第十章 王都への誘い
事故から四か月近くが経とうとしていた。
「……また水路の工事か」
アレクシスは領地から届いた報告書を読み、眉をひそめた。
春先に土砂を取り除かせた水路で、再び土手が崩れたらしい。数日前に降った雨の影響で、今度は以前より広い範囲が崩落し、一部の農地へ水を送れなくなっているという。
「先日、工事を終えたばかりではなかったか?」
「はい。ですが、前回は水路を塞いでいた土砂を撤去しただけでございますので」
ヘルマンの返答に、アレクシスは報告書から顔を上げた。
「それでは、また崩れることは分かっていたというのか?」
「領地の管理人からは、土手の補強工事も必要だと報告されておりました。ただ、費用が高額になるため、前回は旦那様が土砂の撤去を優先するようご指示なさいました」
そういえば、以前の報告書にも補強工事の見積もりが添えられていた。土砂を取り除けば水は流れるのだから、わざわざ高額な工事をする必要はないだろうと判断したのだ。
アレクシスは報告書をめくり、今回必要になった工事の費用を確かめた。
「何だ、この金額は。前回の見積もりより高くなっているではないか」
「今回の崩落で補修が必要な範囲が広がっております。また、農地への給水を早急に再開しなければならないため、人員を増やして工事を進めたいとのことでございます」
「だったら、最初から補強工事を済ませておけばよかっただろう」
ヘルマンは何も答えられなかった。
アレクシスはもう一度報告書に目を通した。水が届かなくなった農地では、植え付けを終えた作物にも影響が出始めており、このままでは収穫量が落ちる可能性があるという。
収穫が減れば、それだけ領地からの収入も減る。工事費を惜しんだ結果、収穫にまで影響が出るのでは意味がなかった。
「これ以上は待てん。補強工事も含めて、すぐに着手させろ」
「承知いたしました」
「ただし、費用はできる限り抑えるように伝えろ。ほかにも工事の予定があったはずだな?」
「はい。領内の道路補修がいくつか予定されております」
「急を要さないものは後回しにすればいい」
ヘルマンは手元の書類を確認してから、予定されている工事の一覧を差し出した。
「こちらの二件につきましては、すでに資材の手配を終えております。今から延期すると、保管料などが発生する可能性がございますが」
「では、まだ着手していないものから調整しろ。水路の工事が最優先だ」
「かしこまりました。担当者へ確認いたします」
ヘルマンが書類をまとめている間にも、アレクシスの目は机の上に積まれた別の報告書へ向いていた。水路の件だけでもこれだけ時間を取られたというのに、領地から届いた書類はまだ何通も残っている。
これまでコルネリアが管理していたころには、工事の費用について細かな説明を求められることなどほとんどなかった。必要な書類が揃えられ、説明を受けて署名すれば、それで済んでいたのだ。
今は一つ判断を下すたびに、ほかの工事や予算との兼ね合いまで考えなければならない。
「ほかに急ぎの報告はあるか?」
「本日は以上でございます」
「そうか。では、工事の手配を進めてくれ」
ヘルマンが退出すると、アレクシスは椅子の背にもたれ、しばらく目を閉じた。
午後にはセシルのもとを訪れるつもりでいたが、予定どおりに出かけられるだろうか。今朝も、体調が優れないので顔を見せてほしいという手紙が届いていた。
時計を見ると、まだ昼までには少し時間がある。
アレクシスは机の上から次の書類を引き寄せた。
◇
テオドールに身体を支えてもらいながら数歩進んだところで、今日の練習は終わりになった。
車椅子に腰を下ろすと、右脚に力を入れなくてもよくなり、思わず息を吐いた。自分の足で立てるようになったのは嬉しいけれど、まだ支えがなければ歩くことはできない。それでも、最初は立っているだけで精一杯だったことを思えば、ずいぶん回復したものだと思う。
「お疲れさま。今日は昨日より長く歩けたね」
テオドールが水の入った杯を渡してくれたので、お礼を言って受け取った。
