第六部 第一章 第8話
ファーレンナイト王立魔導学院――学院本棟の一角。
ティアナ・レイス・ロアウが臨時に設けさせた捜査用の執務室は、もとは資料保管庫だった部屋を改装したもので、白壁はまだ学院本来の面影を残している。
しかし、そこに並ぶのは重厚な書架と議論用の長机、壁に掲げられた大陸全図と魔力反応マップ、そして淡く光を放つ水晶板。
窓から射す光が斜めに差し込み、机上の資料に濃淡の影を落とし、空間全体に緊張感を漂わせていた。
――もはや学院の一室ではなく、軍の前線指揮所そのものだった。
「失礼します。ミラージュ王国魔導技術局より、追加調査員派遣に関する正式な申請書が届いております。先方の王国印と技術局長の署名も確認済みです」
セシリアが一歩前に出て、両手で封書を差し出す。
形式は完璧で、書式も王国間協定に則ったものだった。
ティアナはそれを受け取りながら、わずかに眉を上げる。
「もう来たの? 昨日の時点では、まだ予備調査段階だったはずよね」
封書を軽く指で弾き、視線だけをセシリアに向ける。
「はい。報告が上がったのは昨夜遅くのはずですが、それを受けて即日で内部決裁を通したものと思われます。通常の手続きを考えれば、異例と言って差し支えない速度です」
「……ええ、確かに早すぎるわね」
ティアナは低く呟き、封を切る。
蝋を割る乾いた音が、張り詰めた静寂の中でやけに大きく響いた。
申請書に視線を落とし、行を追っていくうちに、彼女の動きがわずかに止まる。
「クラリス・ノーザレイン……」
その名を口にした瞬間、声色がわずかに変わった。
「ミラージュ王国魔導技術開発局第二研究室所属。現在は王立魔導学院に特別臨時講師として出向中……なるほど。あの人が動いたのなら、この判断の早さも納得できるわ」
「やはり、ご存じでしたか」
「ええ。技術者としても、判断の切れ味としても、一流よ。彼女は“必要だ”と判断した案件には、迷いがない」
さらに書面を読み進めた瞬間、ティアナの視線がぴたりと止まった。
「……アリス・グレイスラー?」
思わず確認するように、名をなぞる。
「こちらは、王立魔導学院所属の……学院生、ね」
淡い驚きと、隠しきれない興味が声に滲む。
ほんの一瞬、瞳孔がわずかに絞られ、紙端をつまむ指先に力がこもった。
戦場でも政務でも感情を表に出さない指揮官が、予期せぬ符合に反応する、そのわずかな揺らぎだった。
「学院生が、調査員として名を連ねる理由……それも、クラリスが連れてくる形で、か」
ティアナは一度だけ息を吐き、セシリアへと視線を向ける。
「セシリア。学院記録管理室に正式依頼を出してちょうだい」
「対象は、アリス・グレイスラーですね」
「ええ。学院生記録一式。入学から現在までの評価報告、演習参加履歴、実地演習での行動記録、定期および特別試験の成績。それに、教官・講師による所見や補足資料があれば、それもすべて」
言葉を区切らず、一息に告げる。
「形式的な要約はいらないわ。生データで。至急」
「承知しました。最優先で手配します」
セシリアは即座に一礼し、迷いなく踵を返す。
扉が静かに閉まると、再び室内には沈黙が戻った。
ティアナは申請書を机に置き、指先でその縁をなぞる。
紙の繊維のざらつきが、思考を整理するための無意識の癖だった。
学院生。
特別講師。
そして、異常とも言える派遣の速さ。
――点は、確実に線へと近づきつつあった。
ほどなくして、分厚いファイルを抱えたセシリアが戻る。
水晶板の青白い光が、その表紙に反射して淡く揺れていた。
「お待たせしました。学院記録管理室より、アリス・グレイスラーの記録一式です。原本写しと、直近演習の追加報告も含まれています」
「揃ったのね。ありがとう」
ティアナは無言で受け取り、すぐにページを繰り始める。
紙がめくられるたび、指の腹に微かな抵抗が伝わり、呼吸が一段深くなる。
──戦術評価:S。
──魔術制御評価:S+。
──総合成績:学年上位。
ティアナの視線が、自然と止まる。
「……評価が、妙に揃っているわね」
「はい。特定分野だけが突出しているというより、全体が高水準で均されています。教官側のコメントも、ほぼ同一の傾向でした」
さらに読み進める。
──武術競技会成績(四年次):
・個人戦(魔術部門)三位
・個人戦(武術部門)二位
・個人戦(総合部門)一位
「魔術だけでなく、武術でも上位……学院生としては、かなり異例ね」
「ええ。とくに総合部門一位は、上級生を含めた結果です。偶発的な勝利とは評価されていません」
ティアナはわずかに顎を引き、続きを追う。
──四年次:学院対抗戦において上級生を撃破。
──五年次:学院《戦術連携特別枠》正規選抜者に選出。
「連携枠……」
「単独戦闘だけでなく、部隊行動時の判断と安定性が評価された結果です。指揮補助に回った際の記録も添付されています」
さらに、教員所見。
『特異な集中力と精密制御能力を有す。演算速度・構築速度・応用力は学院内でも群を抜く。規格外の魔力干渉下においても冷静を崩さず、状況を制御した記録あり――』
