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第六部 第二章 第9話

 午前十時――。


 仮設駐屯地の中心部に設けられた観測拠点では、複数の器材が次々と展開されていった。

 木箱の封印が解かれ、内部から取り出されるのは精密な研究用装置の数々。

 術式探知機、波動記録装置、精神干渉モニター。

 いずれも王国とミラージュ双方の技術を融合した最新鋭機であり、扱う者の緊張を映すかのように、金属部品が触れ合う微かな音が静かに森へ溶けていく。


 装置が設置されるたび、地面に描かれた補助魔法陣が淡く発光し、魔力の流れが整えられていった。

 空気そのものが、わずかに張り詰めていくのが肌で分かる。


 マーロ・ディルヴィン中尉とフィレル・ロス少尉は、淡々と計測術式の起動確認を進めていた。

 手元の術式盤に触れるたび、青白い魔法陣が空中に浮かび、幾何学的な光の輪を描いてから静かに沈んでいく。


 その光景は、まるでこの土地そのものが診断を受けているかのようだった。


 一方、エルネア・カース中尉と補助記録士エミリア・カリードは、並んだ端末の前に座り、正確無比な手の動きで記録と監視体制を整えていく。

 端末のキーを叩く乾いた音。

 紙にペン先が走る、かすかな擦過音。

 それらが無機質なリズムとなり、観測拠点に静かな緊張を刻み込んでいた。


 やがて、すべての初期調整が完了し、第一段階の観測が開始された。


 波動記録。

 精神干渉。

 術式残留反応。


 いずれの数値も安定しており、顕著な活性化や異常兆候は見られない。

 端末に映し出される波形は、ほぼ平坦な線を保ったまま推移していた。


 ただ、時間だけが淡々と過ぎていく。


 セシリア・グレオール准尉は、腕時計型の簡易感応板に視線を落とし、数値を確認する。

 その後、ゆっくりと顔を上げ、周囲の森と空へ視線を走らせた。

 霧は先ほどより薄くなってきているが、木々の影はまだ完全には晴れていない。


「――計測開始から三十分経過」


 エミリアの澄んだ報告の声が、静かな拠点に響く。


「現在まで異常なし。変化なしと記録します」


 セシリアは小さく頷き、即座に次の行動を決断した。


「では、次の段階に移りましょう」


 視線をアリスへ向ける。


「アリスさん。石碑の前まで移動してもらえますか」


「直接の魔力干渉を確認したい。接触はまだ避けてください」


「周囲の観察と、ご自身の感覚の確認を最優先で」


「了解しました」


 アリスは即答し、静かに立ち上がった。

 背にかけた魔導バックのストラップを軽く引き、位置を整える。

 腰元の装備が動き、鎧の継ぎ目がわずかに軋む音を立てた。


 その瞬間だった。


 ティアナ騎士団の護衛騎士三名の視線が、同時に動いた。


 レナ・ヴァルシュ少尉。

 セラ・グラウネス軍曹。

 そして、ナディア・フェルグリッド中尉。


 三人は互いに一瞬だけ目線を交わし、言葉もなく小さく頷き合う。

 次の瞬間、椅子を引く音がほぼ同時に重なり、三人は一斉に立ち上がった。


 その動きに、一切の無駄はない。

 訓練によって磨かれた動作は、まるで一つの意志によって制御されているかのように揃っていた。


 レナとセラは滑るように左右へ展開し、自然な動作でアリスを中央に挟む。

 視線は常に前方と側面へ。

 周囲の森と地形を逃さず捉えている。


 続いてナディアが、低く重い装甲音を響かせながら後衛へ回った。

 《G-M19/EX》の重量が地面に伝わり、わずかな振動が足元に返ってくる。


 瞬時に、三人による警護隊列が完成した。


 無言のまま剣へ手を添える仕草。

 それは意識的な威嚇ではなく、職務として身体に染みついた反射動作だった。


 その一糸乱れぬ動きに、観測拠点の空気はさらに張り詰める。


 ティアナ騎士団の護衛騎士――