「ええ。でも、まだ支えていただかないと難しいですね」
「焦らず続けていこう。脚の状態もよくなってきているから、これからは歩ける距離を延ばしていけばいいと思うよ」
「はい。よろしくお願いいたします」
水を飲み終えて杯を返すと、テオドールはそれを卓に置き、私の向かいに椅子を引き寄せた。いつもなら診察道具を片づけ始めるところなので、何かあるのかと思って顔を上げる。
「ところで、コルネリア。少し相談したいことがあるんだけど、いいかな」
「はい。何でしょう?」
「実は、そろそろ王都へ戻らなければならなくなってね」
「王都へ、ですか?」
「うん。うちは代々薬草を扱っている家なんだ。家を継ぐ前に薬師として各地で修業するのが昔からの習わしでね。俺もそのために旅をしていたんだけど、そろそろ父の仕事も手伝わないといけなくて」
「そうだったのですね。長い間こちらに留まっていただいて、申し訳ありませんでした」
テオドールが普段は王都で暮らしていることは以前聞いていた。私たちの治療のために、予定より長くこちらに残ってくれていたのだろう。
今の私はエドガー先生に診ていただきながら練習を続けることもできる。いつまでも彼の時間を取らせるわけにはいかないと思っていると、テオドールは少し身を乗り出した。
「いや、それなんだけどね。コルネリアたちも一緒に王都へ来ない?」
「……私たちも、ですか?」
てっきりテオドールが帰るという話だと思っていたので、思わず聞き返してしまった。
「父が王都に住んでいるんだ。家には使っていない部屋もあるし、君たちが来ても構わないと言ってくれている。療養を続けるなら、診療所より普通の家で暮らしたほうがいいと思ってね」
「ですが、ご家族の方にまでご迷惑をおかけするわけには……」
「父にはもう相談してあるよ。オスカーとリリアも一緒に迎えるつもりでいるから、心配しなくていい」
「お父様が、ですか?」
「うん。俺から話をしたら、部屋もあるのだから連れてくればいいと言ってくれたよ」
そこまで話が進んでいたとは思わなかった。
私は膝の上で手を重ね、テオドールの話を考えた。怪我が治ってきた以上、いつまでも診療所の一室を使わせてもらうわけにはいかない。けれど、まだ一人で子供たちを連れて暮らせるほど回復しているわけでもなかった。
それに、テオドールが王都へ戻るのなら、今までどおり治療を続けてもらえるというのはありがたい。
「エドガー先生は、何とおっしゃっているのでしょうか」
「賛成してくれているよ。これから暑くなるし、移動するなら今のうちがいいだろうって」
「そうですか……」
窓の外では、庭の木々が風に揺れていた。診療所へ来たころにはまだ冷たい風が吹いていたのに、最近は窓を開けて過ごせる日も増えている。
真夏になれば、馬車での移動も今より身体に堪えるだろう。
「……オスカーとリリアにも相談させていただけますか?」
「もちろん。二人の気持ちも聞いてあげて」
「ありがとうございます。今夜、話してみます」
テオドールは頷くと、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺は午後の診察に戻るね。何か聞きたいことがあったら、いつでも声をかけて」
「分かりました」
扉が閉まるのを見届けてから、私は車椅子の肘掛けに手を置いた。
王都へ行けば、子供たちの生活もまた変わる。ようやく慣れた診療所を離れることになるのだから、二人がどう思うか聞いてみなければならない。
それに、私自身もそろそろ、怪我が治ったあとに何をするのか考えておく必要があるだろう。
今すぐ答えを出せなくても、オスカーとリリアと三人で暮らしていくために、できることを探していきたかった。
◇
「おうとにいくの?」
夕食を終えて部屋へ戻り、テオドールから聞いた話をすると、リリアは膝に抱いていた人形から顔を上げた。
「ええ。テオドール様が、一緒に来ないかと誘ってくださったの」
「エルザは?」
「エルザさんは、ここに残ると思うわ」
