第六部 第一章 第5話
学院正門でティアナの姿を見送ったあと、アリスはその足を医療棟へと向けた。
白亜の校舎群を抜ける石畳の通路を歩くたび、靴底が硬質な音を立てて反響し、さきほどまで広場を満たしていた緊張の残滓を、足元から引きずっているかのようだった。
空は澄み渡り、風は穏やかだというのに、胸の奥だけがまだざわついている。
正門で見た騎士団の一糸乱れぬ剣礼。
剣を掲げ、伏せ、沈黙のまま誓いを示すその光景。
そして、その中心に立っていたティアナ・レイス・ロアウの威容が、焼き付いたまま離れない。
王族としての気高さと、戦場を知る者の冷徹さ。
どちらも欠けることなく併せ持つ存在感は、ただ“立っている”だけで周囲の空気を支配していた。
――ふと、その場面を思い返す中で、アリスは歩みを緩め、ぽつりと呟いた。
「そういえば……クラリスの姿、なかったな」
学院長を筆頭に、副学院長、主要研究室の室長や講師陣が一列に並び、厳粛な面持ちで迎えていたあの場に。
研究棟で顔を合わせ、つい先ほどまで話していたはずのクラリスの姿だけが、そこにはなかった。
アリスは一瞬だけ眉をひそめる。
だが、すぐに「考えても仕方ないか」と小さく息を吐き、思考を切り替えた。
今は――レティアの様子を確かめることが先だ。
医療棟の廊下は静まり返っていた。
白い壁と磨き上げられた床が、外界の喧騒を拒むように清潔な光を反射している。
消毒薬と薬草の混じった、独特だが不快ではない匂いが、鼻先をかすめた。
病室の前に立ち、アリスは一拍置いてから、軽く拳を当てる。
コン。
乾いた音が廊下に小さく響いた。
「どうぞー!」
すぐに返ってきた明るい声に、アリスは思わず口元を緩める。
扉を開くと、柔らかな昼の光が一気に流れ込んできた。
大きな窓から差し込む陽射しは穏やかで、白いシーツと床を包み込むように照らしている。
カーテンの隙間から入り込む風が、窓辺に置かれた花瓶の小さな花を揺らし、ほのかな香りを室内に広げていた。
その窓辺に、レティアの姿があった。
ベッドに腰かけ、本を手にしていた彼女は、扉が開いた瞬間、ぱっと顔を上げる。
そしてアリスの姿を認めると、花が咲くように表情を明るくした。
「アリス!」
「おはよう。……うん、元気そうでよかった」
自然と微笑みを返しながら、アリスは椅子を引いて腰を下ろす。
病室の静けさの中で、時計の秒針が刻む微かな音と、窓から差し込む光だけが、二人をやさしく包んでいた。
アリスは改めてレティアの顔色を確かめる。
戦場で見た蒼白さはなく、頬にも血色が戻っている。
「体調はどう?」
「うん、大丈夫。そもそも怪我して入院してるわけじゃないからね。魔力の使い過ぎで倒れただけだし、先生にも、もうじき退院できるって言われたよ」
どこか照れくさそうに笑いながら言うレティアに、アリスは安堵の息をついた。
「それは……よかった。あの場じゃ気を張り続けてたし、思ってた以上に疲れが溜まってたのかもしれないね」
声には、まだ拭いきれない心配が滲んでいた。
レティアはそれに気づいたのか、指で頬を軽く掻きながら、くすっと笑う。
「うん。でもね、不思議と怖くはなかったの。……アリスが来てくれるって、どこかで信じてたから」
その言葉に、アリスは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑ってうなずいた。
「……そう言われると、なんだか照れるな。でも、私も……無事な顔が見られて、本当に安心した」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
窓の外では、遠くで鳥の鳴き声が響き、風がカーテンを揺らしていた。
戦場の緊張とは無縁の、静かで温かな時間が、病室の中にゆっくりと流れていった。
そして、アリスはふと思い出したように、何気ない調子で口を開いた。
「そうだ。さっきね、学院に来てたの。ティアナ・レイス・ロアウ公女殿下が」
その名を聞いた瞬間だった。
レティアの目がぱっと見開かれ、次の瞬間には、まるで夜空に星が瞬いたかのように輝きを帯びる。
「ほんとうに!? うそ……来てたの!? あの、ティアナ公女殿下が、この学院に!?」
勢いよく身を乗り出し、息を弾ませる。
「わたし、昔一度だけ、王都の舞踏会でお言葉をいただいたことがあるの! ほんの一言だけだったけど……声も、立ち居振る舞いも、全部が綺麗で、すっごく素敵な人だったわ……!」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、感動を噛みしめるようにうっとりと息を吐く。
