第六部 第一章 第6話
アリスは病室の扉を静かに閉じた。
カチリ、と小さな音を立てて鍵が噛み合うと、室内の気配は背後に切り離され、廊下の静寂だけが残る。
――レティアの笑顔。
さきほどまで目の前にあったその温かな輝きが、まだ胸の奥にくっきりと残っていた。
無理をしてでも笑おうとするあの表情。
安心させようとして浮かべた、少しだけ甘えの混じった微笑。
あの子が笑っていてくれることが、どれほど自分の支えになっているか。
戦場を渡り、幾度も命の境を越えてきたアリスにとって、そんな“何気ない日常の笑み”が、これほどまでに心を救うものだとは、今さらながら思い知らされる。
剣を握る手が震えた夜も、判断を誤れば誰かが死ぬ瞬間も。
それらを乗り越えてきた自分を、最後に立たせているのは、案外こうした小さな温もりなのかもしれない。
そして、もうひとつ。
胸に重く残っているものがあった。
クラリスの言葉。
ティアナ・レイス・ロアウの着任。
《バロール・ビースト》亜種の出現。
学院を包み始めた異様な空気と、耳の奥にこびりつく、あの奇妙な“歌声”。
(……動いてる。誰かが。何かが……)
アリスはしばらく廊下に佇み、静かに目を閉じた。
胸の奥で重なり合う感覚――レティアの笑顔。クラリスのまなざし。
そして、理由の分からない確信。
“何かが近づいている”。
言葉にすれば単純だが、その予感は重く、深く、抗いがたい。
不安と同時に、どこか高鳴る期待のようなものすら混じっていることに、アリスは気づいていた。
――独りで抱え込まないで。私たちは、そういう関係でしょう?
脳裏に、クラリスの声が鮮明に蘇る。
理屈ではなく、感情で寄り添ってくれた、あの言葉。
その温かさが、張り詰めていた胸の奥をわずかに緩めていく。
アリスは小さく息を吐き、踵を返した。
向かう先は学院の中でも特に静謐な区域――講師陣が執務と研究を行う講師棟。
三階の一角。
そこに、クラリス専用の研究室がある。
廊下はしんと静まり返り、昼下がりの光を受けた白磁の床が淡く光を返していた。
壁に設えられた魔導ランプは昼間でも消されることなく、一定の魔力で穏やかな光を放ち続けている。
その光は影を柔らかく縁取り、廊下全体に漂う学究的な静けさをいっそう際立たせていた。
扉の前に立つと、アリスは一度深く呼吸を整える。
胸の内に残る私情をそっと脇に置き、今度は“向き合う者”としての意識を整えてから、控えめにノックした。
「クラリス、来たよ」
コン、と短い音のあと、すぐに内側から落ち着いた声が返る。
「どうぞ。鍵は開けてあるから」
取っ手を回し、静かに扉を押し開ける。
瞬間、アリスの視界に広がったのは、秩序と知性に満ちた、いかにもクラリスらしい空間だった。
壁一面を埋め尽くす書架には、魔導工学の専門書、古代史の記録、戦術論、そして無数の個人研究ノート。
どれも分類と整理が行き届き、必要な情報に即座に辿り着ける配置になっている。
部屋の中央では魔力反応解析機の水晶盤が淡く明滅し、小型の演算卓が一定のリズムで低い駆動音を刻んでいた。
薬草の乾いた香り、インクの匂い、そして微かな金属と魔力の気配が混じり合い、この部屋を独特の研究空間へと変えている。
窓際の机に目をやると、クラリスが眼鏡を外し、資料に目を通していた。
白衣の袖は軽くまくられ、指先にはインクの痕がわずかに残っている。
どれほど集中していたかは、その姿だけで十分に伝わってきた。
「ちょうど良かったわ。今、例の術式の干渉記録を整理してたところ」
顔を上げ、眼鏡をかけ直しながら、クラリスが言う。
「何か……分かった?」
アリスは椅子を引き、音を立てないように腰を下ろしながら問いかけた。
