瞬間、力が抜ける。
身体を支えていた意志がほどける。
ゆっくりと、抗うことなく、石畳へと崩れ落ちる。
背後で仲間たちが反応する。
だが誰も動けない。
その光景の重さが、身体を縛りつけていた。
誰も声を出さない。
ただ、その瞬間を見届ける。
レティシアは、立っていた。
その場に。
蒼銀の瞳は、静かにレグリスを見据えている。
その奥にある感情は、外へは現れない。
だが――
ほんのわずかに、瞼の奥で光が揺れた。
押し込められた感情。
押し殺された衝動。
それでも完全には消えなかったもの。
その揺らぎは一瞬で沈む。
呼吸一つの間に、完全に制御される。
唇は結ばれたまま。
頬は動かない。
指先も揺れない。
姿勢も崩れない。
涙もない。
声もない。
取り乱しもない。
それでも、その場にいる者すべてが理解した。
彼女が何を受け取ったのかを。
ここに至るまでの死。
守りきれなかったもの。
それでも届けられた言葉。
そのすべてを。
長い沈黙ののち。
レティシアは一歩だけ前へ出る。
足音が乾いた音を立てる。
そして――静かに、深く。
その場に膝をつき、頭を垂れた。
濃紺の外套が石畳に触れる。
血の跡をわずかに吸い込む。
公爵家の令嬢としてはあり得ない行為。
本来ならば許されない姿勢。
だが、その動作に迷いはない。
命を繋ぎ、言葉を届けた者への敬意。
忠義を貫いた者への礼。
それがすべてだった。
「……ありがとう。ここまで来てくれて、よく届けてくれました。あなたたちが辿り着いたことで、すべては無駄ではなかったと、私は断言します」
その言葉は静かに落ちる。
だが、誰一人として聞き逃さない。
やがて、顔を上げる。
瞳は変わらず静かでありながら、確かな熱を帯びている。
呼吸を整え、そのまま立ち上がる。
外套の裾がわずかに揺れる。
そして、視線を上げる。
使用人たちへと向ける。
その瞬間、全員の背筋が伸びる。
「……この方たちは、ここまで生き延びてきた近衛です。すぐに治療を施し、休ませてあげてください。できる限りの手を尽くして命を繋いでください。一人として失うことは許しません。丁重に、最大限に、いたわってください」
静かな声音。
だが、その重みは絶対だった。
「はっ!」
使用人たちは動き出す。
担架が運ばれる。
負傷者が慎重に持ち上げられる。
治癒術の光が淡く広がる。
血に濡れた布が交換される。
その光景を一瞥する。
そして、レティシアは踵を返す。
「……しばらく、私が出てくるまで誰も来させないで。どんな理由があっても、誰一人として扉の前に近づけないように。これは命令です」
振り返らずに告げる。
その声音には決意がある。
誰もが理解する。
そして彼女は、何も言わず。
誰にも視線を向けず。
自室へと戻った。
扉が閉まる。
重く、静かに。
それきり――
一日。
誰も、その扉を開けることはできなかった。
廊下に立つ一人の少女がいる。
セリオナ・エクスバルド。
レティシアの警護兼侍女。
扉の前で、ただ立ち続けていた。
時間が過ぎる。
朝が来て、昼が過ぎ、夜が落ちる。
窓の外の光が移ろい、影が長く伸び、やがて消えていく。
それでも彼女は、そこを動かなかった。
足の痺れも、乾いた喉も、重くなるまぶたも、すべてを押し殺すようにして、その場に在り続ける。
廊下の空気は静まり返り、遠くで響く使用人たちの足音さえも、この場所ではどこか遠いもののように感じられた。
何度も、手を伸ばしかけた。
扉に触れようとして――止める。
その先に踏み込む資格があるのか、自問するように。
指先が、わずかに震える。
扉の向こうにいる主を思い、その苦しみを想像するたびに、胸の奥が締め付けられる。
だが――踏み込まない。
それが、今の自分に許された唯一の忠義だと、理解していたからだ。
「……レティシア様……どうか……お一人で抱え込まれませんように……ですが……今は……私が踏み込むべき時ではないのですね……どうか……どうか……お戻りください……必ず……」
小さな声。
それは、扉の向こうには届かない。
それでも、離れなかった。
ただ、そこに在り続けた。
そして――翌日。
扉が、静かに開く。
軋む音はない。
ただ、空気が動く気配だけが伝わる。
閉ざされていた空間から、わずかに冷えた空気が流れ出す。
その気配だけで、セリオナは顔を上げた。
現れたのは、レティシアだった。
その目は、泣き明かしたことでわずかに腫れ、赤みを帯びている。
まぶたは重く、乾いた疲労の影が濃く落ち、一睡もしていないことが誰の目にも明らかだった。
頬には、わずかに乾いた涙の跡が残っている。
だが――
その瞳だけは、違っていた。
迷いが、消えている。
揺らぎが、ない。
ただ、静かに燃える光。
それは、悲しみを越えた先にあるもの。
