第七章 春を待つ
妻子の事故から、もうすぐ一か月が経とうとしていた。
「……また何も見つからなかったのか」
アレクシスは報告書を読み終えると、机の上に置いた。
「はい。川沿いの捜索は続けておりますが、積雪のため、まだ先へ進めない場所が多いようでございます」
向かいに立つヘルマンが答える。
「いつまで雪が残っているんだ。もう春になるというのに」
「山間部でございますから、平地より雪解けが遅いのでしょう。現場からも、雪が減れば捜索範囲を広げられるとの報告がございます」
「それは前にも聞いた」
アレクシスは椅子の背にもたれた。
王都へ戻ってからも、捜索現場からは定期的に報告が届いていた。しかし、その内容はほとんど変わらない。雪に阻まれて先へ進めない、調べた場所からも手がかりは見つからない。そればかりだった。
「川沿いの村はどうなっている。近隣の村にも協力を求めるよう命じてあったはずだろう」
「確認できる村には、すでに聞き取りを行っております。ですが、奥様方に該当する三人を見かけたという情報は得られておりません」
「そうか……」
アレクシスは再び報告書に目を落とした。
事故が事実だと知ったあと、自ら現場へ向かった。必要な人員も物資も用意させ、騎士たちには捜索範囲を広げるよう命じた。
それでも、何も見つからない。
現場にいたときも、王都に戻ってからも、状況はほとんど変わっていなかった。
「これだけ人を動かしているというのに、手がかり一つ見つからないとはな」
「現場の騎士たちも、できる限りのことをしております。雪崩によって地形が変わっている場所も多く、川へ近づくことさえ難しいようでございます」
「分かっている。私も現場を見てきたんだ」
騎士たちが怠けているとは思わない。あの崖の高さも、川の流れの速さも、自分の目で確かめてきた。
だが、何も進展しない報告を受けるたびに、同じ説明を聞かされるのはもううんざりだった。
「そもそも、現場の判断は騎士隊長に任せたはずだろう」
「はい。捜索の進め方については、隊長が判断しております」
「ならば、今後の報告はお前が確認しておけ」
ヘルマンが顔を上げた。
「私が、でございますか」
「ああ。何か見つかったのなら知らせればいい。毎回、進展がないという報告を聞かされても仕方がないだろう」
「……承知いたしました」
「必要な費用も、これまでどおり手配してやれ。いちいち私に確認する必要はない」
「かしこまりました。ただ、雪解け後に捜索範囲を広げるとなれば、追加の人員や物資が必要になる可能性もございます」
「そのときは隊長と相談して決めればいい。足りないものがあるなら用意しろと言っているんだ」
アレクシスがそう答えると、ヘルマンは一礼した。
「では、今後の報告は私のほうで確認し、重要な進展があった場合にお知らせいたします」
「ああ。それでいい」
アレクシスは報告書を脇へ寄せ、別の書類を手に取った。
残っていた書類に目を通し、いくつか署名を済ませたところで、アレクシスは筆を置いた。
「ヘルマン、ほかに急ぎの用件はあるか」
「本日中にご判断いただかなければならないものは、今のところございません」
「そうか。ならば、私は出かける」
アレクシスは椅子から立ち上がり、外套を手に取った。
「セシルのところへ行ってくる。馬車を用意させろ」
「かしこまりました」
ヘルマンは机の書類をまとめ始めた。その中には、先ほどの捜索報告もある。
「捜索の件は頼んだぞ」
「承知しております。何かございましたら、すぐにご報告いたします」
「ああ」
今日は少し長く顔を見せてやろう。
ヘルマンに見送られ、アレクシスは公爵邸をあとにした。
◇
「おかあさま、みて!」
部屋に入ってきたリリアが、両手で人形を差し出してきた。
「あら、新しいお洋服ね」
「エルザさんがつくってくれたの!」
見慣れた布人形には、青い布で作られた小さな服が着せられていた。リリアが裾を広げて見せてくれる。
「まあ、素敵ね。エルザさんにお礼は言った?」
「うん! ありがとうって!」
「そう。よかったわね」
リリアは嬉しそうに人形を眺めていたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「マルタも、おようふくつくってくれるっていってた」
「そうね。約束していたわね」
「……マルタにあいたいなぁ」
「ええ。お母様も会いたいわ」
リリアは人形を抱き直すと、今度は服の背中を見せてくれた。
「ここにもおはながあるの!」
◇
診療所へ移ってから十日ほどが過ぎたある日、午前中の診察を終えたエドガー先生が、寝台のそばへ椅子を引き寄せた。
「今日は少し、自分で起き上がってみようかの」
「自分で、ですか?」
「うむ。今の状態なら、そろそろ練習を始めてもよさそうじゃ」
