第五章 届かなかった手
馬車が用意できたと聞いたのは、朝食を終えて間もなくのことだった。
「出発する前に、もう一度傷の状態を確かめさせてね」
テオドールはそう言って、いつものように私の脚と背中を診てくれた。
昨日から特に変わったところはない。熱もなく、食事も取れている。ただ、少し身体を動かしただけで痛みが走るのは相変わらずで、これから馬車に乗るのだと思うと、どうしても不安になる。
「やっぱり、もう少し待ったほうがいいでしょうか」
「今の状態なら移動しても大丈夫だと思うよ。もちろん、絶対に痛まないとは言えないけどね」
テオドールは包帯を巻き直しながら、私の顔を見た。
「心配?」
「ええ。馬車に乗るのは、事故以来ですから」
「ああ、そうか」
彼は少し考えてから、手にしていた包帯を道具箱へ戻した。
「出発してすぐに辛くなったら、遠慮なく言ってほしい。途中で引き返すことだってできるんだから」
「でも、それでは皆さんにご迷惑を……」
「無理をして怪我が悪くなるほうが困るよ。俺も師匠に叱られるしね」
最後の言葉に思わず笑うと、テオドールも笑った。
「それに、馬車の準備をしてくれた人たちも、君たちが無事に着けるようにって考えてくれているんだ。遠慮する必要はないよ」
「……はい。ありがとうございます」
診察が終わると、村の女性たちが荷物を運びに来てくれた。
私たちがここへ運び込まれたときには、着ていた服も使いものにならないほど傷んでいたらしい。今、子供たちが身につけている服も、私が使わせてもらっている寝間着も、すべて村の人たちが用意してくれたものだ。
「これも持っていきなさい。向こうへ着くまでに寒くなるかもしれないからね」
女性が差し出してくれたのは、厚手の毛布だった。
「こんなにたくさんいただいてしまって、よろしいんでしょうか」
「いいのよ。子供たちの分もあるんだから、遠慮しないで」
「本当に、何から何までお世話になってしまって……」
「そんなことより、ちゃんと治しておくれよ。あんたが元気にならなきゃ、あの子たちだって困るんだから」
「はい」
頷くと、女性は満足そうに笑い、毛布を抱えて部屋を出ていった。
しばらくして、廊下からオスカーとリリアの声が聞こえてきた。
「お母様、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
扉が開くと、二人とも外套を着た姿で入ってきた。オスカーは自分の荷物を持っていたけれど、リリアは両手で何かを抱えている。
「リリア、それは何?」
「ゆきだるま!」
差し出されたのは、昨日庭で作った雪だるまに使っていたらしい小枝と小石だった。
どうやら、雪だるまそのものを持ってこようとして、オスカーに止められたらしい。
「リリア、雪は馬車の中で溶けちゃうんだよ」
「でも、おめめ!」
「目は持ってきてもいいって言っただろ」
「うん!」
リリアは嬉しそうに三つの小石を見せてくれた。
「まあ。ちゃんと三つとも持ってきたのね」
「うん! またつくるの!」
「そうね。向こうでも雪が積もっていたら、また作りましょうね」
「おかあさまも?」
「お母様が歩けるようになったら、一緒にね」
リリアは満足したらしく、小石を大切そうに外套のポケットへしまった。
その様子を見ていたオスカーが、今度は私のそばへ来た。
「お母様、馬車に乗っても大丈夫?」
「テオドール先生が診てくださったから、大丈夫よ」
「痛くなったら言ってね。ぼく、先生を呼ぶから」
「ありがとう。頼りにしているわ」
息子は少し照れたように笑った。
まだ六歳なのに、事故のあとからずいぶん私のことを気にかけてくれている。けれど、本当なら、私がこの子たちを安心させてあげなければならないのだ。
「オスカーも、疲れたり寒くなったりしたら教えてね。リリアのことも、お母様のことも、全部一人で心配しなくていいのよ」
「……うん」
「先生も一緒にいてくださるんだから」
そう言うと、オスカーはテオドールのほうを振り返った。
