第九章 川沿いの村
昼食の支度に使う水を汲み終えたところで、村の女性は広場へ入ってくる三頭の馬に気づいた。
先頭の馬から降りた男は、旅装の上に騎士の紋章が入った外套を羽織っている。近くにいた村人に何か尋ねているらしく、相手は川のほうを指さしていた。
事故から二か月半ほどが経ち、雪に閉ざされていた街道もようやく人が通れるようになっている。旅人が村へ立ち寄ることも増えてきたが、騎士が三人も揃って訪れるのは珍しい。
女性は水桶を持ち直し、家へ戻ろうとして足を止めた。
騎士たちが川のほうを気にしている。
村を発つ前、テオドールから頼まれたことがあった。
どうしたものかと考えているうちに、騎士の一人がこちらへ歩いてきた。
「失礼。少し話を聞かせてもらえないだろうか」
「はい。何でしょう」
「我々はヴァルデン公爵家の騎士だ。この川の上流で事故に遭われた方々を捜しているのだが、何か知らないだろうか」
公爵家という言葉に、女性は思わず男の顔を見た。
「捜しているのは公爵夫人とお子様二人だ。男の子と、まだ幼い女の子なのだが、この辺りで見かけなかっただろうか」
「……公爵夫人様、ですか?」
「ああ。雪崩で馬車が崖から転落してな。川に流された可能性があるため、下流の村を調べている」
あの女性が、公爵夫人。
川から助けられたときにはひどい怪我をしていて、テオドールが治療している間、村の者たちも交代で世話をしていた。
子供たちのこともよく覚えている。兄のほうは母親の具合を何度も尋ねていたし、妹は片時も人形を離そうとしなかった。川で濡れて泥だらけになっていた人形を洗ってやったら、嬉しそうに抱きしめていたものだ。
「何か心当たりが?」
黙り込んだ女性を見て、騎士が尋ねた。
「ああ、いえ。公爵夫人様が行方不明になっているなんて、知りませんでしたので」
「そうか。では、見知らぬ女性と子供二人が村を訪ねてきたり、どこかで保護されたりしたという話を聞いたことは?」
女性は桶の持ち手を握り直した。
「……いいえ。聞いておりません」
「川で何か見つかったという話もないだろうか。衣服や持ち物でも構わないのだが」
「そういう話も、私は知りませんね」
「分かった。ありがとう」
騎士は手にしていた帳面へ何かを書き込むと、広場の向こうへ歩いていった。
女性が家へ向かおうとしたところで、今度は村の男が声をかけてきた。あの日、川岸から親子を運ぶのを手伝った男だ。
「騎士に聞かれたか?」
「ああ。あの人たちを捜しているんだってね」
「俺のところにも来たよ。何も知らないと答えておいた」
「……そうかい」
「しかし、公爵夫人だったとはな。テオは知っていたのかね」
「さあね。そこまでは聞いていないよ」
テオドールからは、親子の行方を尋ねる者が来ても、居場所を知らせないでほしいと頼まれていた。本人が今は居場所を知られたくないと望んでいるそうだが、詳しい事情までは聞いていない。
男もそれ以上は尋ねず、騎士たちのほうへ顔を向けた。
広場では村長が呼ばれ、隊長らしい騎士と話をしている。ほかの騎士も家々を回っていたが、しばらくすると全員が馬のところへ戻ってきた。
「隊長、こちらでも手がかりはありませんでした」
「村長も知らないということなら、次の村へ向かおう。まだ下流にも集落がある」
隊長は馬に乗る前に、近くにいた村人たちを振り返った。
「もし何か分かったことがあれば、ヴァルデン公爵家へ知らせてほしい。どんな小さなことでも構わない」
村長が承知したと答え、騎士たちは広場を出ていった。
馬の姿が道の向こうへ消えると、隣にいた男が口を開いた。
「本当に、あれでよかったのかね」
女性はすぐには答えられなかった。
騎士たちは、今も親子を捜している。
「……テオに頼まれたんだからね。約束は守らないと」
「そうだな」
男は頷き、自分の仕事へ戻っていった。
女性も家へ向かったが、戸口に着いたところで、もう一度だけ街道のほうを振り返った。
あの親子は今ごろ、どうしているだろう。