私は思わず、自分の身体に目を落とした。
これまではテオドールやエルザに背中を支えてもらい、枕を重ねて姿勢を保っていた。自分の力で起き上がろうとしたことは、事故以来一度もない。
「もちろん、いきなり一人でやれとは言わん。テオドール、支えてやってくれ」
「はい。コルネリア、まずは俺の腕につかまって」
差し出された腕を握り、私はゆっくりと身体に力を入れた。
背中を寝台から浮かせようとした途端、胸のあたりが引っ張られるように痛んだ。
「……っ」
「痛む?」
「少し……」
「無理しなくていいよ。一度休もうか」
テオドールが背中を支えてくれたので、私はそのまま枕に身体を戻した。
ほんの少し動いただけなのに、思っていたよりも力が必要だった。何より、痛みが出るのではないかと身構えてしまい、うまく身体を動かせない。
「どうじゃ。もう一度やってみるかの?」
エドガー先生に尋ねられ、私は少し考えた。
痛みはもう落ち着いている。今なら、先ほどよりも動かせそうな気がした。
「はい。もう一度お願いします」
「よし。では、今度は腕の力も使ってみようかの。脚は動かさんようにな」
先生に教わったとおり、寝台に手をついて身体を支えながら、ゆっくりと上半身を持ち上げる。
テオドールが背中に手を添えてくれているものの、先ほどよりも自分の力で動かせているのが分かった。
「そうじゃ。そのまま、慌てずに」
身体を起こし、ようやく用意してもらった枕に背中を預けることができた。
「……できました」
「うむ。よく頑張ったのう」
エドガー先生が笑って頷いた。
「まだ一人で起き上がれるわけではないが、今はこれで十分じゃ。身体を動かすことに慣れていこう」
「はい」
私は寝台の両脇に手をつき、姿勢を確かめた。
「ただし、今日はもう練習せんでよいぞ。張り切りすぎると、明日になって痛みが出るかもしれんからの」
「分かりました」
「本当かな。コルネリアは、できるようになると何度も試したくなりそうだけど」
テオドールが横から口を挟んだ。
「そんなことは……」
否定しかけたところで、二人から顔を見られていることに気づいた。
「……少しは、あるかもしれません」
「ほらね」
テオドールが笑うと、エドガー先生も声を上げて笑った。
「まあ、気持ちは分からんでもない。じゃが、わしの言うことはきちんと守ってもらうぞ」
「はい。気をつけます」
診察が終わると、エドガー先生は次の患者を診るために部屋を出ていった。
テオドールは枕の位置を整え、私が楽に座っていられるようにしてくれた。
「疲れていない?」
「少し疲れましたけれど、大丈夫です」
「じゃあ、もう少ししたら横になろうか。今日はよく頑張ったからね」
「ありがとうございます」
私は自分の手を見下ろした。
寝台に手をつき、身体を支えた感覚がまだ残っている。
「……何だか、嬉しいですね」
「何が?」
「今まで、自分では何もできませんでしたから。こうして自分で動けるようになると、やっぱり嬉しいです」
「そうだね。俺も嬉しいよ」
テオドールは使い終わった道具を片づけながら頷いた。
「でも、まだ始めたばかりだからね。明日も同じようにできるとは限らないし、痛みが強い日は休んでもいいんだよ」
「はい。先生にも言われましたから、無理はしません」
「それなら安心だ」
彼は道具箱を閉じると、立ち上がった。
「そうだ。昼食はもう少しあとになると思うけど、今日はどうする? エルザに手伝ってもらう?」
私は少し考えた。
最近は自分で匙を持てるようになってきたものの、途中で疲れてしまい、最後まで食べられないことも多い。
「今日は、自分で食べてみようと思います」
「分かった。でも、疲れたら途中で代わってもらってね」
「はい」
テオドールが部屋を出ていったあと、私は枕に背中を預け、昼食まで身体を休めることにした。
やがて食事を運んできたエルザに、今日は自分で食べたいと伝えると、彼女は小卓を寝台のそばまで寄せてくれた。
「では、こちらに置きますね。取りにくいものがあったらおっしゃってください」
「ありがとうございます」
差し出された匙を受け取り、まずはスープを一口飲んだ。
エルザが隣で様子を見ていてくれたので、途中で何度か休みながら、少しずつ食事を進めた。
「今日はずいぶん召し上がれましたね」
空になった器を見て、エルザが笑った。
「ええ。途中で手伝っていただかずに済みました」
「よかったですね。では、食器を片づけてまいりますから、少しお休みになってください」
「ありがとうございます。お願いいたします」
エルザが食器を下げてくれると、私は枕に身体を預けた。
さすがに疲れたけれど、今日は自分の力で身体を起こし、食事も最後まで取ることができた。
明日の診察では、また何ができるだろう。




