第二章 帰らない主人
公爵邸に事故の知らせが届いてから、ヘルマンは帰らない主人に代わり、対応に追われていた。
執務机には現場から届いた報告書が広げられ、隣の机では使用人が救援物資の目録を作っている。毛布や防寒具、食料に医薬品。雪に閉ざされた山道で捜索を続ける騎士たちのため、必要と思われるものはできる限り用意させた。
「ヘルマン様、毛布は予定の数を積み終えました。食料も間もなく揃います」
「医薬品はどうなっていますか」
「薬師から受け取った分は積みました。追加の分は、後続の馬車で運ぶことになります」
「分かりました。準備ができた馬車から順に出してください。全て揃うのを待つ必要はありません」
使用人が一礼して部屋を出ていくと、ヘルマンは再び報告書に目を落とした。
雪崩に巻き込まれた馬車が崖下へ転落し、奥様と二人のお子様の行方が分からなくなっている。護衛の騎士たちが目撃していたものの、崖は今も崩れやすく、川へ降りる道も見つかっていないという。
ヘルマンは机の上に置かれた別の書類を手に取った。そこには、救助に必要な人員と物資について、現場の騎士隊長からの要請が記されていた。
これだけの事故が起きたというのに、主人からは何一つ指示がない。
知らせを持っていった使者は、アレクシスが事故を信じようとしなかったと報告している。ヘルマンはその場で別の使者を送り、今度は自分も直接話をすることに決めた。
「馬車を用意してください。セシル様のお屋敷へ向かいます」
廊下に控えていた使用人が顔を上げた。
「旦那様をお迎えに?」
「ええ。ですが、私が戻るのを待たず、救援物資は出発させてください」
「承知いたしました」
ヘルマンは報告書を封筒に収めると、外套を手に執務室を出た。
セシルの屋敷に着いたときには、すっかり夜も更けていた。
案内された応接室では、アレクシスが長椅子に腰掛けていた。向かいに座るセシルの手には茶器があり、二人の間の小卓には菓子の皿が置かれている。
「ヘルマン? こんな時間にどうした」
アレクシスは眉を寄せた。
「奥様方の事故について、お話がございます」
「その件なら、さっき使いが来た。お前まで何をしに来たんだ」
「旦那様にお戻りいただき、捜索の指揮を執っていただきたいのです」
ヘルマンは持参した封筒を差し出した。
「現場にいた騎士たちの証言がございます。馬車が崖下へ落ちたことは、間違いありません」
「だから、そんな話を信じるなと言っている」
アレクシスは封筒を受け取ろうともしなかった。
「コルネリアが領地へ向かったのは知っている。だが、あいつは何かあるたびに私を呼び戻そうとする。今回もそのつもりだろう」
「奥様がそのようなことをなさるはずがありません」
「お前はいつもコルネリアの肩を持つな」
ヘルマンは言い返しかけたが、唇を結んだ。
今は、過去の出来事について主人と争っている場合ではない。
「旦那様。現場では今も騎士たちが捜索を続けています。救援物資を積んだ馬車は、すでに出発させました。追加の人員も手配しております」
「私に断りもなく?」
「一刻を争う事態ですので」
アレクシスは不快そうに顔をしかめた。
「勝手なことをするな」
「処分は後ほどお受けいたします。ですが、今は奥様とお子様方の救助が先です」
しばらく沈黙が続いた。
その間、セシルは二人の顔を交互に見ていたが、やがて茶器を小卓へ戻した。
「アレクシス様、本当に事故だったら大変ですわ。お子様方もご一緒なのでしょう?」
「セシルまで何を言うんだ。あいつらは無事に決まっている」
「でも……」
「もうこの話は終わりだ」
アレクシスは立ち上がると、ヘルマンへ向き直った。
「捜索を続けたいなら好きにしろ。ただし、私を巻き込むな。コルネリアが戻ったら、今回の騒ぎについてきちんと説明させる」
ヘルマンは主人を見つめた。
報告書を読んでもらうことさえできない。これ以上ここにいても、考えを変えてもらえるとは思えなかった。
「……承知いたしました」
一礼して応接室を出ると、廊下で待っていた使用人が外套を差し出してきた。
ヘルマンはそれを受け取り、屋敷の外へ出た。
迎えの馬車に乗り込む前に、もう一度だけ明かりのついた窓を見上げる。