 レナ・ヴァルシュ少尉とセラ・グラウネス軍曹が、警戒態勢を崩さぬままアリスに続く。

 後衛には、重厚な装甲の足音を響かせながらナディア・フェルグリッド中尉が追従した。


 彼女の《G-M19/EX》は朝の光を鈍く反射し、その存在感は周囲の空気を一段と引き締めていた。


 アリスは歩き出す前に一度だけ振り返り、クラリスに声をかける。


「クラリス、一緒に来ますか?」


「ええ」


 クラリスは軽く肩をすくめ、微笑を浮かべる。


「せっかくだし、暇つぶし相手くらいにはなるかもね」


 軽口とは裏腹に、その瞳には鋭い観察者の光が宿っていた。


 二人と三名の護衛は、短く合図を交わすと、軽く駆け足で移動を開始する。

 足音は抑えられ、装備の揺れも最小限。

 やがて彼女たちは、霧の向こうに佇む石碑周辺へと、静かに接近していった。


 石碑は、古びてはいるものの威圧感を失ってはいなかった。

 長い年月に晒され、角は丸く削れ、表面は苔と風化に覆われている。

 それでも、その存在は周囲の景色から明確に浮き上がっていた。


 苔むした石肌に刻まれた古代の文様は、摩耗してなお判読不能な歪みを残し、どこか生物的なうねりを帯びている。

 視線を向けているだけで、空気の密度が僅かに変化したような錯覚が生じ、呼吸のリズムが自然と浅くなった。


 近づくほどに、皮膚の下を細い針でなぞられるような感覚が広がっていく。

 痛みではない。

 だが、確実に「拒絶」と「呼びかけ」が同時に存在しているような、不快で曖昧な刺激だった。


 背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。


 クラリスとアリスは、石碑から五メートルほど離れた地点に設置された簡易観測陣の外縁で立ち止まった。

 地面には淡い光を放つ補助魔法陣が描かれ、術式的な安全距離が明確に区切られている。


 背後では、護衛三名が即座に周囲を固めていた。


 レナ・ヴァルシュ少尉は、わずかに剣を抜き、刃を下げたまま周囲の視界を切り取る。

 セラ・グラウネス軍曹は結界展開符を指先で構え、即応可能な状態を保っている。

 ナディア・フェルグリッド中尉の《G-M19/EX》からは、低く抑えられた駆動音が断続的に響き、装甲内部で魔力が循環しているのが分かった。


 配置が完了したのを確認すると、レナが背筋を伸ばし、耳に仕込まれた通信符に触れて声を発する。


「――こちら護衛班。対象位置に到着」


「石碑前、観測陣外縁にて待機を開始しました」


「現在、周囲に異常反応なし」


 短い沈黙ののち、通信符を通じてセシリア・グレオール准尉の落ち着いた声が返ってくる。


『到着を確認しました』


『警戒を維持しつつ、現場の状況を逐次報告してください』


「了解」


 レナは簡潔に返答し、通信符から指を離す。

 剣を静かに収めると、再びアリスの背後を守る位置へ戻った。


 その動きは流れるように滑らかで、意識的な緊張を感じさせない。

 だが、その静けさが、かえって場の規律と緊張を際立たせていた。


 ……それでも。


 時は、静かに流れていくだけだった。

 風はなく、木々も揺れない。

 ただ霧だけが、石碑の周囲で微かに揺らめいている。


 アリスは、石碑をじっと見つめたまま、ぽつりと口を開いた。


「……何も起きないね」


 少し間を置いて、苦笑気味に言葉を継ぐ。


「触れてないから、まあ当然っちゃ当然だけど」


 クラリスは腕を組み、石碑を一瞥してから視線を戻す。


「うん。でも……アリスの魔力、それも“レティシアの系譜”に属する波動が影響するなら、単なる接触じゃ足りないのかも」


 思案するように眉を寄せ、言葉を選びながら続けた。


「多分、必要なのは“物理的な距離”じゃない。もっと深い、“意識の重なり”みたいなもの」


「アリスの体質というより……“適応力”と“共鳴性”の問題だと思う」


 クラリスの視線が、再び石碑へ向かう。


