第六部 第一章 第9話
王立魔導学院の講義が終わった放課後。
鐘の音が遠くで鳴り止み、その余韻だけが石造りの回廊に細く残っていた。
夕暮れの赤が校舎の壁面を染め、尖塔の影が長く伸びて石畳を覆う。
中庭に面した回廊はすでに学院生の往来もまばらで、昼間に満ちていた喧騒は嘘のように遠い。
時折吹き抜ける風が古い石の柱を撫でるたび、乾いたざわめきが微かに耳に触れる。
石と石の隙間に溜まった冷気が、夕刻の気配をはっきりと告げていた。
アリス・グレイスラーは、重たく冷たい空気を胸に吸い込みながら、ひとり静かに通路を歩いていた。
靴底が石畳を踏む音は抑えられ、歩調は一定。
補講を終えた疲労は脚にわずかに残っているが、その足取りには迷いがなかった。
(……今日も長かった。でも、まだクラリスのところへ寄らなきゃ)
思考は自然と次へと向かう。
身体の疲れよりも、確認すべきこと、報告すべきことが先に浮かぶ。
休息に心を許さない癖は、過去の訓練と積み重ねてきた習慣が、深く刻み込んだものだった。
夕日の光に照らされた横顔は、十七歳という年齢に不相応なほど凛としている。
研究棟へ足を向けようとした、その瞬間――
背後から、自分の名を呼ぶ声が、夕闇に沈みかけた回廊の静寂を鋭く切り裂いた。
「アリス・グレイスラーさん」
澄んだ声音。
感情の揺れは感じられない。
だが、単なる呼び止めでは終わらないと直感させる、拒みがたい重みがあった。
アリスは即座に立ち止まる。
背筋に、ひやりとした感覚が走った。
無意識のうちに呼吸が浅くなり、周囲の気配を拾い上げる。
反射的に振り返ったその瞳に映ったのは、夕陽を背に立つ、ひとりの女性の姿だった。
整った軍装。
無駄のない直線で構成されたその佇まいは、学院の制服とは明確に異なる。
肩にかかる金の飾緒は、王族直属を示す紛れもない証。
ただ立っているだけで、場の空気が自然と引き締まる。
威圧ではない。
命令を発さずとも周囲が姿勢を正す、存在そのものが纏う力――。
アリスは一瞬でその人物を理解した。
思考よりも先に身体が反応し、背筋を伸ばして軽く膝を折る。
「……ティアナ・レイス・ロアウ公女殿下」
尊称を添えて口にした名は、王国において知らぬ者はいない。
戦場と政務、その双方に名を刻む王族。
だが、ティアナはすぐに首を横に振った。
「ここでは、あくまで非公式な接触です」
声音は低く、落ち着いている。
「堅苦しい挨拶や形式は抜きにしましょう。今は、学院の公的な場でも、王族としての場でもありません」
その言葉は命令ではなく、線を引くための宣言だった。
「あなたと、個人として話がしたいのです」
その一言で、アリスの肩からわずかに緊張が抜ける。
査問でも通達でもない。
形式的な儀礼を排した、真正面からの対話――その意志を示す言葉だった。
アリスは姿勢を保ったまま、静かに頷く。
敬意は崩さず、だが過度には構えない。
ティアナはゆっくりと歩み寄り、アリスの顔を正面から見据えた。
その瞬間――心の奥が、ふっとざわめく。
透き通るような瞳。
その奥に宿る影と光の同居。
(……どこかで、見たことがある?)