「うん。学院長以下、教員全員が正門前にずらっと並んで出迎えてたよ。副学院長も研究室長も、全員一斉でさ。騎士団の人たちは剣を抜いて、額に掲げるあの独特の剣礼で迎えてて……音もなく揃うから、逆にぞっとするくらいだった。あれはもう、完全に儀礼っていうより“覚悟の示し方”って感じだったな」
まるで式典の映像を語るような口調に、レティアの表情はさらに羨望を増していく。
「う、うらやましい……っ!! なんで、その場にいなかったんだろう……! 体調さえ良ければ、ベッドから飛び出してでも行ったのに……!」
両手で頬を押さえ、そのまま身をよじるように悔しがる姿は、まるで舞踏会の招待状を失くしてしまったお姫様のようで、アリスは思わず、じりっと半歩だけ距離を取った。
「……いや、あのね。落ち着いて? 完全にただの見物人だったからね、私。挨拶したわけでも、話したわけでもないし」
呆れたように眉をひそめるアリスに、レティアは即座に拳を握りしめ、真剣な顔で言い返す。
「それでもいいのっ! 同じ空間にいられただけで、もう十分すぎるくらいだから!」
その勢いに、アリスは思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
「……うーん。お姫様っていうより、王子様っていうより……なんだろうね。うん。英雄様って感じだったかな。綺麗とか凛々しいとか以前に、“そこに立ってるだけで空気が変わる人”っていうか」
レティアは勢いよく首を振り、身を乗り出す。
「ええっ!? そんなことないよ! あの方こそ、まさに『物語のお姫さま』っていう言葉がぴったりな人だと思うの!」
さらに言葉を重ねるように、熱を帯びた声で続ける。
「気高くて、美しくて、凛としてて……でも、視線を向けられたとき、すごく穏やかで、包み込むみたいで……ああ、もしかして、あれ夢じゃなかったのかな……」
頬を赤らめ、ふにゃふにゃと半分溶けたような表情になるレティアを見て、アリスは深くため息をついた。
「……はぁ。回復早すぎるっていうか、別の意味で心配になるわ……」
そう言いながらも、その口元には、いつの間にかうっすらと笑みが浮かんでいた。
二人で笑い合う空気がひと段落したところで、アリスは椅子の背にもたれ、ほんの少しだけ声の調子を落とした。
「本当に、君って……いつも元気だね」
からかうというより、どこか感心を含んだ言い方だった。
レティアは一瞬きょとんとしたあと、すぐに口元を緩める。
「えへへ。うん、それは褒め言葉として受け取っておくね。元気なのが取り柄だから」
胸を張るようにしてみせるが、その仕草で病衣の袖口がわずかにずれ、細い手首が露わになる。
まだ完全には戻りきっていない白さに、アリスの視線が一瞬だけ留まった。
「……でも、調子に乗りすぎないで。顔色はだいぶ戻ってきてるけど、無理したらすぐまた倒れるんだから」
声は柔らかいが、言葉の端々に本気の心配が滲んでいる。
レティアはその調子に、少しだけ肩をすくめた。
「う……アリスって、ほんとお母さんみたいなこと言うよね」
むっとしたように言い返しつつも、その口調はどこか甘えていた。
アリスは即座に眉をひそめる。
「お母さんはやめて。同級生だから。せめて“ちょっと口うるさい友達”くらいにして」
「でもさ」
レティアはそこで一拍置き、視線を伏せる。
「……頼れるのは、事実でしょ?」
ぽつりと落とされたその一言に、アリスは思わず言葉を詰まらせた。
レティアは頬をうっすらと染め、気恥ずかしそうに視線をそらしている。
その表情があまりにも素直で、まっすぐで。
アリスは一度、静かに息を吐いてから、わざと軽い調子に戻した。
「まあ……私にできる範囲なら、ね。全部を支えられるわけじゃないし」
そう言いつつも、拒む響きはどこにもない。
レティアはその答えに、ほっとしたように微笑んだ。
「十分だよ。アリスがそばにいてくれるだけで、本当に安心できるから」
そう言って、両手を胸元でそっと握りしめる。
その仕草には、計算も気取りもなく、ただ純粋な信頼だけが込められていた。
その無邪気な笑顔を見て、アリスの胸にじんわりと温かな感情が広がる。
戦場で見た異形の魔物の記憶。
正門で目にした騎士団の剣礼と、張りつめた威圧。
それらとはまるで別世界のような、穏やかで静かな時間。
――けれど。
ふと視界の端に入った壁時計の針が、確実に進んでいるのを見て、アリスは小さく背筋を正した。
この穏やかな時間も、永遠ではない。
だからこそ今は、せめてこのひとときを大切にしようと、胸の奥で静かに思うのだった。
次の瞬間には、アリスの表情は柔らかさを残しながらも、静かに引き締まっていた。