リリアは私の返事を聞くと、何か言いかけて口を閉じた。それから膝の上の人形に目を落とし、エルザが作ってくれた青い服の裾を指でいじり始める。しばらくそうしていたけれど、やがて顔を上げると、人形をぎゅっと抱きしめながら首を横に振った。
「……リリア、エルザといっしょがいい」
私はリリアの頭を撫でた。すると、娘は人形を抱えたまま、私の膝に身体を寄せてきた。
「そうね。お母様も、エルザさんにはとてもお世話になったわ」
「もうあえない?」
「また会いに来られるかもしれないけれど、今までみたいに毎日会うのは難しくなるわね」
リリアは私の顔を見上げたものの、返事をせずに人形の服へ目を戻した。
無理に返事を求めるのも違うと思い、私は隣に座っているオスカーへ顔を向けた。
「オスカーはどう思う?」
「僕は行ってみたいです。あの、お母様。向こうの王都に行ったら、本屋さんにも寄れますか?」
「本屋さん? 何か読みたい本があるの?」
「エドガー先生に見せていただいた薬草の本が面白かったので、ほかの本も読んでみたいんです」
「そうだったの。王都へ行ったら、探してみましょうか」
「はい!」
オスカーは嬉しそうに頷いてから、隣で人形を抱えている妹へ顔を向けた。
「リリア、王都には人形のお洋服を売っているお店もあるかもしれないよ」
「おようふく?」
「うん。エルザさんが作ってくれたみたいなのが、ほかにもあるかもしれない」
リリアが顔を上げた。
「エルザのおようふくも、もっていける?」
「もちろんよ。リリアの大事なお洋服でしょう?」
私が答えると、リリアは人形を持ち上げ、青い服がきちんと着せられているか確かめ始めた。
「じゃあ、これもってく」
「そうね。忘れずに持っていきましょう」
「ほかにも、靴とか帽子とかあるかもしれないよ」
オスカーが付け加えると、リリアは人形の足元を覗き込んだ。
「くつも?」
「うん。たぶんね」
「リリア、くつほしい!」
「じゃあ、王都で一緒に探してみようか」
オスカーがそう言って私を見るので、私は笑って頷いた。
「ええ。お母様も一緒に探しましょうね」
リリアは人形を膝に戻すと、オスカーに向かって、どんな靴がいいか話し始めた。どうやら、兄のおかげで王都へ行く楽しみができたらしい。
「それでは、リリアも王都へ行ってみる?」
私が尋ねると、リリアは少し考えてから頷いた。
「……いく。でも、エルザにまたねっていう」
「ええ。ちゃんとお話ししましょうね」
リリアが頷いたところで、私は二人の顔を順に見た。
「それでは、明日テオドール様にお返事しましょうか」
「はい」
「うん!」
◇
出発の日が決まると、エルザが荷物をまとめるのを手伝ってくれた。
村から診療所へ移ってきたときには、親子三人ともほとんど何も持っていなかった。それなのに、今では衣服だけでなく、子供たちの本や玩具まで増えている。エルザが広げてくれた鞄を前に、私はどれを先に詰めようかと考え込んでしまった。
「こちらはリリアちゃんの服ですね。先に入れてしまいましょうか」
「お願いします。リリア、エルザさんが畳んでくださったものから順番に入れてちょうだいね」
「じぶんでできるよ!」
リリアは畳まれた服を一枚受け取ると、勢いよく鞄の中へ押し込んだ。
「あらあら、そんなに押したら皺になっちゃうわ。ほら、こうして端を持って、そっと入れてごらん」
エルザが服を取り出して見せると、リリアは真剣な顔でその手元を見つめ、今度は両手で丁寧にしまっていた。
私は二人の様子を眺めながら、膝の上に置いた衣服を畳み直した。
「エルザさん、本当にありがとうございました」
「何ですか、急に」
「いえ、きちんとお礼をお伝えしておきたくて。私が動けなかった間も、二人の面倒を見ていただいて……」
「まだ明日までいるでしょう? お別れの挨拶には早いですよ」
エルザが笑いながら答えると、リリアが鞄から顔を上げた。
「エルザ、またあえる?」
「ええ。また遊びに来てくれたら嬉しいわ。コルネリアさんの脚がよくなったら、みんなでいらっしゃい」