記憶の底が小さく波立つ。
だが具体的な像は掴めない。
王都の舞踏会でも、軍の式典でもない。
なのに“知っている”と告げる感覚だけが胸に残る。
(……おかしいわね。初めて会ったはずなのに……)
ティアナはわずかに眉をひそめそうになるが、すぐに意識を引き締めた。
動揺を表情に出すことは許されない。
公女としての矜持が、そのわずかな揺らぎを即座に封じ込める。
「突然の接触、驚かれたかもしれませんね。でも、あなたにはどうしても一度、直接会っておきたかった」
――既視感の正体はわからない。
けれど確かに、ただの偶然ではない“何か”を彼女は感じていた。
(この揺らぎ……気のせい、で済ませるべきじゃない)
アリスは、まっすぐにその視線を受け止めていた。
小さく首を傾けて問い返す。
「……理由をお聞きしても?」
ティアナは一歩、わずかに距離を詰める。
夕刻の光が二人の間に落ち、回廊の空気が静かに張り詰めた。
「アリス・グレイスラー。王立魔導学院探索者育成部五年」
一つ一つ、確認するように言葉を並べる。
「成績上位。演習参加回数、突出。先日の学院演習では、《バロール・ビースト》亜種との交戦にも関与したと報告を受けています」
事実の列挙。
感情を挟まない語り口が、逆に重い。
アリスは静かに頷いた。
「はい。事実です」
余計な言い訳も、誇張もない。
ティアナは、その反応を見逃さなかった。
「噂ではなく、記録でも確認しています。だからこそ、直接あなたに会う必要があると判断しました」
夕日の赤が、二人の足元を長く引き延ばす。
回廊には、もう他の人影はない。
「あなたは、自分がどの位置に立たされつつあるか、理解していますか」
問いは静かだが、逃げ道を与えない。
アリスは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに上げた。
「……完全には、把握していません。ただ、これまで通りに動いただけです」
「それができる者ほど、無自覚に状況を動かすものよ」
ティアナは小さく息を吐き、続ける。
「だからこそ、聞きたい。あなた自身の言葉で」
一拍置き、はっきりと言い切る。
「あなたは、自分の力を――どこまで使う覚悟がありますか」
問いは、試すものではない。
測るものでもない。
未来へ踏み込むための、最初の確認だった。
アリスは、数秒だけ沈黙した。
その間に、視線が揺れることはなかった。
「……正直に言います」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「どこまで、という境界を決めて使っているつもりはありません」
一拍置き、続ける。
「必要だと判断した場で、守るべき人や状況があるなら、私は力を使います。
それが学院生として許される範囲を超えるとしても、目の前で誰かが傷つくのを見過ごすことはできません」
言い切りだった。
覚悟を誇示する響きではない。
事実としての自己認識だった。
「ただし――無闇に振るうつもりもありません」
視線をまっすぐに保ったまま、言葉を重ねる。
「制御できない力は、守るどころか、状況を壊す。
だからこそ、使うと決めた時は、責任も結果も、すべて引き受ける覚悟でいます」
その声には、揺らぎがなかった。
ティアナは、ほんの一瞬だけ瞬きをする。
その答えは、若さに似合わぬほど整理され、現実的だった。
「すでに、あなたを推薦する形で、ミラージュ王国経由の追加調査員派遣の申請が届いています。提出者は、クラリス・ノーザレイン研究員。申請は受理済みです」
その言葉に、アリスは一瞬も迷わず小さくうなずいた。
「はい。クラリス先生からも説明を受けています。申請が通ったと聞いて、覚悟を決めていました」
ティアナの横顔に、わずかな満足が浮かぶ。
「ええ。そしてその時点で、あなたはこの件における“当事者”となりました」
その口調は穏やかでありながら、言葉が持つ意味は重かった。
「調査班の一員として、あなたは王国側の監督下に入ります。正規の調査手順に従い、行動と報告の責任を負う立場です。任意参加ではありません」
アリスの表情は引き締まり、答えは揺るがなかった。
「……わかりました。自分にできる範囲で、誠実に対応します」
その返答に、ティアナは小さく頷いた。
「その姿勢を、私は信じたいと思っています。あなたのこれまでの記録から見ても、その力と冷静さは信頼に値しますから」
一拍の間を置き、視線を深める。
「ただし、同時にあなたは“注視”の対象にもなります。関与している事例が多すぎる。演習地、遺跡調査、そして今回の異常魔力干渉……あなたの名は、常にそこにあった」
アリスは少し視線を落とし、心の奥で言葉を咀嚼した。
沈黙の後、小さく、だが確かな声で答える。
「……私も、そう思い始めています。偶然とは、言い切れない」
ティアナはその返答に目を細め、ほんのわずか、胸の奥がざわついた。
この少女は、自らその“重さ”を自覚している。
「ならばなおのこと。今後、あなたの判断と行動は、王国の記録に正式に残るものになります」
「覚悟は、できています」
その言葉には、影も迷いもなかった。
夕陽の光を受けたアリスの横顔は、ひどく幼くもあり、大人びても見えた。
その二重性に、ティアナは一瞬だけ心を掴まれる。
けれどすぐに、彼女は柔らかく微笑んだ。
「それなら、今は十分です。……正式な任務連絡は、後日改めて行います」
そう言って背を向ける――が、足を止め、ふと振り返った。
「あなたの申請書には“希望”がありました。他者のために動こうとする意志が、そこには確かにあった」
ティアナの瞳が静かに光を帯びる。
「だからこそ、私はあなたに“期待”もしています。……過去ではなく、未来の当事者として」
アリスもまた、その言葉をしっかりと受け止めるようにうなずいた。
「……ありがとうございます。責任、果たします」
やがてティアナは、長い回廊を歩み去る。
夕暮れの風がその背を押し、軍装の裾を揺らした。
残されたアリスは、小さく息を吐き、空を仰ぐ。
赤から藍へと移ろいゆく空に、ひとつ星が瞬き始めていた。
(未来の当事者として――か)
胸に灯ったその言葉は、まだ形を持たぬまま、しかし確かな熱を帯びていた。
使命の火種。
やがてそれは、彼女を新たな道へと導く炎となって燃え広がっていくのだろう。