奥様とお子様方が行方不明だというのに、主人は今夜も帰らないらしい。
ヘルマンは御者に公爵邸へ戻るよう告げた。現場へ送る人員について、まだ決めなければならないことが残っていた。
◇
その前日。
雪崩に巻き込まれた馬車が川へ落ちてから、どれほどの時間が経ったのか、コルネリアには分からなかった。
頬に触れる冷たさで、かろうじて意識が戻った。
耳元では水が流れる音がしている。身体の下にあるのは馬車の座席ではなく、濡れた石と砂だった。
起き上がろうとした途端、右脚に激しい痛みが走った。
「……っ!」
息を吸うだけで胸まで痛み、コルネリアはその場に身体を丸めた。
何が起きたのか考えようとして、腕の中に小さな身体が二つあることに気づいた。
「オスカー……リリア……?」
二人とも目を閉じていた。
オスカーの髪は水に濡れて額へ張りつき、リリアの頬は見たことがないほど白い。コルネリアは震える手で息子の顔に触れ、それから娘の口元へ指を寄せた。
かすかに、息が当たった。
「よかった……」
けれど、呼びかけても二人は目を開けない。
コルネリアは自分の外套を引き寄せようとした。川の水を吸った布は重く、指先も思うように動かない。それでも、せめて子供たちを風から守ろうと、濡れた外套の端を二人の背中へかけた。
「誰か……」
声はひどくかすれていた。
「誰か、助けて……!」
もう一度叫ぼうとしたが、胸が痛んで息が続かなかった。
川の向こうには木々が並び、その奥には雪の積もった斜面が見える。崖の上から落ちてきたのだと、ようやく思い出した。
馬車が大きく揺れ、窓の外が真っ白になったこと。オスカーがリリアを抱き寄せ、自分は二人を覆うように身を伏せたこと。
そこから先は覚えていない。
コルネリアはもう一度、子供たちを抱き寄せた。
そのとき、砂利を踏む音が聞こえた。
「おい! 大丈夫か!」
男の声だった。
顔を上げると、川岸をこちらへ駆けてくる人影が見えた。背負い袋を肩に掛けた若い男で、コルネリアたちの姿を認めると、すぐそばに膝をついた。
「これは……。川から流されてきたのか?」
「子供たちを……助けてください」
「分かった。まず息を確かめる」
男はオスカーとリリアの様子を手早く確認し、続いてコルネリアの腕や脚に目を向けた。
「二人とも息はある。ただ、ひどく冷えている。早く暖かい場所へ運ばないと」
男がリリアを抱き上げようとすると、コルネリアは反射的に娘を引き寄せた。
「待って……」
「大丈夫だ。俺は薬師だ。近くの村まで運ぶだけだから」
男はコルネリアの目を見て、ゆっくりと言った。
「あなたも一緒に連れていく。子供たちだけを置いていったりしない」
コルネリアはその言葉を聞いて、ようやく腕の力を緩めた。
「……お願いします」
男は頷くと、首から下げていた笛を取り出した。
短い音が三度、川岸に響いた。
「村の者を呼んだ。すぐに来る」
そう言って自分の外套を脱ぎ、子供たちの上にかける。
「名前を聞いてもいいか?」
「コルネリア……です」
「俺はテオドール。コルネリア、少しだけ頑張ってくれ」
テオドールはコルネリアの濡れた髪を顔から払い、怪我の様子を確かめた。右脚は不自然な角度に曲がっており、背中の衣服にも血が滲んでいる。
胸を押さえて呼吸する様子から、肋骨にも怪我があるのだろう。
無理に動かすわけにはいかなかった。
やがて、木立の向こうから人の声が聞こえてきた。
「テオ! どうした!」
「怪我人が三人だ! 子供が二人いる。村から担架を持ってきてくれ!」
駆けつけた男たちが川岸の惨状を見て足を止めたが、テオドールが指示を出すと、すぐに動き始めた。
コルネリアはその様子をぼんやりと見つめていた。
リリアが毛布に包まれ、続いてオスカーが抱き上げられる。
二人とも連れていってもらえる。
それを確かめたところで、コルネリアの意識は再び遠のいた。
◇
村へ運び込まれた三人を待っていたのは、暖炉の火が燃える小さな家だった。
テオドールは村人たちに指示を出し、まず濡れた衣服を脱がせて身体を拭かせた。子供たちには乾いた寝間着を着せ、毛布で包んでから、少しずつ身体を温めていく。
リリアの手足は氷のように冷たく、呼吸も弱かった。
テオドールは寝台のそばに腰を下ろし、何度も脈と呼吸を確かめた。