「術式そのものと、意識レベルで干渉できる体質なんて、普通は説明がつかない」


「――でも、アリスならあり得る」


 断定に近い声音で、静かに言い切った。


「むしろ、そのために“ここ”へ来たんじゃないかって、私は思ってる」


 アリスは喉を鳴らし、しばらく黙り込んでから、小さく問い返した。


「……私が前にここで感じた“あの揺れ”とか」


 視線を落とし、弱さを含んだ声音で続ける。


「……信じてる?」


 クラリスは、即座に答えた。

 迷いも躊躇もない。


「信じる、じゃないよ」


 静かに、しかし明確に。


「アリスがそう言ったなら、それは“起きた”の」


「証拠があってもなくても関係ない。私は、そう判断してる」


 その揺るぎない表情に、アリスは一瞬だけ目を丸くし――

 やがて、ふっと小さく笑った。


「……ありがとう」


 少しだけ、肩の力が抜けた声音で。


「クラリスにそう言われると、少し自信が出てくるよ」


「もっと信じなよ」


 クラリスは穏やかに言った。


「自分のこと。自分の感覚」


「私は、最初から疑ってないから」


 二人の視線は、再び石碑へ向けられる。


 霧が、わずかに揺らめく。

 その奥で、石碑はまるで呼吸をしているかのように――

 ひっそりと、しかし確かに、存在を主張していた。


 そのまま、十五分。

 二人は石碑の前で待機を続けた。


 時間は確かに流れているはずだった。

 だが、風は吹かず、木々も葉擦れの音一つ立てない。

 霧だけが、ゆっくりと、ほとんど意識できないほどの速さで形を変えながら、石碑の周囲を漂っている。


 魔力反応は検知されない。

 術式の揺らぎもない。

 幻惑の兆候すらなく、精神干渉値も完全に平常域。


 観測装置に走る波形は、始終平坦なままだった。


 一定の周期で更新される数値は、あまりにも整いすぎている。

 むしろ、その“異常なほどの正常さ”が、この場所の不気味さを際立たせていた。


 背後では、護衛三名が一切姿勢を崩さず警戒を続けている。

 レナの視線は森の縁をなぞり続け、セラは符の起動状態を指先で確かめ、ナディアの装甲は低い駆動音を保ったまま沈黙していた。


 誰も言葉を発しない。

 誰も油断していない。

 だが、何も起きない。


 その静けさに、アリスは小さく息を吐いた。


「……少なくとも、“今は”静かですね」


 白い吐息が、すぐに霧へと溶けていく。

 声は抑えられていたが、その裏には張り詰めた緊張が残っていた。


 クラリスは即座に頷くことはせず、手元の記録端末へ視線を落とす。

 指先で画面を操作し、直近のログを再確認する。


「ええ。少なくとも、数値上は完全に沈黙してる」


 淡々と告げながらも、視線は鋭い。


「魔力波形、精神干渉、残留術式……どれも“異常なし”」


 わずかに間を置いて、静かに言葉を継いだ。


「……だからこそ、厄介ですね」


 クラリスは端末から目を離し、そっと視線を石碑へ戻す。


「この手の遺構で、ここまで何も反応が出ないのは珍しい」


「沈黙してるんじゃなくて……“待ってる”可能性もある」


 アリスは石碑を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「うん……そんな感じ、する」


 自分でも理由は分からない。

 だが、胸の奥に引っかかる感覚だけは、消えずに残っている。


「……次の段階、ですね」


 クラリスは小さく息を吐き、端末を閉じる。


「ええ。こちらから踏み込まない限り、向こうは動かない」


「少なくとも、“今”はね」


 二人の間に、再び沈黙が落ちた。


 霧に覆われた森の奥で、石碑はまるで時を待つかのように――

 いや、何かを“選んでいる”かのように、ひたすら、沈黙を守り続けていた。

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