「まだ仮説段階だけど……少なくとも“あの歌”が術式に与えた影響は、通常の魔力干渉とは明確に異なるわ。もっと深い層、そう……術者の深層意識や魔力回路の根幹に触れている感じ」
「深層意識……?」
「ええ。単なるノイズや妨害じゃない。共鳴信号に近いものよ。特定の条件を満たした存在にだけ反応する、“呼び水”みたいなもの」
クラリスの声は冷静だが、その裏にある危機感は隠しきれていなかった。
「つまり、特定の“何か”を“目覚めさせる”ために、意図的に仕掛けられた可能性が高い。無作為じゃない。狙われているのよ、アリス」
その瞳が細く光を帯びる。
学者としての探究心と、親友としての憂慮。
冷徹さと温かさを併せ持つ視線が、まっすぐアリスを捉えていた。
アリスは机上に置かれた資料の一枚を手に取る。
湿地帯で最後に残された魔方陣の断片図。
流れるような曲線と、幾何学的な構造が幾重にも重なった意匠。
それを見た瞬間、胸の奥に微かな引っかかりが生まれた。
「……これ、どこかで……」
思わず漏れた声に、クラリスが静かに頷く。
「そう。私も同じ感覚だった。何かに似ている。でも、それが何なのか掴めない。だから……あなたの記憶が頼りなの」
その言葉は穏やかだが、覚悟を伴っていた。
アリスはしばらく図面を見つめ、やがて静かに顔を上げる。
「私が思い出せる限り、全部話す。どんなに断片でも、手がかりになるなら」
「ありがとう、アリス。……ここからが、本当の始まりかもしれないわね」
クラリスの唇に淡い微笑が浮かぶ。
それは研究者としての高揚と、友としての覚悟を同時に宿した表情だった。
アリスもまた、静かに微笑みを返す。
胸の奥に広がる緊張と、それを上回る決意。
――真実を探る旅が、再び幕を開けようとしていた。
アリスは魔方陣の断片を見つめながら、ふと息を詰めた。
水晶板に投影された線は、あまりにも複雑でありながら、どこか生き物のような有機的なうねりを持ち、見る者の視線と思考を強制的に絡め取る。
なだらかに湾曲する曲線。
中心部に幾重にも重なる三重螺旋。
それは単なる術式の構造図には見えなかった。
理論で説明できる“魔法”ではなく、もっと根源的な――何か“意志”を持った記号。
記号というより、むしろ呼びかけるための“形”のようにさえ感じられる。
「……この意匠、もしかして……」
言いかけて、アリスは眉を寄せ、唇をかすかに噛む。
言葉にする前に、脳裏に唐突な感覚が割り込んできた。
赤黒い光。
視界の奥で閃いたそれと同時に、ざわめく魔力の奔流が血潮のように押し寄せてくる。
身体の外ではない。内側。
もっと深く、もっと冷たい場所から。
それは《あの戦場》ではなかった。
剣が交わり、叫びが飛び交う場所ではない。
まるで地の底で眠る何かが、ほんの一瞬だけ瞼を開け、その向こう側からこちらを覗き返したような感覚。
古く。
恐ろしく。
それでいて、圧倒的な威容と必然性を孕んだ“何か”。
暗闇の中に、巨大な影が輪郭を結ぶ。
アリスの手が、無意識に机を握りしめる。
硬い木材が、きし、と小さく軋むほどに指先が強張っていた。
「……アリス?」
クラリスが小さく息をのむ。
アリスの異変に気づいた瞬間、彼女の表情から研究者特有の穏やかさが消え、即座に鋭い緊張が走った。
「今の反応……思い出したの? それとも、何か強く引っかかった?」
アリスは小さくうなずく。
だが、喉がうまく動かず、声は震え、かすれていた。
「……正確には、思い出したんじゃない」
一度、言葉を切る。
胸の奥で、まだ正体を掴めない感覚が渦を巻いていた。
「呼ばれた……そんな感じがするの」
「呼ばれた……?」
クラリスが眉を寄せ、言葉の意味を慎重に咀嚼する。
