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第六部 第二章 第1話

 午後の鐘が学院の空に低く響いた。


 石造りの回廊にその余韻がしみ込み、古き歴史を刻む校舎の壁面を、夕暮れの陽が橙に染め上げていく。

 遠くで学びを終えた学院生たちの笑い声がかすかに混じるが、ここ――学院本棟の奥まった一角は、静寂そのものだった。


 空気は澄み、わずかに冷たい。

 石の床に落ちる靴音さえ、普段よりもはっきりと耳に届く。

 この先に待つものを、場所そのものが理解しているかのようだった。


 クラリスとアリスは、互いに歩調を揃えて、重厚な扉の前に立った。

 分厚い木材と金属で補強されたその扉は、かつて資料保管庫として使われていた名残を残しつつ、今は臨時捜査室として再利用されている。

 この学院において、現在もっとも機密性が高く、もっとも緊張を孕んだ空間。


 扉の脇に立っていたのは、ファーレンナイト王国 第三騎士団 第二独立師団。

 通称“ティアナ騎士団”に属する女性士官――セシリア・グレオール准尉だった。


 金褐色の髪をきりりと一つに束ね、背筋を伸ばした立ち姿は揺るぎない規律を体現している。

 制服の紋章は夕陽を受けて淡く光り、その鋭い視線には、騎士団所属者としての矜持と、現在進行中の任務に対する緊張が宿っていた。


 セシリアは二人を正面から捉えると、軍人らしい無駄のない所作で一礼する。


「お待ちしておりました。クラリス・ノーザレイン研究員、アリス・グレイスラー学院生」


 一拍置き、声をわずかに低めた。


「ティアナ殿下――王代家第一公女にして、我ら第三騎士団第二独立師団団長がお呼びです」


 形式的でありながら、そこに含まれる重みは明白だった。


「これより臨時捜査室へご案内いたします。発言・行動ともに、内部規定に従ってください」


 その言葉に、クラリスとアリスは自然と背筋を正す。

 “殿下”という敬称の重み。

 彼女が単なる指揮官ではなく、この王国そのものを象徴する存在であることを、改めて突きつけられた瞬間だった。


 クラリスは小さく頷き、穏やかな声で応じる。


「承知しました。お手数をおかけします」


 アリスも一拍遅れて頷く。


「よろしくお願いします」


 二人はセシリアに導かれ、重い扉をくぐる。


 扉が閉まる音は低く、鈍く、外界との境界を明確に断ち切った。


 室内に足を踏み入れた瞬間、外の空気とはまるで異なる緊張感が肌を包み込んだ。

 湿度、温度、そして匂い――すべてが整理され、余分なものが排除されている。


 簡素ながらも整然と整えられた部屋。

 だがその雰囲気は、単なる学術研究室の延長ではない。

 まるで戦場の只中に設けられた司令所のようだった。


 壁際には地図が幾枚も貼られ、演習地の地形断面図、魔力流動の推移、異常値を示す注記が幾重にも書き込まれている。

 棚には整理された資料が隙間なく並び、長机の上には分厚いファイルと水晶板が置かれ、微かな魔力の光を灯していた。


 窓から差し込む夕光が紙の束を照らし、影と光の濃淡が交錯する。

 その様子は、まるで部屋全体が一つの巨大な“戦略盤”であるかのようだった。


 そして、その中心に立つ存在――ティアナ・レイス・ロアウ。


 澄んだ碧の瞳に鋭い光を宿し、背筋を伸ばした凛とした立ち姿。

 ただそこに立っているだけで、室内の重心が自然と彼女へと収束していく。


 彼女はファーレンナイト王国王代家第一公女。

 王位継承権を持つ血筋にして、王国の象徴。


 同時に、第三騎士団 第二独立師団――

 通称“ティアナ騎士団”を束ねる団長でもある。


 その二重の立場が織りなす威厳は、場の空気を否応なく引き締めていた。


 クラリスはその姿を見た瞬間、喉の奥から思わず声が漏れた。


「……クリス?」


 それは理性を経由しない、記憶の奥底から突き上げられた呟きだった。


 アリスは横で、その一言を確かに耳にした。


(……やっぱり。私だけじゃなかったんだ)


 胸の内でそう呟き、ゆっくりと視線をティアナへ向ける。


 彼女を初めて目にした瞬間から、アリスは拭いきれない既視感を抱いていた。

 その凛とした立ち居振る舞い。

 瞳に宿る揺るぎなさ。

 そして、空間そのものを制するような気配。


 どれもが、これまで断片的に聞かされてきた名と重なっていた。


(そっくり……本当に。だから余計に、ただの偶然とは思えない)