村を出るとき、母親はまだ一人で歩くこともできなかった。テオドールの師匠がいる診療所へ向かったと聞いているから、今もそこで治療を受けているのだろう。
「おーい、水はまだか?」
家の中から夫の声がして、女性は足元の桶に目を落とした。
「今持っていくよ!」
すっかり遅くなってしまった。昼食の支度も、まだ途中だった。
女性は桶を持ち上げ、家へ入った。
◇
「もう少し、こちらへ寄せていただけますか?」
寝台の端に腰を下ろした私は、左側に置かれた車椅子との間を見比べた。ほんの少しの距離なのだけれど、右脚を使わずに身体を移すとなると、思っていた以上に遠く感じられる。
「これ以上近づけると、肘掛けが寝台に当たるね」
テオドールが車椅子の位置を確かめると、エドガー先生が板を一枚持ってきて、寝台と座面の間に渡してくれた。
「これを使うんじゃ。右脚にはまだ体重をかけんようにな」
「はい」
「途中で身体が傾いたら支えるから、慌てずにやってみるといい」
テオドールが車椅子の車輪を固定したのを確かめ、私は寝台の端に両手をついた。
背中の傷や肋骨の怪我がようやく落ち着き、エドガー先生から自分で車椅子へ移る練習をしてもよいと言われたところだ。座ったままでできる動作とはいえ、これまでは誰かに身体を支えてもらっていたので、どこへ手を置けばよいのかもよく分からない。
左脚を床につけ、腕に力を込めて腰を浮かせようとする。
ところが、少し身体が持ち上がったところで腕が震え始め、私はそのまま寝台へ座り直した。
「……思ったより難しいですね」
「片脚を使わずに移ろうとしているんだからね。最初から簡単にはいかないよ」
テオドールがそう言うと、エドガー先生は私の手元を見て首を傾げた。
「手をつく位置が少し遠いのう。もう少し身体の近くに置いて、左脚で支えながら動かしてみなさい」
「この辺りでしょうか」
「うむ。それで一度やってみよう」
言われたとおりに手を置き直すと、先ほどよりも身体を持ち上げやすくなった。けれど、車椅子へ向かって腰を動かそうとした途端、右脚がついてこず、途中で動きを止めてしまう。
「右脚は俺が支えるよ。無理に動かそうとしなくていいから」
「ありがとうございます」
テオドールが脚を支えてくれたので、私はもう一度腕に力を込めた。
今度は腰を横へずらすことができた。板の上を移動する途中で一度座り直し、手をつく位置を変えてから、残りの距離を慎重に動かしていく。
ようやく車椅子の座面に腰が乗ったところで、ほっと息を吐いた。
「……乗れました」
「うむ。よくできたのう」
エドガー先生は私の座り方を確かめてから、渡していた板を外した。テオドールも右脚を足台に乗せてくれたので、私は背もたれに身体を預けた。
「どこか痛むところはない?」
「大丈夫です。でも、腕がずいぶん疲れました」
手のひらを開いてみると、寝台を押していたところが赤くなっている。普段から使っているはずの腕なのに、身体を支えるとなると、こんなにも力が必要なのかと驚いた。
「今日は初めてだからね。少し休もうか」
「はい。ですが、手をつく位置が分かれば、もう少しうまくできそうです」
「それなら、次は楽になるかもしれないね」
テオドールが笑うと、エドガー先生も満足そうに頷いた。
「では、休んだら今度は寝台へ戻ってみるとしよう」
「……戻る練習もあるのですね」
「当たり前じゃろう。車椅子に乗ったきりというわけにはいかんからの」
それはそうだ。
私は隣の寝台を見た。さっきまで座っていた場所なのに、今度はそちらへ移らなければならないと思うと、また違った難しさがありそうだった。
「戻るときも、同じようにすればよろしいのでしょうか」
「基本は同じじゃ。ただ、手の位置を変えねばならんし、身体の向きにも気をつける必要がある。まあ、やってみれば分かる」
エドガー先生はそう言って、テオドールに車椅子の位置を確かめさせ始めた。
私は二人の作業を見ながら、休ませていた手を握ったり開いたりしてみた。
腕はまだ少し疲れているけれど、痛みはない。