「うん!」
「そのときは、王都でどんなお洋服を見つけたか教えてね」
リリアは嬉しそうに頷き、今度は人形まで鞄に入れようとした。
「リリア、それも入れてしまうの?」
「うん。わすれないように」
「でも、今夜はどうするの? いつも一緒に寝ているでしょう?」
そう尋ねると、リリアは鞄と人形を見比べ、しばらく迷ってから人形を取り出した。
「これはあしたにする」
「そうね。明日の朝、忘れずに持っていきましょう」
その隣では、オスカーが小さな包みを何度も確かめていた。
「オスカー、それは何?」
「エドガー先生からいただいた薬草の種です。王都へ持っていって、育ててみたいと思っています」
「まあ、そうなの。先生に育て方を教えていただいたの?」
「はい。植える時期や、水のあげ方も聞きました」
オスカーは包みを私に見せてから、鞄の内側にある小さな袋へ丁寧にしまった。
「なくさないようにしないと」
「そうね。せっかくいただいたものだものね」
リリアも兄の鞄を覗こうとしたが、オスカーは種がこぼれるといけないからと、慌てて口を閉じていた。
翌朝、診療所の前には馬車が用意されていた。
エドガー先生は、出発前にもう一度私の脚を診てから、長時間同じ姿勢で座り続けないよう注意してくれた。
「無理をせず、途中で休みながら行くんじゃぞ。向こうに着いてからも、練習を急ぎすぎんようにな」
「はい。先生には本当にお世話になりました」
「うむ。テオドールもついておることじゃし、心配はいらんじゃろう」
先生はそう言うと、すぐそばに立っていたオスカーへ顔を向けた。
「それから、薬草の種は植える時期を間違えんようにな」
「はい。ちゃんと覚えています」
「よろしい。うまく育ったら知らせておくれ」
「はい!」
オスカーが元気よく返事をしている間、リリアはエルザに抱きついていた。エルザがしゃがんで目線を合わせると、リリアは人形を持ち上げ、青い服を見せた。
「エルザ、これもってくね」
「ええ。大事にしてね」
「うん。エルザ、またね」
「またね、リリアちゃん」
エルザが頬に口づけると、リリアも背伸びをして頬を寄せた。
私はその様子を見ながら、診療所の入口に立つ人たちへ改めて頭を下げた。
「皆さん、本当にありがとうございました」
「身体に気をつけるんですよ。脚がよくなったら、また顔を見せてくださいね」
エルザにそう言ってもらい、私は頷いた。
テオドールに手伝ってもらって馬車に乗り込むと、子供たちは窓から身を乗り出しそうな勢いで手を振った。
「せんせい、またねー!」
「お元気で!」
エドガー先生が片手を上げ、エルザも大きく手を振り返してくれる。
馬車が走り出してからも、二人は診療所が見えなくなるまで窓の外を眺めていた。
◇
王都へ向かう道はよく整備されていて、馬車は思っていたほど揺れなかった。
それでも長時間座っていると右脚が重く感じられるため、途中で何度か休憩を挟んでもらった。子供たちは休むたびに馬車を降りたがり、テオドールに付き添ってもらっては街道沿いの草花や、通り過ぎる荷馬車を眺めていた。
王都が近づくにつれ、街道を行き交う馬車の数が増えてきた。城壁が見え始めるころには、荷物を積んだ商人の馬車や乗合馬車が列を作っており、オスカーもリリアも窓の外から目を離そうとしない。
「お母様、あの馬車は何を運んでいるのでしょう?」
オスカーが指さした先には、大きな樽をいくつも積んだ荷馬車が走っていた。
「何でしょうね。あれだけ樽があるのだから、飲み物かもしれないわ」
「お酒でしょうか?」
「そうかもしれないね。あの辺りには醸造所が多いんだ」
テオドールが教えると、オスカーはさっそくほかにも何が作られているのかと尋ね始めた。
城門を抜けると、通りの両側に店が並び、買い物客や荷車を引く人々で賑わっていた。窓から見える建物はどれも背が高く、店先には色鮮やかな布や果物が並べられている。
「おかあさま、あれなあに?」
リリアが指さした先には、屋根から色とりどりの飾りを下げた店があった。