私情を切り替える、その切り替えの速さは、もはや癖のようなものだ。
そっと椅子から立ち上がり、ベッド脇へと歩み寄る。
視線を合わせる高さまで身をかがめ、声を落とした。
「そろそろ行かないと。講師棟でクラリスが待ってるの。たぶん、もう資料も揃ってる頃だと思う」
そう言って、レティアの顔色をもう一度だけ確かめ、穏やかに微笑む。
「……しばらくは、また忙しくなりそう。ティアナ・レイス・ロアウ公女殿下、正式に《バロール・ビースト》亜種出現の件で着任されたみたい。王国として、見過ごせない段階に入ったってことね」
その名を聞いたレティアは、一瞬だけ表情を引き締め、小さく息を吸い込んだ。
「……やっぱり、そうなんだ。あの規模の魔力だったものね。学院の演習中とはいえ、偶発で済ませられるレベルじゃなかった」
視線を落とし、思い返すように続ける。
「戦場の空気、今でも少し思い出せる。あれは……“来てはいけないものが、来た”感じだった」
アリスは静かにうなずく。
「うん。王国が動いたってことは、もう内部処理じゃ終わらない。だからたぶん……」
言葉を切る前に、レティアが先を引き取った。
「呼び出される、ね。事情聴取って形で」
「そう。私も、レティアも。状況説明、魔力使用の詳細、判断経緯……全部」
一瞬の沈黙。
だが、レティアはその沈黙を破るように、にこりと笑った。
「……うん。でも、大丈夫。私は大歓迎だよ。隠すことなんて何もないし、それに――ちゃんと説明できるなら、あの戦いも無駄じゃなかったって言えるでしょ?」
胸の前で軽く両手を握り、少しだけ前向きに身を乗り出す。
「それに、アリスと一緒なら心強いし」
そのはしゃぎ気味な調子に、アリスは呆れたように、しかしどこか安堵したため息をついた。
そして一歩近づき、レティアの枕元に手を伸ばす。
「……無理しないでね。本当に。気持ちは元気でも、体はまだ完全じゃないんだから」
「大丈夫だってば。ちゃんと自覚はあるよ」
そう言いつつも、すぐに言い足す。
「それより、アリスこそ。白銀化の負担、まだ残ってるでしょ? 無茶はしないで。お願いだから」
一瞬だけ視線を逸らし、アリスは短く答えた。
「……気をつける。約束する」
それだけで十分だった。
アリスはベッドサイドから一歩下がり、軽く手を振る。
「また、来るね。長くは話せないかもしれないけど、顔は出す」
「うん。待ってる」
その言葉に重ねるように、レティアはもう一度、はっきりとした笑顔を浮かべた。
扉が閉まる、その直前まで。
その笑みを胸に刻むように、アリスは視線を外さず、静かに病室を後にする。
廊下へ出ると、白磁の床に靴音が規則正しく響いた。
背筋を伸ばし、呼吸を整える。
アリスの表情から、先ほどまでの柔らかさはすっと引いていた。
そこにあるのは、再び“任務”へと向かう者の顔。
向かう先は――講師棟。
クラリスの待つ研究室。
《バロール・ビースト》亜種の件。
それに連なる異常魔力干渉。
そして、ティアナ・レイス・ロアウの着任。
それらすべてが、事態を新たな段階へと押し上げていく。
アリスは、その確信を胸に、歩みを速めた。
――病室の中。
ひとり残されたレティアは、扉が静かに閉まったあとも、しばらくその方角から視線を外せずにいた。
ノブが戻る微かな音。廊下に溶けていく足音。
それらが完全に遠ざかってからも、胸の奥に残った余韻だけが、消えずに静かに揺れている。
安堵と、温もり。
そして、それと同時に胸の隅に生まれた、ほんのわずかな寂しさ。
レティアはゆっくりと息を吐き、ベッドの縁に置いた手をぎゅっと握った。
白いシーツの感触が、まだ少し頼りなく感じられる。
「……また、来てね」
声は思ったよりも小さく、かすれていた。
誰に聞かせるでもない、確かめるような呟き。
「ちゃんと元気になって……今度は、病室じゃなくて。いつもの場所で、また話そう」
返事がないことは分かっている。
それでも、言葉にしなければ落ち着かなくて、レティアはもう一度だけ唇を動かした。
「……待ってるから」
その声は、柔らかな日差しに溶けるように、静かに散っていった。
病室には再び静寂が戻る。
めくりかけの本は、途中のページで止まったまま。
窓から吹き込む夏の風がカーテンを揺らし、花瓶の小さな花をそっと撫でる。
ページの端がかすかに鳴り、陽光が床に淡い影を落とした。
それは、穏やかで、優しい時間の証のようだった。
レティアはその光を眺めながら、胸の奥に残る温もりを大切に抱きしめる。
不安も、恐れも、今は遠い。
――大丈夫。
きっと、また会える。
静かな病室には、本と風と、そして小さな希望だけが、そっと寄り添っていた。