すべてを受け入れ、その上で立ち続けると決めた者の光だった。
セリオナは、思わず息を呑んだ。
その変化を、誰よりも近くで感じ取る。
胸の奥で、何かが震える。
それは安堵ではない。
誇りでもない。
覚悟に対する、理解と共鳴だった。
「……セリオナ」
「はい」
「……行くわ。皆を大広間へ集めて。門番も含めて、屋敷にいる全員を、今すぐに……一人たりとも例外は認めない、全員に直接伝達しなさい」
セリオナは一瞬も迷わなかった。
その言葉に込められた意味を、理解していたからだ。
「承知いたしました。直ちに伝達いたします……全員、例外なく招集いたします……いかなる業務中であっても中断させ、必ず大広間へ集めます」
一礼と同時に、身体が動く。
踵を返し、廊下へと踏み出す。
その足取りは速く、だが乱れはない。
セリオナは扉の前から一歩踏み出すと、廊下に控えていた使用人たちへと鋭く視線を向ける。
その視線だけで、全員が背筋を伸ばした。
「全員、聞きなさい。至急通達。屋敷にいるすべての者を大広間へ集めて。門番、使用人、治癒術師、警備――すべて含めて例外なし。繰り返す、例外なし。即時行動。遅延は一切許しません」
一瞬の静止。
だが次の瞬間には、全員が理解していた。
「はっ!」
短く、揃った応答。
セリオナは即座に指示を分割する。
「あなたは東棟。各部屋を回って一人残らず呼びなさい。取りこぼしは許しません。鍵のかかった部屋もすべて確認しなさい」
「は、はい!」
「あなたは西棟。厨房、作業場、裏手の人員もすべて。誰一人残さず伝えなさい。火を使っている場合は安全確保の上で即時中断」
「承知しました!」
「あなたは中庭側から門前へ。門番にも必ず伝達。正門だけでなく裏門も含めて全員です。交代中の者も呼び戻しなさい」
「了解!」
次々と人が走り出す。
廊下に足音が反響し、静寂だった屋敷に急速に緊張が満ちていく。
伝令はさらに枝分かれし、声が連鎖する。
「大広間集合だ! 例外なし!」
「門番にも伝えろ、全員だ!」
「治癒班もだ、動ける者はすぐに!」
声が廊下を駆け抜け、階段を下り、奥へ奥へと広がっていく。
屋敷全体が動き出す。
静かだった空間に、規律ある足音が重なり始める。
その動きは乱雑ではない。
すべてが訓練された動きであり、統制の取れた流れだった。
そのすべてが、一点へと収束していく。
セリオナは指示を終えると、振り返る。
そこに立つレティシアを、一瞬だけ見る。
その姿は、昨日までのそれとは明確に違っていた。
疲労は隠しきれない。
悲しみも消えてはいない。
だが、それらをすべて内に収めた上で――
立っている。
ただ、前を見て。
レティシアは、静かに歩き出した。
その一歩は重くも軽くもない。
ただ、確かな意志だけを伴っている。
足音は絨毯に吸われ、ほとんど音を残さない。
だが、その存在は、確かに廊下全体に伝わっていた。
廊下を進む。
壁にかけられた装飾、絨毯の模様、窓から差し込む朝の光。
そのすべてが、昨日とは違って見えた。
光は同じ角度で差し込み、同じように床を照らしているはずなのに、その色はわずかに硬く、冷たく感じられた。
影は長く伸びている。
だが、その輪郭はどこか鋭く、切り裂くような印象を伴っていた。
屋敷の中を行き交う者たちが、次々と足を止める。
足音が消える。
空気が止まる。
そして――深く、頭を垂れる。
誰も、言葉を発しない。
だが、その沈黙の中に、すべてがあった。
悲しみ、動揺、恐怖、そして――覚悟。
それらが言葉にならぬまま、空気の中に沈んでいた。
やがて、大広間の前へと辿り着く。
重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。
軋む音は抑えられている。
だが、木材が擦れる低い音が、わずかに空気を震わせた。
中にはすでに、多くの者たちが集まり始めていた。
使用人、警備、治癒術師、門番。
それぞれが持ち場を離れ、呼び集められた者たち。
そして、担架で運び込まれた近衛たち。
その呼吸は浅く、治癒術の光が淡く揺れている。
血の匂いが、広間の空気に混じっていた。
そのすべてが、彼女を待っている。
レティシアは、一歩踏み出す。
その瞬間――広間にいた全員が、一斉に膝をついた。
布と床が触れる音が、完全に揃う。
重なり合い、ひとつの音となる。
空気が、整う。
散っていた気配が一つに収束する。
そして、完全な静寂が訪れる。
呼吸音すら抑え込まれた空間。
レティシア・ファーレンナイトは、静かにその中央へと進んだ。
誰一人として顔を上げない中、ただ一人、前へ。
その姿は、もはや一人の少女ではなかった。
すべてを失い、すべてを継ぐ者。
その中心に、彼女は立っていた。
やがて、レティシアは足を止めた。
