第三章 十五日目の捜索命令
アレクシスが公爵邸へ戻ったのは、事故から十一日目の午後だった。
玄関で出迎えたヘルマンは、主人が外套を脱ぐのを待って声をかけた。
「お帰りなさいませ、旦那様。ご確認いただきたい書類がございます」
「ああ。急ぎのものから持ってこい」
「承知いたしました。それから、奥様方の捜索についても、ご判断をお願いしたいことがございます」
アレクシスは差し出された報告書を見たが、受け取らなかった。
「まだその話を続けているのか」
「現場では負傷者も出ております。捜索を続けるためには、追加の人員が必要です」
「……仕事の書類を先にしろ」
アレクシスはそれだけ言って執務室へ向かった。
ヘルマンは報告書を持ったまま、主人のあとに続いた。
執務室では、机の上に決裁待ちの書類が積まれていた。アレクシスは椅子に座ると、その一番上を手に取った。
「ずいぶん溜まっているな」
「奥様がご出発前に確認されたものもございます。旦那様のご署名が必要な書類は、こちらにまとめております」
「分かった」
アレクシスは一枚ずつ目を通し、署名していった。
商会への支払い、使用人の雇用に関する申請、領地の施設の修繕費用。どれも必要な資料が添えられており、決裁は順調に進んだ。
だが、橋の補修費用が記された書類を見たところで、アレクシスの手が止まった。
「何だ、この金額は」
「領地の橋の補修費用でございます。工事は完了しており、今回が最後のお支払いになります」
「こんな大きな工事を、コルネリアが勝手に進めたのか?」
「昨年、旦那様にもご承認いただいております」
「覚えがないな」
ヘルマンは添付されていた書類を開き、署名のある箇所を示した。
「こちらでございます」
アレクシスは自分の署名を確かめ、しばらく黙っていた。
「……予定どおり支払っておけ」
「かしこまりました」
ヘルマンは書類を受け取った。
コルネリアが出発前に済ませていた仕事は、ほかにも数多くあった。領地の管理人との面会予定も、使用人の冬季手当も、子供たちの留守中の予定も、必要なことは一通り整えられている。
最後の一枚に署名が終わったところで、アレクシスが筆を置いた。
「これで全部か」
「通常の決裁は以上でございます」
「なら、私は出かける」
「お待ちください。捜索に関する報告書が残っております」
ヘルマンは机の端に置いていた封筒を差し出した。
「現場から新たな報告が届いております。今後の対応についても、ご指示をいただかなければなりません」
「またそれか」
「旦那様。奥様方の安否が分からない以上、捜索を続けなければなりません」
「コルネリアが戻れば済む話だろう。いつまでも騎士たちを付き合わせる必要はない」
アレクシスは立ち上がり、外套を手に取った。
「そろそろ引き揚げるよう伝えろ。本来の任務に戻さなければ、ほかの仕事に支障が出る」
「それはできかねます」
アレクシスの足が止まった。
「何?」
「奥様とお子様方が発見されておりません。捜索を打ち切ることはできません」
「主人の命令に逆らうつもりか」
「申し訳ございません。ですが、この件だけは」
アレクシスはヘルマンを睨んだ。
「……勝手にしろ。ただし、これ以上その話を私に持ってくるな」
そう言い残して、執務室を出ていった。
ヘルマンは主人の足音が遠ざかるのを待ち、机に残された報告書を取り上げた。
捜索を続けることは認められた。だが、増員の承認は得られなかった。
ヘルマンは別の用紙を取り出し、現在の人員で交代を組めるかどうか、改めて計算を始めた。
◇
事故から十二日目の朝。
目を開けると、見知らぬ木の天井があった。
どこかで薪のはぜる音がしている。窓から差し込む光が眩しく、私は何度か瞬きをしてから、ゆっくりと顔を横へ向けた。
ここは、どこだろう。
身体を起こそうとした途端、脚と背中に痛みが走った。思わず息を止めると、今度は胸まで痛んで、私は枕に頭を戻した。
「目が覚めた?」
声のしたほうを見ると、椅子に座っていた男性が立ち上がった。
茶色い髪に、灰色の瞳。
その顔を見た途端、川岸での出来事が少しずつ思い出された。
「……テオドール、様?」
「覚えていてくれたんだね。よかった」
彼は寝台のそばへ来ると、私の顔を覗き込んだ。