「先生、向こうに着くまでずっと一緒?」
「もちろん。途中で置いていったりしないよ」
「よかった」
息子の返事に、テオドールは少し目を細めた。
やがて出発の準備が整い、私はテオドールと村の男性たちに手伝ってもらいながら、馬車へ運ばれることになった。
身体を持ち上げられた瞬間、背中に痛みが走り、思わず息を詰めた。
「痛む?」
「……少しだけ」
「分かった。ゆっくり動かすからね」
テオドールの声に合わせて呼吸を整える。身体が傾くたびに胸のあたりが痛んだけれど、どうにか馬車の中へ移ることができた。
横になってみると、思っていたよりも広い。寝台代わりの敷物が重ねられ、身体が揺れないように両脇にも布が詰められている。
「これなら、少しは楽に過ごせると思う」
「こんなふうに用意してくださったんですね」
「村のみんなが手伝ってくれたんだ。俺一人じゃ、とても間に合わなかったよ」
窓の外を見ると、世話になった人たちが集まっていた。
オスカーとリリアが馬車に乗り込むと、女性たちが次々に声をかけてくれる。
「オスカー、妹のことを頼んだよ」
「うん!」
「リリアも、元気でね」
「うん! ありがとう!」
リリアが窓から手を振ると、村の人たちも笑いながら手を振り返してくれた。
私もどうにか上半身を起こそうとしたけれど、テオドールに止められた。
「そのままでいいよ。みんなにも見えているから」
それでも、せめてきちんとお礼を伝えたかった。
「皆さん、本当にありがとうございました。助けていただいたことも、こうしてお世話になったことも、決して忘れません」
「いいから、早く元気になりなさい!」
「子供たちも、また遊びにおいで!」
口々にかけられる言葉を聞きながら、私は何度も頭を下げた。
やがて御者が手綱を取り、馬車がゆっくりと動き始める。
「ばいばーい!」
リリアが窓から身を乗り出そうとしたので、オスカーが慌てて外套を引っ張った。
「リリア、危ないって!」
「だって、まだみえる!」
「座ってても見えるよ」
二人のやり取りに、テオドールが笑いながら窓を少し開けてくれた。
村の家々が遠ざかり、やがて木々の向こうへ隠れていく。
私は寝台に頭を預けた。
これから向かう場所が、どんなところなのかはまだ分からない。治療がどれほど長くかかるのかも、歩けるようになったあと、どうやって暮らしていくのかも。
考えなければならないことは、いくらでもある。
けれど、今はまず怪我を治そう。
隣では、リリアがオスカーに雪だるまの目を見せながら、次はもっと大きなものを作るのだと話していた。
その約束を、一緒に果たせるようになりたい。
◇
アレクシスが雪崩の現場に到着したのは、その日の午後だった。
山道にはまだ雪が残り、馬車が通れる場所も限られている。途中から馬に乗り換えて進んできたものの、現場へ着くころにはすっかり身体が冷えていた。
「公爵閣下!」
出迎えた騎士隊長が、すぐに頭を下げた。
「捜索の状況を報告しろ」
「はっ。現在、崖下へ降りる経路を確保しておりますが、雪崩による崩落が続いており、作業は難航しております」
「川沿いはどうなっている」
「下流へ向かった隊もおります。ただ、積雪のため進めない場所が多く、まだ十分に調べられておりません」
「人員を増やしたはずだろう」
「増援は到着しております。しかし、狭い山道では一度に動ける人数にも限りがございます」
アレクシスは隊長の説明を聞きながら、崖の縁へ向かった。
騎士たちが慌ててあとを追う。
「閣下、それ以上は危険です!」
「分かっている」
足を止め、崖下を見下ろした。
雪に覆われた斜面の先には、深い谷が続いている。はるか下から川の音が聞こえていたが、木々と岩に遮られ、水面はほとんど見えなかった。
「……ここから落ちたのか」
「はい。奥様方の馬車は、あのあたりから転落いたしました」
隊長が指し示した場所には、崩れた雪と折れた木々が残っている。
「馬車は?」