広間の中央。
すべての視線が向けられる位置。
すべての意志が集約される場所。
静寂は、なおも続いている。
誰一人、息を乱さない。
誰一人、顔を上げない。
ただ、その一瞬を待っている。
レティシアは、ゆっくりと視線を巡らせた。
床に膝をつく者たち。
頭を垂れる者たち。
そして、担架の上でなお意識を繋ぐ近衛たち。
そのすべてを、確かに見た。
逃げることなく。
逸らすことなく。
その現実を、そのまま受け止めるように。
やがて――静かに、口を開く。
「……顔を上げなさい。この場にいる全員に命じます。恐れも、迷いも、そのまま持ったままで構いません。だが、私の言葉から目を逸らすことは許しません」
その一言は、決して大きくはなかった。
だが、広間の隅々まで届いた。
音ではなく、意志として。
ゆっくりと、顔が上がる。
動きは揃っている。
だが、その瞳の奥にあるものは、それぞれ違う。
誰もが、彼女を見る。
その瞳の奥にあるものを、確かめるように。
レティシアは、立っていた。
揺るぎなく。
「……聞きなさい。今から話すことは、この屋敷にいるすべての者が背負うものになる。軽い気持ちで受け取ることは許さない。理解できないままでも構わない。だが、逃げることだけは許さない」
一拍。
誰も動かない。
空気が、さらに研ぎ澄まされる。
「……ファーレンナイト辺境公爵領は、陥落しました」
言葉は、静かに落ちた。
だがその重さは、床を震わせるほどだった。
「……オルド砦は半日で崩壊し、三日後にはレイザンクロス城が包囲されました。祖父ロドルフ、父ラルフを含め――守るべきすべては、そこで戦い、そして散りました」
誰も、声を上げない。
だが、その場の空気が確かに揺れた。
息を呑む気配。
抑え込まれた震え。
理解が、広がっていく。
現実として。
レティシアは、続ける。
「……これは敗北ではありません。彼らは最後まで退かず、守るべきものを守るために戦い抜きました。その意志は、ここに届いている。だからこそ――今、ここにその意志が残っている」
視線が、担架の上の近衛たちへと向けられる。
その一人一人に、確かに向けられる。
「……この者たちは、その意志を繋いだ者たちです。命を賭して、ここまで辿り着いた。その重みを、軽く扱うことは、誰にも許しません」
一歩、前へ。
「……私は、その意志を受け継ぎます。この場で宣言します。逃げることなく、背を向けることなく、最後まで」
静かに。
だが、断言する。
「……ここにいるすべての者に命じます。これは願いではない。命令です。拒否も、保留も認めません」
空気が変わる。
命令が下される空気へと。
「……この瞬間より、この屋敷はただの滞在地ではない。ファーレンナイトの意志を継ぐ拠点とする。ここは戦場と同義です」
言葉は、明確だった。
「……泣くことも、立ち止まることも許さない。悲しみは否定しない。だが、それに沈むことは許さない。沈めば、その時点で意志は途切れる」
一拍。
「……生きなさい。そして――継ぎなさい。その命が続く限り、何度でも、何度でも」
その言葉は、広間に深く沈んだ。
誰の胸にも、確かに届く。
レティシアは、視線を一巡させる。
すべてを見届けるように。
そして、最後に一言。
「……以上です。各自、持ち場に戻りなさい。今から、この屋敷は戦時体制に移行します。すべての行動はその前提で行いなさい」
その瞬間。
全員が、深く頭を下げた。
「「はっ!!」」
声が揃う。
それは、ただの返答ではない。
誓いだった。
レティシアは、それを受け止めるように、静かに立っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
累計200話という節目に、少し原点に立ち返るような物語として、本話「閑話 喪失と継承」をお届けしました。
本話は本編プロローグの1.1話目に相当する位置づけとなっており、レティシアがすべてを失い、それでもなお遺志を継ぎ、やがて訪れるであろう“自ら戦場に立つ覚悟”を固める、その原点の瞬間を描いています。
そしてこの物語は、現在の本編主人公であるアリスへと繋がっていく過去の出来事でもあります。
このシーンは以前から書きたいと思っていた重要な場面であり、作者としても非常に思い入れが深く、執筆していてとても楽しい時間でした。
ここから先へと続く物語の根幹――
その核となる決意が、少しでも伝わっていれば幸いです。
これからも本編はアリスを中心に、さらに展開していきますので、引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。
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