第四章 帰らないという選択
朝の診察を終えたテオドールは、包帯を巻き直すと、使い終わった道具を片づけ始めた。
「熱も下がっているし、傷の状態も悪くないね。これなら、師匠のところへ移動できそうだよ」
「本当ですか?」
「うん。ただし、道中で痛みが強くなるようなら、すぐに教えてね」
「はい。ありがとうございます」
以前は少し姿勢を変えるだけでも息が詰まるほど痛かったけれど、今はこうして起きていられる時間も長くなっている。それでも、自分の足で歩けるようになるまでには、まだ時間がかかるらしい。
「師匠にはもう手紙を出してあるから、返事が届いたら出発の日を決めようと思っているよ」
「よろしくお願いいたします」
テオドールが道具箱の蓋を閉めたところで、私は声をかけた。
「あの、テオドール様。王都への連絡について、お話ししたいことがあるのですが」
「うん。何かな?」
「その前に、きちんと名乗っておかなければなりませんね。私はコルネリア・ヴァルデンと申します」
「ヴァルデン……?」
「はい。ヴァルデン公爵家の者です」
テオドールは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「そうだったんだね。それで、王都への連絡についてというのは?」
「……もう少し、待っていただきたいんです」
「何か理由があるの?」
「帰りたくないんです」
テオドールは道具箱を脇に置き、椅子に座り直した。
「王都に戻れば、また以前と同じ生活になると思うんです。それが、どうしても嫌で……」
「以前の生活というのは?」
私はどこから話せばいいのか迷いながら、アレクシスとのこれまでのことを話した。
テオドールは途中で口を挟むこともなく、最後まで聞いてくれた。
「今回の事故のあとも、私は夫が迎えに来てくれるのを待っていたんです」
事故に遭ったと知れば、今度こそ子供たちのために来てくれるかもしれない。意識を取り戻してからも、そんなことを考えていた。
「けれど、王都へ連絡しなければと思いながら、なかなか決心がつかなくて……。そうしているうちに、今ならあの人から離れられるのではないかと考えるようになったんです」
「離れるというのは、別々に暮らすということ?」
「はい。今までは、そんなことを考えても実行できませんでした。けれど、今は夫も私たちがどこにいるのか知りません。今までの生活に戻らずに済む方法が、あるのかもしれないと思って……」
そこまで話して、私は毛布に覆われた脚へ目を落とした。
仕事をした経験もなければ、子供たちと暮らしていくために何が必要なのかも分からない。今は寝台から降りることさえできず、テオドールや村の人たちに世話になっている。
「自分でも、無理なことを考えているのかもしれないと思います。でも、今ここで帰ってしまったら、きっと何も変えられないままになる気がするんです」
「そうか……」
テオドールはしばらく黙っていた。
「正直に言えば、生きていることを知らせないままでいるのには反対なんだ。ただ、今の君に無理をして答えを出してほしいとも思っていない」
「……はい」
「でも、王都に連絡すれば、公爵家から迎えが来るだろうし、帰らないと言っても簡単には済まないと思う。君だけでなく、子供たちもいるから」
私は頷いた。アレクシスが私の希望を聞き入れるとは思えないし、オスカーは公爵家の跡取りでもある。
「だからこそ、今すぐには連絡したくないんです。これからどうするのか、考える時間が欲しくて……」
「分かった。だったら今は連絡しなくていい。君が考える時間ができるよう、村の人たちにも、もし君たちを探している人が来たら、知らないと言ってもらうように頼んでおくよ」
思っていたよりも早い返事に、私は顔を上げた。
「そこまでしていただいて、よろしいのですか?」
「うん。ただ、一人で全部考えようとしなくてもいいからね。僕でよければ相談に乗るよ」
「……ありがとうございます」
テオドールは立ち上がり、道具箱を手に取った。
「それじゃあ、僕は戻るよ。何かあったら呼んでね」
「はい。ありがとうございました」
扉が閉まると、私は寝台の上で膝にかけた毛布を整えた。
夫のことを、あんなふうに誰かに話したのは初めてだった。
公爵家のことを外で話すわけにはいかなかったし、ヘルマンやマルタに夫の不満を聞かせることにもためらいがあった。
それが、ほとんど何も知らないテオドールには話せてしまった。
アレクシスとの十九年間をどう受け止めればいいのか、今はまだ分からない。
◇
「お母様、入ってもいい?」
扉の向こうからオスカーの声が聞こえた。
「ええ、どうぞ」
返事をすると、オスカーがリリアの手を引いて入ってきた。二人とも頬を赤くしていて、外で遊んできたところらしい。
「お母様、リリアが雪だるまを作ったんだよ」
「ゆきだるま!」