次は、寝台まで戻れるだろうか。
◇
それから数日、診察のあとに練習を重ねるうち、寝台と車椅子の間を自分の力で移れるようになってきた。
その日も午前の診察が終わると、テオドールに車椅子を固定して板を渡してもらい、私は右脚をかばいながら腰を移動させた。途中で一度座り直したものの、最後まで身体を支えてもらわずに車椅子へ移ることができた。
「今日は手伝わなくても大丈夫だったね」
「ええ。途中で少し危ないかと思いましたが、何とかできました」
「慌てずに座り直せたからね。でも、しばらくは誰かがそばにいるときに練習しよう」
「はい。それは気をつけます」
テオドールが板を片づけている間、私は車椅子の車輪へ目を向けた。寝台から移れるようになったのだから、次は自分で動かせるようになりたい。
「テオドール様、ひとつお願いしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「今度は、車椅子を自分で動かす練習もしてみたいのです」
テオドールは私の手元を見てから、頷いた。
「それなら、午後にエドガー先生にも相談してみようか。最初は廊下を動かすところからになると思うけど」
「ありがとうございます」
そこへ、廊下からオスカーの声が聞こえてきた。
「お母様、もう終わりましたか?」
「ええ。入っていらっしゃい」
扉が開き、オスカーが顔を覗かせた。その後ろにはリリアもいる。どうやら二人で迎えに来てくれたらしい。
「今日はもう食堂へ行けますか?」
「ええ。ちょうど終わったところよ」
私が答えると、リリアは車椅子に座っている私を見て、嬉しそうに近づいてきた。
「おかあさま、もうのったの?」
「ええ。今日は自分で移れたのよ」
「ひとりで?」
「テオドール様にそばで見ていただいたけれど、身体は支えてもらわずに移れたわ」
「すごい!」
リリアは私の手を取ろうとして、車椅子の肘掛けにぶつかりそうになった。慌てて手を伸ばすと、オスカーが妹の肩をそっと押さえてくれる。
「リリア、気をつけて。お母様の脚に当たったら大変だよ」
「はーい」
返事は素直なのに、リリアはもう私の膝に乗れそうな場所を探している。
「リリア、お母様のお膝はまだ駄目よ。代わりに手をつないでくれる?」
「うん!」
差し出した手を握ると、リリアは車椅子の横に並んだ。
「それじゃあ、食堂へ行こうか」
テオドールが車椅子の後ろに回ったところで、オスカーが私を見上げた。
「お母様、午後も練習するんですか?」
「そうね。今度は車椅子を動かす練習をしてみようと思っているの」
「では、僕たちも見に来ていいでしょうか?」
「どうかしら。テオドール様?」
私が振り返ると、テオドールは少し考えてから答えた。
「エドガー先生がいいと言ってくれたらね。ただし、練習の邪魔にならないようにしてもらうよ」
「はい。約束します」
「リリアも!」
兄の真似をして返事をするリリアに、テオドールが笑った。
「リリアも、ちゃんと約束を守れるかな?」
「まもれるよ!」
「じゃあ、午後に先生へ聞いてみよう」
食堂へ向かう廊下を進みながら、オスカーは車椅子の車輪を気にしているようだった。何度か横から覗き込んでは、テオドールが押すと車輪が回る様子を眺めている。
「オスカー、どうしたの?」
「いえ。車椅子って、どうしてあんなに簡単に動くのかなと思って」
「あら、気になるの?」
「はい。あの大きな車輪を自分で回せるなら、僕にも動かせるのかなって」
「オスカー君なら動かせると思うけど、車椅子には乗らずに自分の足で歩いたほうがいいんじゃないかな」
テオドールがそう答えると、オスカーは少し考えてから頷いた。
「そうですね。じゃあ、僕はお母様が動かせるようになるのを見ていることにします」
「そうしてちょうだい」
私が笑うと、リリアも何が面白かったのか、一緒になって笑い始めた。
食堂の扉が近づくと、先に歩いていたオスカーが足を速め、私たちのために扉を開けてくれた。