「気分はどう? どこか特に痛むところはある?」
「脚と、背中が……」
「まだ動かさないほうがいい。熱もあるからね」
私は頷きかけ、はっとした。
「子供たちは?」
「二人とも元気になってきているよ。食事も取れるようになった」
「本当に……?」
「ああ。今は隣の部屋にいる」
それを聞いて、ようやく息を吐くことができた。
最後に見た二人は、川岸で目を閉じたままだった。あのときは呼びかけても返事がなく、冷たくなった頬の感触が今も指先に残っている。
「……会えますか?」
「もちろん。ただ、君を動かすのはまだ難しいから、こちらへ連れてこよう。その前に少し水を飲もうか」
テオドールは私の頭を支え、小さな器から水を飲ませてくれた。
喉が乾いていたらしく、少し飲んだだけでも楽になった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあ、子供たちを呼んでくるよ」
彼が部屋を出ていくと、私は扉から目を離せなくなった。
ほどなくして、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
「お母様!」
扉が開くなり、オスカーがこちらへ駆け寄ろうとした。
「待って、オスカー。お母さんはまだ怪我をしているから、ゆっくりね」
テオドールに声をかけられ、息子は慌てて足を止めた。
私は右手を伸ばした。
「オスカー……」
「お母様、起きたの?」
「ええ。心配かけたわね」
オスカーは寝台のそばまで来ると、私の手を両手で握った。
「ぼく、ずっと待ってたんだよ」
「そうね。ごめんなさい」
「お母様、痛い?」
「少しね。でも、こうしてお話しできるくらいにはなったわ」
オスカーは私の顔をじっと見つめていたが、やがて俯いた。
「……もう、起きないのかと思った」
握られた手に力がこもる。
私は息子を抱き寄せようとして、身体を動かせないことを思い出した。代わりに頬へ手を伸ばすと、オスカーは自分から顔を寄せてくれた。
「待っていてくれてありがとう」
息子の目から涙がこぼれた。
そのとき、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「おかあさま!」
年配の女性に手を引かれ、リリアが入ってきた。
私の顔を見るなり女性の手を離し、寝台へ駆け寄ってくる。
「リリア!」
「おかあさま、ねんね、おわった?」
「ええ。もう起きたわよ」
「だっこ!」
娘は両手を伸ばした。
いつもならすぐに抱き上げているところだけれど、今はそれができない。
「ごめんね、リリア。お母様、まだ抱っこできないの」
「どうして?」
「怪我をしているからよ。もう少しよくなるまで待っていてね」
リリアは私の身体を見て、それからテオドールを振り返った。
「おかあさま、いたいいたい?」
「そうなんだ。だから、今はそっと手を握ってあげようか」
テオドールが寝台のそばに椅子を寄せると、女性がリリアを座らせてくれた。
娘は私の手を取って、小さな顔を近づけた。
「ふーしてあげる」
そう言って、一生懸命に息を吹きかけてくれる。
「ありがとう。少し楽になったわ」
「ほんと?」
「ええ」
リリアは嬉しそうに笑った。
反対側では、オスカーが私の手を握ったままでいる。
こうして二人の顔を見て、声を聞いて、ようやく安心できた。
「お母様、おなかすいてない?」
オスカーが尋ねた。
「そうね。少しすいたかもしれないわ」
「ぼくたち、さっきスープを食べたんだ。ここの人が作ってくれたの」
「そうなの。おいしかった?」
「うん。リリアもいっぱい食べたよ」
「リリア、おかわりした!」
「まあ、よかったわね」
二人が代わる代わる話してくれるのを聞いていると、テオドールが椅子から立ち上がった。
「そろそろ休ませてあげようか。お母さんはまだ熱があるからね」
オスカーは名残惜しそうに私の手を見た。
「また来てもいい?」
「もちろんよ。お母様も、また二人とお話ししたいわ」
「約束だよ」
「ええ、約束」
オスカーはようやく手を離した。
リリアも女性に抱き上げられながら、何度もこちらへ手を振っていた。
「おかあさま、またね!」
「またあとでね、リリア」