「あら、上手にできた?」
「うん。でもね、目が三つあるんだ」
「だって、いっぱいあったの!」
リリアが口を尖らせるので、私は思わず笑ってしまった。
「目が三つある雪だるまなのね。どんな顔になったのかしら」
「窓から見えるところに作ったんだよ。お母様にも見せようと思って」
オスカーは窓辺へ行き、外を指さした。
私のいる寝台からでは顔までは見えなかったけれど、窓の下に小さな雪だるまがあるのは分かった。
「明日まで残っているといいわね」
「大丈夫だよ。まだ寒いから」
そう答えたオスカーは私のそばへ戻り、毛布の下にある脚へ目を向けた。
「お母様、今日は痛くない?」
「少し痛むけれど、昨日よりずっと楽よ」
「もうすぐ歩ける?」
「それはもう少し先になりそうね。でも、テオドール様がきちんと診てくださっているから大丈夫よ」
「うん」
オスカーが頷くと、リリアも寝台に近づいてきた。
「おかあさま、だっこ」
「ごめんなさいね。まだ抱っこはできないの」
「じゃあ、おてて」
「ええ、おいで」
差し出した手をリリアが握ると、オスカーも寝台の端に腰を下ろした。
「そうだわ。二人にお話ししておきたいことがあるの」
「なあに?」
「今度、別の町にある診療所へ行くことになったの。テオドール様のお師匠様が、私の怪我を診てくださるんですって」
「お母様の脚を治してくれる人?」
「ええ。今よりもっと詳しく診ていただけるそうよ」
「ぼくたちも一緒に行ける?」
「もちろん。三人一緒よ」
オスカーが頷くと、リリアも私の手を握ったまま声を上げた。
「リリアもいく!」
「ええ。リリアも一緒に行きましょうね」
そのあと、オスカーは村の子供たちと雪合戦をしたことを話してくれた。リリアは途中で何度も口を挟み、どちらが先に雪だるまの目をつけたのかで言い合いになった。
私は二人の話を聞きながら、ときどき質問をした。
この子たちは、まだ父親のことをほとんど口にしない。
事故に遭ってからの慌ただしさもあるのだろう。けれど、王都へ戻らないと決めたとき、二人がどう思うのかは、きちんと考えなければならなかった。
私が帰りたくないからといって、二人まで同じ気持ちだとは限らないのだから。
◇
翌日の午後、テオドールが一通の手紙を持って部屋へやってきた。
「師匠から返事が届いたよ。診療所で受け入れてくれるって」
「本当ですか?」
「うん。怪我の状態も詳しく書いておいたから、必要な準備をして待っていてくれるそうだ」
「ありがとうございます。お師匠様にも、どうぞよろしくお伝えください」
「それは着いてから直接言えばいいよ。明日の朝に出発するつもりだけど、体調はどう?」
「大丈夫です。昨日も今日も、熱はありませんし」
「道中は揺れるから、痛みが出たらすぐに言ってね。横になったまま移動できるように馬車を用意してあるし、途中でも休憩を取るから」
「はい」
テオドールは持っていた手紙を畳み、椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、僕は明日の準備をしてくるよ。オスカーたちにも話しておくね」
「お願いいたします」
彼が出ていったあと、私は窓の外へ目を向けた。
昨日オスカーたちが作った雪だるまは、まだ窓の下に残っていた。目が三つあるという顔までは見えないけれど、少し傾いた頭が何とも愛らしい。
明日には、この村ともお別れだ。
私たちを助けてくれた人たちには、出発前にきちんとお礼を伝えたい。何もできない私の代わりに、子供たちの世話までしてもらったのだから。
これから向かう町で、どんな生活が待っているのかは分からない。
まずは怪我を治そう。自分の足で歩けるようになったら、オスカーとリリアが安心して暮らせる場所を探したい。
アレクシスのことは、まだ答えを出せそうになかった。
◇
ヘルマンに捜索隊の準備を命じたあと、アレクシスは執務室に残って事故現場の報告書を読み返していた。
馬車が転落した場所は、領地へ向かう山道の途中だった。雪崩に巻き込まれた馬車は崖下へ落ち、川へ流されたという。現場では馬車の車輪の一部が見つかっているものの、コルネリアと子供たちの行方は分かっていない。
捜索に当たっている騎士たちは、すでに周辺を調べている。そこへ増員を送り、さらに下流まで範囲を広げる予定だった。
アレクシスは報告書を閉じ、机の上に置いた。
準備が整うまで、まだ数日はかかる。現地へ向かえば、いつ戻れるかも分からない。
そこで、セシルのことを思い出した。
これまでは数日と空けずに様子を見に行っていたが、捜索に出ればそうもいかなくなる。身体の弱い彼女が、何も知らずに自分を待つことになっては困る。
アレクシスは執事を呼び、馬車の用意を命じた。
◇
セシルの屋敷に到着すると、いつものように侍女が出迎えた。
「アレクシス様。お嬢様は居間にいらっしゃいます」