「この魔方陣を見た瞬間、何かが……奥のほうから、こっちを見てた気がした。思い出せって言われたわけじゃない。でも――“そこにいる”って、分かった」
アリスの声は震えていたが、迷いはなかった。
それは感情ではなく、直感に近い確信だった。
その瞬間、研究室の空気がひやりと冷える。
窓から差し込む昼の光でさえ、どこか色を失ったように感じられる。
クラリスは瞳を大きく見開いた。
「……やっぱり。記憶層の共鳴反応が起きている可能性が高いわ」
彼女は即座に机の上の演算卓を操作し、魔力反応を示す水晶盤へ視線を走らせる。
淡い光が不規則にゆらめき、数値が跳ねるように揺れていた。
「通常の回想じゃない。深層意識の領域で、“過去の記憶”と術式の残滓が直接共鳴している……そう考えるのが自然ね」
アリスはゆっくりと顔を上げる。
瞳には、恐れとともに、微かに震える光が宿っていた。
「クラリス。もしこれが……もし、この反応が、“私自身の記憶”じゃないとしたら……?」
クラリスは短く息をのみ、それから静かに、しかし迷いなくうなずいた。
「ええ。その可能性は高いわ。それは“レティシア”の記憶。あなたがかつて持っていたもの。意識下で閉ざしているはずの記録の断片が――あの歌声と、この魔方陣に反応して浮かび上がっている」
アリスの胸が、強く波打つ。
「……じゃあ、この歌も……」
言葉の続きを、クラリスが引き取る。
「単なる魔術的効果じゃない」
その声は、冷ややかで澄み切っていた。
「記憶への“呼び水”として設計された可能性がある。意図的に、よ。もしそうなら――誰かが、あなたに“思い出させようとしている”」
その言葉は、アリスの心に冷たい刃のように突き刺さる。
誰かが。
何かが。
長い眠りの奥に封じられていた記憶を、強制的に呼び覚まそうとしている。
「それって……罠、なの?」
唇を震わせながら問う。
「わからない。でも……試されているのかもしれないわ」
クラリスは静かに続ける。
「あなた自身と、その記憶が。受け入れる覚悟があるのか。それとも、拒むのか」
そう言って、彼女はそっとアリスの手に触れた。
温かなぬくもりが、冷え切った指先を包み込む。
「だから、改めて言う。私はあなたの味方よ。例えそれが、どんな真実でも。どれほど昔のことであっても」
アリスは少しだけ視線を伏せ、それから真っ直ぐに顔を上げた。
その瞳には、恐れだけではない、確かな意志の光が宿っている。
「……ありがとう。じゃあ、次は――現地、行ってみない?」
「演習地跡の調査ね」
クラリスの声が、はっきりと力を取り戻す。
「王国からの許可はすぐに下りるはず。私も同行するわ」
彼女は端末を操作し、素早く申請書類を呼び出した。
淡い魔力光の画面に指先が滑り、必要事項が次々と入力されていく。
「それと――ティアナ公女殿下とも連携を取る必要がある」
クラリスの眼差しが鋭くなる。
「彼女はおそらく、すでに別ルートから調査を進めている。《幻奏の記録》……つまり、“歌声の正体”に辿り着いている可能性が高い」
アリスは静かに息を吐き、強張っていた拳をゆっくりと緩める。
その瞳には、新たな決意がはっきりと灯っていた。
「……なら、私も止まっていられない。知りたい。この力の正体を。思い出す前に、“私自身の意志”で」
クラリスは満足げにうなずき、アリスへ書類を差し出す。
白紙に近いその紙片は、これから記される未来そのもののようだった。
「じゃあ、動きましょう。真実は……もう、目の前よ」
室内の魔導ランプが小さく明滅し、二人の影を壁に揺らす。
その影は、まるで新たな旅路の始まりを告げる旗のように、静かに重なり合っていた。