「まだ発見できておりません。途中で車輪の一部が見つかりましたが、車体そのものは崖下へ落ちたものと思われます」
「川に流された可能性は」
「ございます。ただ、現在の水量と流れの速さを考えますと……」
隊長はそこで言葉を止めた。
「何だ。はっきり言え」
「生存されている可能性は、極めて低いかと」
アレクシスは隊長を見た。
「遺体は見つかったのか」
「……いいえ」
「ならば、まだ分からないだろう」
「おっしゃるとおりでございます」
隊長は頭を下げた。
アレクシスはもう一度、崖下へ目を向けた。
コルネリアが領地へ向かうことは知っていた。子供たちも連れていくと聞いていたし、出発前夜には、領地へ着いたら連絡するように伝えた覚えもある。
それなのに、事故の知らせを聞いたとき、自分は何を考えたのか。
あれは嘘だと決めつけた。
リリアの誕生日に帰らなかったことを責めるために、コルネリアが騒ぎを起こしたのだと。
だが、目の前にある崖は、報告書に書かれていたとおりの場所だった。
「……捜索を続けろ」
「はっ」
「川の下流も、行けるところまで調べさせろ。必要なら近隣の村にも協力を求めるんだ」
「承知いたしました」
隊長が部下に指示を出すのを見届け、アレクシスは崖から離れた。
コルネリアは、子供たちを連れてどこへ行ったのだろう。
もし川に流されたのなら、どこかの岸にたどり着いているかもしれない。
怪我をして動けずにいるのなら、一刻も早く見つけなければならない。
アレクシスは近くに控えていた騎士を呼び、周辺の村と街道について調べるよう命じた。
◇
セシルがアレクシスの出発を見送ってから、五日が経っていた。
その間、アレクシスから届いた手紙は一通だけだった。捜索現場へ向かう途中の宿場から出されたもので、無事に移動していることと、到着後に改めて知らせるという簡単な内容だった。
セシルはその手紙をもう一度読み、ため息をついた。
「まだ、お返事はないの?」
尋ねると、侍女は首を横に振った。
「申し訳ございません。今朝も確認いたしましたが、届いておりません」
「そう……」
アレクシスがこれほど長く訪ねてこないのは、いつ以来だろう。
仕事で王都を離れることはあっても、いつ戻るのかは分かっていた。今回は妻と子供を捜しているのだから、見つかるまで帰ってこないつもりなのかもしれない。
セシルは手紙を畳んで小卓へ置いた。
「公爵家から、何か知らせは?」
「はい。旦那様は昨日、事故現場に到着されたそうでございます。現在は現地で捜索の指揮を執っておいでです」
「そう。では、まだ戻られないのね」
「はい。帰還の予定は決まっていないとのことでございます」
侍女は一度言葉を切り、続けた。
「それから、先日お尋ねになったお手紙の件ですが、公爵家を通して急使を出せば、現地まで数日で届くそうです。ただ、山道の状況によっては、もう少しかかることもあるとのことでした」
「そう。ありがとう」
セシルは膝の上で指を組んだ。
アレクシスがいなくても、屋敷の暮らしに不自由はない。侍女も医師も、必要なときにはすぐに来てくれる。
それでも、いつも座っている向かいの椅子が空いているのは面白くなかった。
これまでアレクシスは、コルネリアから何度呼び戻されても、自分のところに残ってくれた。
それなのに、今度は自分を置いて、妻と子供たちを捜しに行ってしまった。
「便箋を用意してちょうだい」
「お手紙を書かれるのですか?」
「ええ。アレクシスに」
侍女が便箋と筆記具を用意している間、セシルは何を書こうか考えていた。
ただ寂しいと伝えただけでは、すぐには帰ってこないかもしれない。妻と子供の捜索をしているのだから、もう少し待ってほしいと言われる可能性もある。
けれど、自分の身体のことなら、きっと心配してくれる。
セシルは筆を取り、書き始めた。
ここ数日、熱が続いていること。食事もほとんど取れず、夜も眠れないこと。医師に診てもらっているものの、なかなかよくならないこと。