 アリスは胸の奥でざわめく感覚を必死に押し隠し、無言のままティアナへ視線を戻す。


 ――クリス・レイス・ロアウ。


 かつて、クラリスが前世において、ハイエルフ族 《セリーネ・シルヴァリス》として共に剣を取り、戦場に立った男。


 冷静な指揮。

 緻密な戦略·戦術。

 背を預けても揺るがぬ信頼。


 あの日々の記憶が、今この場に重なり合い、

 静かに、しかし確かな重みをもって胸によみがえっていた。


 ティアナはわずかに頷き、柔らかながら威厳ある声で口を開いた。


「ようこそ、お越しくださいました。

 お二人には、お忙しい中ご足労いただき、心から感謝します」


 その声音には、王族としての礼節と、軍を率いる者の確固たる自信が同時に帯びられていた。

 形式ばった歓迎ではない。

 だが、軽んじる余地もない。


「この学院は今、学び舎であると同時に、王国全体に関わる問題の焦点となっています。

 その最中で、あなた方がここに立っている意味は、決して小さくありません」


 クラリスは一歩前に進み、背筋を正して応じる。


「クラリス・ノーザレインです。

 派遣調査員として、ミラージュ王国ならびに学院側から本件に関与する許可を得ております。

 この度は、正式なご許可を賜り、ありがとうございます」


 言葉は簡潔で、余計な自己主張はない。

 研究者として、そして他国の人間としての立場をわきまえた姿勢だった。


 アリスもそれに倣い、深く息を整えてから名乗る。


「アリス・グレイスラーです。

 今回、クラリス先生の推薦を受け、追加調査員として参加させていただきます。

 まだ至らぬ点も多いですが、できる限り誠実に務めます。

 どうぞ、よろしくお願いします」


 ティアナはその言葉を静かに受け止め、アリスへ向けて穏やかな微笑みを返した。


「先日はどうも。

 学院演習での対応については、こちらでも報告を受けています」


 続けて、クラリスへも微笑みと共に軽い会釈を送る。


「改めてお会いできて光栄です。

 ミラージュ王国からのご協力に、感謝しています」


 その一瞬の所作にさえ、王族の気品と、軍人としての冷徹な判断力が同居していた。


 ティアナは二人を長机の前に促し、自らも椅子に腰を下ろす。

 椅子がわずかに軋む音が、張り詰めた空気の中で小さく響いた。


 机上のファイルに軽く手を置くと、澄んだ碧の瞳が細く光を帯びる。


「すでに確認しております。

 提出された申請書類、これまでの調査協力記録、学院内での評価報告。

 すべて目を通しました」


 一枚一枚を確かめるように、言葉を区切る。


「そのうえで――正式に、ミラージュ王国およびファーレンナイト王国合同調査隊の一員として、

 あなた方には“当事者”として参加していただきます」


 アリスはその言葉を正面から受け止め、小さく、しかし深くうなずいた。


「……はい。

 責任をもって、協力させていただきます」


 その真摯な返答に、ティアナは一瞬だけ表情を和らげる。

 だが、すぐに指揮官としての顔へと戻った。


「この件は、すでに両王国の上層部も注視しています。

 王都側では予備調査が進み、文書上の整理も始まっている」


 指先でファイルを軽く叩く。


「しかし――書類だけでは見えないものもある。

 “現場”の空気、術式の残滓、魔力の流れ。

 そして何より、その場に立ち会った者の感覚です」


 クラリスが頷き、静かに言葉を添える。


「だからこそ、体験者を含めた調査が必要になる。

 机上の理論だけでは、限界がありますから」


「ええ。その通りです」


 ティアナは力強く頷いた。


「今回の打ち合わせでは、調査計画の初期段階として、

 学院演習地跡の再調査に関する立ち入り経路、時間帯、

 調査対象となる術式の範囲と、その確認方法を整理します」


 そう言って、彼女は机の上に広げられた地図と資料の束に手を伸ばした。

 指先が滑らかに紙をなぞり、いくつかの地点で止まる。


「まずは、学院側と王国側が提出した報告の差異を洗い出す。

 その後、現地調査における制約事項――

 立ち入り制限、時間管理、魔力干渉時の対応手順を確認します」


 視線を上げ、二人を見据える。


「そのうえで、あなた方自身の見解と仮説を伺いたい。

 研究者として、そして現場を知る者としての意見です」


 その言葉に、室内の空気は一層張り詰めた。

 だが、クラリスもアリスも怯むことなく、まっすぐにティアナの碧の瞳を見返す。


 ――この調査は、ただの“任務”ではない。


 王国の未来に直結する、深淵へと至る扉。

 そして、自分たちが立ち会うべき真実への、確かな“最初の一歩”だった。

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