「あちらは何のお店かしら。テオドール様、ご存じですか?」
「確か、子供向けの玩具を扱っていたと思うよ」
「おにんぎょう?」
「あるかもしれないね」
「リリア、いきたい!」
「今日はもう遅くなるから、また今度にしましょうね」
「えー、いきたいのにぃ」
リリアは口を尖らせ、名残惜しそうに窓の外を見つめていた。けれど、馬車が角を曲がってお店が見えなくなると、今度は反対側の窓へ身を乗り出した。
「おかあさま! あっちにもおみせ!」
「本当ね。今度は何のお店かしら」
「ぼうし!」
リリアが指さしているのは、色とりどりの帽子を並べた店だった。隣のオスカーまで窓に顔を寄せ、変わった形の帽子を見つけては二人で話している。
久しぶりに大きな町へ来たけれど、隣国の王都は私が暮らしていた王都とは街並みが少し違う。建物に使われている石の色も、店の看板の形も見慣れないものが多く、私自身もつい窓の外へ目を向けてしまった。
やがて馬車は賑やかな大通りを離れ、広い敷地を持つ屋敷が並ぶ一角へ入った。
通りの両側には高い塀が続き、門の向こうには手入れされた庭や、大きな建物が見えている。王都の貴族街なのだろう。自国の王都でも、これほど広い敷地を構えられるのは相応の家格を持つ貴族に限られていた。
テオドールの立ち居振る舞いや言葉遣いから、貴族の出身なのだろうとは思っていた。けれど、ご実家がこの辺りにあるとなると、私が想像していたよりも身分の高い家なのかもしれない。
そう考えているうちに、馬車は大きな門の前で速度を落とした。
何気なく窓の外を見ていた私は、門柱に掲げられた紋章に気づき、思わず身を乗り出した。
あれは、ディルガート侯爵家の紋章ではないだろうか。
「……テオドール様」
「何?」
「こちらは、ディルガート侯爵家のお屋敷ではありませんか?」
「そうだよ」
あっさりと肯定され、私は隣に座るテオドールへ顔を向けた。
「では、どうしてこちらへ……?」
「俺の実家だからね。父が現侯爵で、俺はその嫡男なんだ」
「……え?」
思わずテオドールの顔を見つめてしまった。
王都へ誘ってくれたときには、薬草を扱う家だと聞いていたから、商家か地方貴族の家なのだろうと考えていたのだ。
「貴族のご出身だろうとは思っていました。でも、侯爵家のご嫡男だなんて……」
「父も君たちを歓迎しているよ。身分のことは気にしなくていい」
「気にしないわけにはまいりません」
反射的に答えると、テオドールは少し目を丸くしたあと、口元を緩めた。
そんな顔をしている場合ではないと思うのだけれど。
馬車が門を通り抜けると、広い前庭の向こうに立派な石造りの屋敷が見えてきた。玄関前にはすでに数人の使用人が並び、馬車が近づくと揃ってこちらへ顔を向ける。
公爵邸でも見慣れた光景ではあるけれど、今の私には以前のように客人として訪問する準備さえできていない。しかも、怪我が治るまで子供たちと一緒に世話になろうとしているのだ。
どうしたものかと考えているうちに馬車が停まり、外から扉が開けられた。
「お帰りなさいませ、テオドール様」
「ただいま。父は?」
「旦那様は応接室でお待ちでございます」
「分かった。まずは皆を部屋へ案内したいんだけど、準備はできている?」
「はい。ご指示いただいたとおり、一階のお部屋をご用意しております」
私はテオドールと使用人のやり取りを聞きながら、改めて屋敷を見上げた。
「コルネリア、降りられそう?」
「え? あ、はい……」
顔を上げると、テオドールが馬車の扉の前で手を差し出していた。いつの間にか車椅子も用意されている。
慌ててその手を取り、支えてもらいながら車椅子へ移ると、使用人が私の荷物を運び出し、別の使用人が車椅子の後ろへ回った。先に馬車を降りていたオスカーとリリアも、使用人に案内されて玄関へ向かおうとしている。
「あの、テオドール様……」
何から尋ねればよいのか迷っているうちに、玄関へ続く階段の脇に設けられた坂へ車椅子が向きを変えた。