書き終えると、最初から読み直した。
実際には熱など出ていないし、食事もいつもどおり取っている。医師を呼んでもいなかった。
けれど、アレクシスは自分が幼いころから身体を壊しやすいことを知っている。こう書けば、きっと心配するだろう。
「これを、公爵家へ届けてちょうだい。急ぎの手紙だと伝えてね」
「かしこまりました」
封筒を受け取った侍女が部屋を出ていく。
セシルは小卓の菓子皿から一つ取り、口へ運んだ。
アレクシスはいつ帰ってくるだろう。
できれば、今週中には顔を見たい。
◇
セシルからの手紙がアレクシスのもとへ届いたのは、捜索現場に到着してから四日目の夕方だった。
その日もアレクシスは騎士隊長とともに、川沿いの捜索範囲について話し合っていた。
「こちらの村までは確認が済んでおります。ただ、その先は道が雪に埋もれており、馬で進むのも難しい状態です」
「徒歩で向かわせることはできないのか」
「可能ではございますが、途中で野営が必要になります。天候が崩れれば、戻れなくなる危険もございます」
「ならば、天候を見て――」
「閣下!」
扉を叩いて入ってきた騎士が、封書を差し出した。
「王都からの急使でございます」
アレクシスは封筒を受け取り、差出人の名前を確かめた。
セシルだった。
封を切って読み始めたが、途中で眉をひそめた。
「……熱が続いている?」
読み終えると、すぐに使者を呼んだ。
「セシルの様子はどうだった」
「申し訳ございません。私は公爵邸で手紙を預かっただけでございますので、詳しいことは……」
「そうか」
アレクシスは手紙を握り直した。
セシルは以前から身体が弱い。少し熱が出ただけでも、長く寝込むことがある。
出発するときには元気そうだったが、あれから何日も経っている。
しかも、食事が取れないというのなら心配だった。
「閣下、何かございましたか」
騎士隊長が尋ねた。
「王都で、セシルが体調を崩したらしい」
「左様でございますか」
「熱が続いているそうだ。医師にも診てもらっているが、よくならないと書いてある」
隊長は返答に迷ったようだった。
アレクシスは手紙を畳み、机の上に置いた。
「私は一度、王都へ戻る」
「……閣下?」
「捜索は予定どおり続けろ。必要な人員と物資は出す。費用についても、ヘルマンに連絡すれば手配させる」
「しかし、奥様方はまだ……」
「分かっている。捜索をやめるつもりはない。だが、私がここにいても崖を降りられるわけではないだろう」
アレクシスは机の上に広げられた地図を見た。
現場に来てから、騎士たちがどれほど難しい状況で捜索を続けているのかは理解していた。人数を増やしても、狭い山道では一度に動ける人数に限りがある。自分が現場にいたところで、直接捜索に加われるわけではない。
「ここでの判断はお前に任せる。必要なものがあれば遠慮なく要請しろ。私が王都に戻っても、支援は続ける」
隊長はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。
「……承知いたしました。捜索は引き続き、我々が責任を持って進めます」
「ああ。何か分かれば、すぐに知らせろ」
「はっ」
アレクシスは部屋を出ると、馬の用意を命じた。
王都まで戻るには何日かかかる。それでも、急いで帰れば、セシルの容体が悪くなる前に着けるかもしれない。
彼が宿舎を出ていったあと、騎士隊長は机の上に広げた地図へ視線を戻した。
まだ調べていない場所が、いくつも残っている。
「隊長、明日の捜索はどういたしますか」
部下に尋ねられ、隊長は地図の一点を指した。
「予定どおり川沿いを進む。雪の状態を確かめながら、行けるところまで調べよう」
「承知しました」
部下が退出すると、隊長は窓の外を見た。
アレクシスを乗せた馬が、護衛とともに山道を下っていくところだった。
隊長はその姿が見えなくなるまで眺めてから、再び地図に向き直った。
翌朝の出発に備え、まだ決めなければならないことが残っていた。