二人の姿が扉の向こうへ消えるまで、私は手を振り返していた。
◇
子供たちが戻ったあと、テオドールは私の傷の状態を確かめ、包帯を取り替えてくれた。
処置の途中で何度か痛みに顔をしかめたものの、彼はそのたびに手を止め、落ち着くのを待ってくれた。
「今日はずいぶん顔色がよくなったよ」
「そうですか?」
「ああ。昨日までは、呼びかけてもほとんど返事がなかったからね」
「……どのくらい、眠っていたんでしょう」
「事故から十二日になる」
「十二日……?」
思っていたよりも長い。
私は窓へ目を向けた。外には雪が積もっている。馬車に乗っていたときの景色とは違うけれど、あの事故からそれほどの日数が過ぎたとは思えなかった。
「子供たちは、いつ目を覚ましたんですか?」
「村へ運んだ翌日だよ。最初は二人とも身体が冷えていたけど、今はずいぶん元気になった」
「そうだったんですね……」
「オスカーは毎日、君がいつ起きるのか聞いていたよ。リリアも、お母さんのところへ行きたいって」
先ほどの二人の様子を思い出した。
私が眠っている間、あの子たちは知らない場所で、どれほど心細かっただろう。
「本当に、お世話になりました」
「まだ治療の途中だから、お礼は元気になってからでいいよ」
テオドールは使い終わった道具を片づけると、椅子を引き寄せた。
「少し聞いてもいいかな。君たちは、どこへ向かっていたんだ?」
「王都から領地へ向かう途中でした」
「護衛の人はいた?」
「はい。騎士たちが同行していました」
「それなら、事故が起きたことは王都にも伝わっているかもしれないね」
私は頷いた。
護衛の騎士たちが無事だったなら、公爵邸へ知らせを届けてくれているはずだ。
ヘルマンも、マルタも、きっと心配している。
そこまで考えて、夫の顔が浮かんだ。
アレクシス様も、知らせを聞いただろうか。
子供たちが行方不明になったと知れば、さすがに捜してくれているのだろうか。
けれど、リリアが生まれたときも、オスカーが熱を出したときも、夫は帰ってこなかった。
今度こそ、と思うたびに、結局同じことを繰り返してきた。
「コルネリア?」
呼ばれて顔を上げると、テオドールがこちらを見ていた。
「すまない。疲れたかな」
「いえ、大丈夫です」
「身内に知らせたい人がいるなら、手紙を届ける方法を考えようと思っているんだ。もちろん、今すぐでなくてもいいよ」
「……少し、考えさせてください」
「分かった」
彼はそれ以上尋ねず、立ち上がった。
「今日はもう休もう。子供たちには、また明日会えるから」
「はい。ありがとうございます」
テオドールが部屋を出ていくと、私は目を閉じた。
公爵邸へ知らせを送れば、夫にも私たちが生きていると伝わるだろう。
それが嫌なわけではない。
ただ、夫が迎えに来ることを当然のように期待している自分に、少し疲れていた。
今は、子供たちのそばにいたい。
それだけは、迷わずに決められた。
◇
事故から十三日目、雪崩の現場で馬車の部品が見つかった。
騎士隊長からの報告を受け取ったヘルマンは、すぐにアレクシスの執務室へ向かった。
「旦那様。現場で、奥様方の馬車のものと確認できる部品が発見されました」
アレクシスは書類から顔を上げた。
「部品?」
「はい。車輪の一部でございます。馬車の修理を担当していた者にも確認を取っております」
「……それで?」
「事故が実際に起きたことを示す証拠でございます。どうか、報告書をご確認ください」
アレクシスは差し出された書類を一瞥した。
「馬車の部品なら、用意しようと思えば用意できるだろう」
「旦那様」
「今は仕事中だ。後にしろ」
ヘルマンはしばらく主人を見つめていたが、書類を引き取った。
この部品が見つかったことで、現場の騎士たちは馬車が落ちた位置を以前より詳しく絞り込めるようになったという。
捜索は進んでいる。
だが、主人の考えだけは変わらなかった。
翌十四日目には、騎士隊長から直筆の手紙が届いた。
手紙には事故当時の状況が詳しく記されていた。騎士隊長は馬車のすぐ後ろを進んでおり、雪崩によって馬車が崖下へ落ちるところを目撃している。
ヘルマンはその手紙を持って、再び主人のもとへ向かった。
「旦那様。護衛隊長からの手紙でございます」
「何だ」