そこまで準備していただいていたのかと驚いていると、テオドールが私の顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「……いえ。何から申し上げればよいのか、分からなくなってしまって」
「ごめん。侯爵家だということは、あえて言わなかったんだ。少し驚かせようと思って」
「……少し、ですか?」
思わず聞き返すと、テオドールは笑いをこらえるように口元を押さえた。
「いや、ここまで驚いてくれるとは思わなかったよ」
「テオドール様!」
「ごめん、ごめん」
謝っているわりに、テオドールは楽しそうだった。
私は呆れて彼を見上げたが、いつもの薬師の顔でそんなことを言われると、何だか怒る気も失せてしまった。
「テオドール。客人を玄関先で待たせるものではないぞ」
突然声をかけられ、私は慌てて顔を上げた。
玄関から、品のよい身なりをした男性が使用人を伴って出てくるところだった。
「ああ、父上。ただいま」
「お帰り。ずいぶん久しぶりだな」
男性はテオドールへ声をかけてから、車椅子に座る私へ目を向けた。
「遠いところをよくお越しくださいました。ディルガート侯爵家の当主でございます」
私は車椅子に座ったまま、慌てて姿勢を正した。
「コルネリアと申します。このたびは突然お世話になることになりまして、申し訳ございません」
「いやいや、息子からお話は伺っております。大変な事故に遭われたそうですな。まずはお身体を休めてください」
「ありがとうございます」
「お子さんたちも、長旅で疲れたでしょう」
侯爵がそう言って子供たちへ目を向けると、オスカーはすぐに背筋を伸ばして挨拶をした。
「オスカーと申します。しばらくお世話になります」
「これはご丁寧に。こちらこそ、よろしくお願いしますよ」
リリアも兄の真似をしようとしたのか、人形を抱えたままぺこりと頭を下げた。
「リリアです!」
「ほう、リリアちゃんか。よく来てくれましたな」
侯爵が笑うと、リリアは少し照れたように私の車椅子へ寄ってきた。
その様子を見ていたテオドールが、父親に声をかける。
「父上、まずは部屋へ案内してもらってもいいかな。コルネリアも長い間馬車に乗っていたから」
「ああ、そうだな。話は落ち着いてからにしよう」
侯爵は使用人に案内を頼むと、私にもゆっくり休むよう声をかけ、屋敷の中へ戻っていった。
私たちも使用人に案内され、玄関へ向かう。
坂を上がって扉をくぐると、広い玄関ホールが目に入った。磨かれた床の上には大きな絨毯が敷かれ、正面の階段は途中で左右に分かれて二階へ続いている。
オスカーは天井から下がる照明を見上げ、リリアは床の模様が気になるのか、歩きながら何度も足元を覗き込んでいた。
「おかあさま、ここにおとまりするの?」
「ええ。そうよ」
「おおきいおうちだね!」
「本当ね。迷子にならないようにしなくては」
「リリア、まいごにならないよ!」
胸を張って答えるリリアの手を、オスカーがさりげなく握った。
「じゃあ、僕と一緒に行こう」
「うん!」
子供たちが使用人のあとについて歩き始めたので、私も車椅子を押してもらいながら廊下を進んだ。
壁には大きな絵がいくつも飾られ、廊下の途中には中庭へ続くガラス扉も見える。そこから差し込む陽射しの先で、オスカーとリリアが足を止めた。
「お母様、あの絵を見てもいいですか?」
「ええ。でも、触らないようにね」
「はい!」
オスカーはリリアの手を引き、壁に飾られた絵の前へ近づいた。どうやら花の絵らしく、リリアが人形を抱えたまま背伸びをしている。
その様子を見ていると、隣を歩いていたテオドールが声をかけてきた。
「子供たちの寝室も、君の部屋の近くにしてもらったよ。夜もすぐに行き来できるようにね」
「ありがとうございます。何から何までお願いしてしまって……」
「長い間、馬車に乗って疲れたでしょう。今日はゆっくり休んで」
そう言って廊下の先を示すテオドールに頷き、私は使用人に車椅子を押してもらいながら、用意された部屋へ向かった。