ティアナは、そこで一度ページを止めた。
「“規格外の魔力干渉下でも冷静を崩さず”……」
低く、確認するように繰り返す。
「学院の評価基準で、この表現が使われるのは稀です。通常は事故報告に近い形で記録されますから」
「つまり、想定外の事態が起きても、制御できたと」
「はい。少なくとも、暴走や混乱は確認されていません」
数字と所見が、冷たい事実として胸に落ちていく。
ティアナは無意識に背筋をもう一度正した。
(評価の“線”が揃っている……突出は偶然では積み上がらない。鍛錬、資質、そして――場での胆力)
ページを閉じかけたとき、綴じ込みの追加報告が目に留まる。
数日前の《バロール・ビースト》亜種出現事件。
学院演習班が襲撃を受けた際、アリスが中心となって戦線を維持し、最終的に撃退に大きく寄与したという詳細。
「……これは」
息が、ごく短く止まる。
「確認しましたが、誇張はありません。複数の目撃証言と魔力残滓解析が一致しています」
次の拍で、ティアナは軍人の呼吸に戻した。
驚愕は瞬時に沈め、事実を秤にかける。
(学院生でありながら、亜種を撃退……常識からすれば非常線だ。だが――評価と実績を積み上げれば、境界は薄れる)
(“できてしまう者”はいる。問題は、再現性と制御、それから――動機)
ティアナは書面から視線を外し、窓外へ一度だけ淡く目をやる。
石畳に差す陽の角度。
遠くの塔の風見。
規則正しく巡る学院の時の流れ。
その静けさの上に、戦場の匂いだけが薄く重なるのを感じる。
彼女はふたたび紙面に戻った。
驚きは納得へ、納得は警戒へ。
意識は三段階で、定位置に落ちる。
(偶然の功績なのか、必然の力か。どちらであれ、現場に置けば“戦力”であり、同時に“リスク”でもある)
(指揮官として、力を活かす責任と、守る責任――二つを同時に負う)
別添の資料に目を移す。
ミラージュ王国魔導技術局主導の古代遺跡調査。
そこにも、アリスの名。
しかも補助ではなく、核に近い部分での関与が読み取れる記述。
ティアナは唇を結んだ。
紙の縁を人差し指で一度だけ軽く叩く、癖が出る。
「遺跡調査にも深く関与していた……それも、魔導技術局直轄の案件に」
視線を上げず、続ける。
「クラリス・ノーザレインの推薦、という形ね。つまり、二人の間には確かな信頼関係がある」
「はい。技術局側の文言も、かなり踏み込んでいます」
信頼。
その言葉が、ティアナの胸の内をかすめる。
「信頼は、力を束ねる。でも同時に、判断を曇らせもする」
静かに言い切る。
「指揮系統に入れる以上、その“情”ごと把握しておく必要があるわね」
セシリアは答えず、ただ一歩下がって控えた。
判断の時間だと、理解しているからだった。
ティアナは視線だけでセシリアを呼ぶ。
副官は即座に察し、半歩前へ出た。
「セシリア。この申請は受理して構わないわ。形式上の不備も、政治的な問題もない」
一拍置き、声音をわずかに低くする。
「ただし条件を付ける。アリス・グレイスラーの行動は、すべて監視下に置く。学院側の自由行動も含め、派遣期間中は逐一報告を上げてちょうだい」
「監視範囲は、任務行動および非任務時の接触記録まで、という理解でよろしいでしょうか」
「ええ。その通りよ。本人の私生活に踏み込む必要はないけれど、接触相手と行動経路は把握する。偶発的な事象を“偶発”で終わらせないために」
ティアナは続ける。
「学院記録も、照会が届き次第すべて私が直接確認する。要約はいらない。評価者名、記録日時、修正履歴まで含めて」
「了解しました、公女殿下。情報整理はこちらで行い、原資料をそのままお持ちします」
形式的なやり取りの裏で、ティアナはもう一段深く思考を沈めていく。
(監視は拘束ではない。保護でもある。――必要なら即時退避命令を出せる位置に置く)
(投入条件、交戦規則、帯同護衛、魔力干渉下での代替指揮系統……“もしも”の枝は、先にすべて折っておく)
水晶板の光がかすかに明滅し、外光が壁に影を揺らす。
執務室の空気は、再び冷たい張り詰めた緊張に包まれた。
ティアナは書類を閉じ、深く息をつく。
息は静かに入って、静かに出る。
呼吸が整うにつれ、心拍が指揮官の速度に戻っていく。
(学院演習の事象、古代遺跡、今回の魔力干渉――すべての記録に、この少女の名がある)
(偶然の連鎖――そう呼ぶには、点が近すぎる。引力が働いている。誰かの、あるいは何かの)
心のどこかで、正門前で交わった一瞬の視線が、かすかに反芻される。
説明のつかない既視感。
名も知らぬところから届く、微かな棘。
だが、すぐに棚上げする。
今は“感覚”ではなく、“判断”の刻だ。
「……アリス・グレイスラー」
名を呼ぶ声は低く、しかし明確だった。
「あなたがどういう存在なのか。偶然に選ばれた駒なのか、それとも自ら盤に上がった者なのか――必ず、この目で確かめる」
言葉は声帯を震わせるよりも前に、意思として空気を冷やす。
ティアナの瞳は硬質な光を宿し、
もはや過去の記録ではなく、迫りくる未来――
戦場の現実と、守るべき背中――を見据えていた。