「事故当時の状況が、詳しく記されております。どうか、これだけはお読みください」
アレクシスは差し出された封書を見た。
「……そこに置いておけ」
「必ずお読みいただけますか」
「ああ。後で読む」
ヘルマンは封書を机の上に置いた。
ようやく、読んでもらえる。
そう思っていたが、夕方になっても封は切られなかった。
アレクシスは仕事を終えると、いつものようにセシルの屋敷へ出かけていった。
◇
十五日目の朝。
ヘルマンが執務室へ入ると、昨日の封書は机の端に置かれたままだった。
アレクシスはすでに席に着き、商会から届いた書類を読んでいる。
「旦那様。昨日の手紙はお読みになりましたか」
「まだだ」
「では、今お読みください」
「ヘルマン、何度も言わせるな」
「申し訳ございません。ですが、これ以上は待てません」
ヘルマンは封書を取り上げ、主人の前へ置いた。
「事故から十五日が経っております。現場では騎士たちが危険を冒して捜索を続けていますが、奥様とお子様方はまだ発見されておりません」
「だから、それは――」
「旦那様。どうか、お読みください」
アレクシスは苛立ったように封書をつかんだ。
「読めばいいんだろう」
封を切り、中の手紙を広げる。
最初は面倒そうに文字を追っていたが、読み進めるうちに、手の動きが止まった。
手紙には、雪崩が起きたときの状況が記されていた。
騎士隊長は馬車のすぐ後ろにいた。馬が暴れ、御者が手綱を引いたことも、雪に押された馬車が横転し、そのまま崖下へ落ちていったことも、自分の目で見ている。
事故後に確認できた車輪の跡や、発見された部品についても、詳しい説明が添えられていた。
アレクシスは途中で一度手を止め、最初から読み直した。
「……これは、本当なのか」
「はい」
「コルネリアと子供たちが、馬車に乗ったまま……?」
「そのように報告されております」
アレクシスは手紙を見下ろした。
「……なぜ、もっと早く知らせなかった」
ヘルマンは主人を見つめた。
「最初の知らせが届いた日から、何度もご報告しております」
アレクシスは何も言わなかった。
しばらくして、手紙を机へ置いた。
「捜索はどうなっている」
「現場の騎士たちが続けております。ただ、雪が深く、崖下へ降りることができずにおります」
「人を増やせ」
「はい」
「必要なものはすべて用意しろ。金はいくらかかっても構わない」
「承知いたしました」
「私も現場へ行く。明朝出発するから、準備しておけ」
ヘルマンは一礼した。
「かしこまりました。増員する騎士たちと救援物資の馬車も、同行できるよう手配いたします」
アレクシスは椅子から立ち上がり、机の上に残されていた領地の書類へ目を向けた。
その一番上に、小さな紙が挟まっている。
『領地到着後、橋の管理人と面会予定。オスカーとリリアの防寒具を追加で用意すること』
コルネリアの筆跡だった。
アレクシスはその紙を手に取り、文字を見つめた。
妻は本当に、領地へ向かっていたのだ。
子供たちを連れて。
自分が嘘だと決めつけていた事故は、実際に起きていた。
「……コルネリア」
名前を呼んでも、返事はなかった。
アレクシスは紙を机へ戻すと、ヘルマンへ向き直った。
「必ず見つける」
「……はい」
ヘルマンは頭を下げた。
捜索のために必要なものは、これでようやく揃えられるだろう。だが、騎士たちを集め、物資を積んだ馬車とともに現場へ向かうには、さらに数日かかる。
ヘルマンは主人の出発準備を整えるため、執務室をあとにした。
◇
その日の午後、テオドールが診察を終えたあと、私は少しだけ上半身を起こしてもらった。
彼が背中と肩を支え、傷に負担がかからないよう枕を重ねてくれる。ほんの少し姿勢を変えただけなのに、胸のあたりが痛んで、私は思わず顔をしかめた。
「苦しい?」
「……少し」
「じゃあ、ここまでにしておこう。無理に起きる必要はないからね」
テオドールは枕の位置を調整し、私が楽に呼吸できる姿勢を探してくれた。
「自分では、まだ起き上がれそうにありませんね」
「脚だけじゃなく、肋骨も折れているからね。背中の傷もあるし、今は傷を治すことを優先しよう」
私は頷いた。
事故から十五日も経ったというのに、寝台から起き上がることさえできない。子供たちが来ても抱き締めてあげられず、身の回りのことも人に頼るしかなかった。