「ああ。今日は少し話があって来た」
案内された居間では、セシルが長椅子に腰かけて刺繍をしていた。アレクシスに気づくと、手元の布を置いて顔を上げる。
「アレクシス! 今日は来られないと思っていたわ」
「急にすまない。少し時間をもらえるか」
「もちろんよ。どうしたの? 何かあった?」
向かいの椅子に腰を下ろしたアレクシスは、侍女が茶を用意して退出するのを待ってから口を開いた。
「しばらく王都を離れることになった」
「王都を?」
「ああ。コルネリアたちの捜索に向かう」
セシルは目を見開いた。
「奥様たちの……。まだ見つかっていなかったのね」
「そうだ。現場では捜索を続けているが、手がかりが少ない。私も現地へ行くことにした」
「そう……。大変ね」
セシルは膝の上で手を重ねた。
「でも、あなたまで行かなければならないの? 騎士の方たちが探してくださっているのでしょう?」
「私も現場を確かめたい。それに、捜索の範囲を広げるなら、現地で判断したほうが早いこともある」
「そうなのね」
セシルは俯き、しばらく黙っていた。
「どのくらい留守にするの?」
「まだ分からない。見つかるまで探すつもりだが、現場の状況にもよるからな」
「そんなに……」
セシルが顔を上げた。
「あなたがそんなに長くいなくなるなんて、初めてじゃないかしら」
「仕事で王都を離れたことなら何度もあるだろう」
「でも、今回はいつ帰ってくるのかも分からないのでしょう?」
「ああ」
セシルは手元の刺繍に目を落とした。
「私、少し心配だわ」
「何をだ?」
「あなたのことも、もちろん心配よ。でも……」
そこで言葉を止めたセシルに、アレクシスは続きを促した。
「体調が悪くなったとき、あなたがいないと思うと不安なの。いつも頼ってばかりで申し訳ないとは思っているのだけれど」
「医師はどう言っている?」
「今は落ち着いているから大丈夫ですって。でも、またいつ具合が悪くなるか分からないでしょう?」
「そうだな」
アレクシスは少し考えた。
セシルの体調が急に悪くなることは、これまでにも何度かあった。捜索のためとはいえ、何の備えもせずに出かけるわけにはいかない。
「何かあれば、すぐに知らせてくれ」
「でも、あなたは遠くにいるのでしょう?」
「使いを出せばいい。どこにいるかは屋敷の者にも分かるようにしておく」
「本当に?」
「ああ。医師にも、留守の間はよく様子を見てもらうように頼んでおこう」
セシルはようやく微笑んだ。
「ありがとう、アレクシス。そう言ってもらえるだけで安心するわ」
「無理はしないでくれ。少しでも具合が悪くなったら、我慢せずに医師を呼ぶんだぞ」
「ええ。約束する」
アレクシスはそのあともセシルの近況を聞き、茶を一杯飲んでから席を立った。
「そろそろ戻らなければ。出発の準備もある」
「もう行ってしまうの?」
「すまない。今日は長くいられないんだ」
「そうよね。奥様とお子様たちが、早く見つかるといいわね」
「ああ」
セシルは玄関まで見送りに出てきた。
「気をつけてね、アレクシス」
「君も身体を大切にな」
セシルが手を振るのを見届けてから、アレクシスは馬車を出させた。
◇
アレクシスの馬車が門を出ていくと、セシルは玄関の扉を閉めさせ、居間へ戻った。
先ほどまで座っていた長椅子に腰を下ろすと、侍女が冷めた茶を片づけようとした。
「新しいお茶をお願い。それと、何か甘いものはないかしら」
「焼き菓子がございます」
「じゃあ、それも持ってきて」
「かしこまりました」
侍女が茶器を下げようとすると、セシルはふと思い出したように声をかけた。
「そうだわ。アレクシスは、しばらく王都を離れるそうよ」
「奥様とお子様の捜索でございますか?」
「ええ。いつ戻るかも分からないんですって」
「それは……早く見つかるとよろしいですね」
セシルは返事をせず、長椅子の背にもたれた。
「どうして本人が行かなければならないのかしら。騎士たちに任せておけばいいのに」
「公爵様もご心配なのでしょう」
「でも、もう半月以上も経っているのでしょう? 今さら行ったところで、何が変わるというの?」
侍女は何も答えなかった。
セシルは膝の上に置いていた刺繍を取り上げたものの、すぐにまた脇へ置いた。
「それに、私のことはどうするつもりなのかしら」
「公爵様は何かおっしゃっていましたか?」
「具合が悪くなったら、すぐに連絡するようにって」
「それなら、何かございましたらお知らせできますね」
「そうね」
セシルは少し考えてから、侍女に尋ねた。
「手紙を出したら、あの人のところまで何日くらいかかるのかしら」
「捜索先によるかと存じますが、公爵邸へお尋ねになれば分かると思います」
「そう。じゃあ、あとで調べておいてちょうだい」
「かしこまりました」
侍女が退出すると、セシルは再び刺繍を手に取った。