「コルネリア。少し、これからの治療について話してもいいかな」
「はい」
テオドールは椅子を引き寄せた。
「君の脚は骨がずれないように固定しているけど、このまま順調に治るかどうか、もっと詳しく診てもらいたいんだ。背中の傷も深いし、今の村では使える薬や道具に限りがある」
「こちらでは、治療が難しいということですか?」
「今すぐどうにかなるという話じゃないよ。ただ、骨の状態を確かめたり、傷の治り具合に合わせて処置を変えたりするには、設備の整ったところのほうがいい」
彼は私の脚を見てから、話を続けた。
「実は、隣国の町に俺の師匠がいるんだ。ここからなら馬車で一日ほどの距離で、骨折の治療にも詳しい。できれば、君をそこへ連れていきたいと思っている」
「隣国に、ですか?」
「ああ。俺自身は普段、隣国の王都で暮らしているんだけど、師匠のところならここからも比較的近いし、君の治療をお願いできると思う」
「でも、こんな状態で馬車に乗れるんでしょうか」
「普通の座席に座って移動するのは無理だね。横になったまま運べるように馬車を整える必要があるし、道中の揺れもできるだけ抑えたい」
テオドールはそこで一度言葉を切った。
「本当なら、もう少しここで休ませてあげたい。ただ、治療のことを考えると、いつまでも村に留まるのがいいとも言い切れないんだ」
「……そうなんですね」
「まず師匠に連絡を取って、受け入れてもらえるか確認する。それから馬車を用意して、出発できる状態かどうかを判断しようと思っているよ」
私はしばらく考えた。
今のままでは、自分で歩くこともできない。子供たちの世話をするにも、誰かの手を借りなければならなかった。
「子供たちも、一緒に行けるんでしょうか」
「もちろん。二人をここに置いていくつもりはないよ」
その返事に、私は安心した。
「それなら、お願いしたいです」
「分かった。じゃあ、明日から準備を進めよう。ただし、君の具合が悪くなるようなら出発は延ばすからね」
「はい。ありがとうございます」
テオドールは頷くと、私の身体を支えながら、ゆっくりと元の姿勢に戻してくれた。
枕に頭を預けたところで、廊下から子供たちの声が聞こえてきた。
「お母様、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
扉が開き、オスカーとリリアが顔を覗かせた。
オスカーは私のそばまで来ると、手にしていた紙を広げた。
「お母様、見て。ぼく、絵を描いたんだ」
「あら、何を描いたの?」
「馬だよ。お母様が買ってくれた木の馬を見ながら描いたんだ」
紙には、四本の脚を大きく広げた馬が描かれていた。背中には鞍らしいものもある。
「上手に描けたわね」
「ほんと?」
「ええ。脚もしっかりしているし、今にも走り出しそう」
オスカーは嬉しそうに笑った。
「リリアもかいた!」
今度はリリアが紙を差し出してきた。
いくつもの丸が並び、その周りに短い線が伸びている。
「これは何かしら?」
「おかあさまと、オスカーと、リリア!」
「まあ、三人を描いてくれたの?」
「うん!」
リリアは私の手に紙を押しつけると、得意そうに胸を張った。
「おかあさま、げんきになったら、いっしょにかこうね」
「ええ。約束よ」
オスカーも隣から頷いた。
「ぼくも一緒に描く」
「もちろん。三人で描きましょう」
私は二枚の絵を見比べた。
オスカーの馬も、リリアの丸い顔も、今の私には何より嬉しい贈り物だった。
テオドールが窓際の机を片づけ、絵を並べてくれた。
「ここなら、寝たままでも見えるかな」
「はい。よく見えます」
子供たちはその机の前に集まり、今度は何を描こうかと相談を始めた。
私は二人の話を聞きながら、テオドールから聞いた隣国の町のことを考えた。
まだどんな場所なのかも分からない。馬車での移動にも不安はある。
けれど、怪我をきちんと治して、また二人と一緒に歩けるようになりたい。
そのためなら、今はテオドールの力を借りようと思った。
窓際では、リリアが新しい紙を広げ、オスカーに何かを描いてほしいと頼んでいる。
私は二人の様子を眺めながら、次はどんな絵ができるのか楽しみに待った。