「この子たちは大丈夫なのかい?」
手伝っていた村の女性が尋ねた。
「まだ安心はできない。急に温めすぎないように気をつけてくれ。呼吸の様子も見ていてほしい」
「分かったよ」
隣の寝台では、オスカーが眠っていた。額に小さな傷はあるものの、目立った出血はない。こちらも身体の冷えがひどく、しばらくは注意が必要だった。
そして、コルネリア。
右脚は骨折しており、肋骨にも損傷がある。背中には深い傷があり、衣服を脱がせると、村の女性が思わず息を呑んだ。
「こんな怪我で、あの川を……」
「今は傷の手当てを先にしよう。清潔な布と湯を頼む」
テオドールは必要な道具を並べながら、コルネリアの様子を確認した。
意識は戻らず、熱も奪われている。
身体を動かさないよう慎重に処置を進め、骨折した脚を固定し、傷を手当てした。
ようやく一段落した頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「テオ、少し休んだらどうだい。朝からずっと動いているじゃないか」
女性が温かい飲み物を差し出してきた。
「ありがとう。でも、今夜は三人のそばにいるよ」
「それなら、私も残るよ。何かあったら呼んでおくれ」
テオドールは礼を言って杯を受け取った。
三つの寝台には、川岸で見つけた親子が眠っている。
子供たちの身体は少しずつ温かさを取り戻していたが、母親の容体はまだ厳しい。
テオドールは杯を置き、コルネリアの脈を確かめた。
◇
翌朝、公爵邸ではヘルマンが新たに届いた報告書を読んでいた。
現場の騎士たちは崖下へ降りる道を探しているものの、雪崩の危険が残っているため、思うように捜索が進んでいないらしい。川沿いにも人を向かわせているが、深い谷と雪に阻まれ、下流まで調べるには時間がかかるという。
ヘルマンは報告書を机に置いた。
昨日送り出した救援物資が現場へ届くのも、まだ先になる。途中の宿場にも協力を頼んであるが、積荷を抱えた馬車は急使のようには進めない。
「執事長」
顔を上げると、扉のところにマルタが立っていた。
「奥様方のことは、何か分かりましたか」
「残念ながら、まだ発見されたという知らせはありません」
「……そうですか」
マルタは両手に抱えていた布を見下ろした。
リリアが普段使っていた小さな膝掛けだった。
「これ、出発の前に洗っておいたんです。お帰りになったら、また使っていただこうと思って」
ヘルマンは膝掛けに目を向けた。
「奥様は、領地での仕事が済めば戻られるご予定でしたからね」
「はい。リリアお嬢様とも、お人形の服を一緒に作りましょうって約束したんです。オスカー様には、雪遊び用の手袋を編んで差し上げるつもりで……」
マルタは途中で言葉を止めた。
「まだ、何も作っていないんです」
ヘルマンは椅子から立ち上がった。
「では、今のうちに用意しておいてはいかがですか」
マルタが顔を上げる。
「奥様方が戻られたとき、約束を果たせるように」
「……はい」
マルタは膝掛けを抱き直した。
「そうします。きっと、お二人とも喜んでくださいますよね」
「ええ」
マルタが部屋を出ていくと、ヘルマンは机に戻った。
報告書の隣には、今朝届いた物資の追加要請が置かれている。
ヘルマンは新しい用紙を引き寄せ、必要な品を書き出し始めた。
◇
オスカーが目を覚ましたのは、村へ運ばれた翌朝だった。
見知らぬ天井を見上げ、しばらく瞬きを繰り返していたが、隣から聞こえる物音に気づいて顔を向けた。
「……お母様?」
声を聞いたテオドールが、すぐに寝台へ近づいた。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
「ここ……どこですか?」
「川の近くの村だよ。君たちが倒れているところを見つけて、ここへ運んだんだ」
オスカーは少し考え込んだあと、勢いよく起き上がろうとした。
「お母様とリリアは?」
「二人ともここにいる。急に起きると危ないから、ゆっくりな」
テオドールが身体を支えると、オスカーは隣の寝台に横たわるリリアを見つけた。
「リリア……」
「妹さんだね。まだ眠っているけど、呼吸は落ち着いてきたよ」
「お母様は?」
テオドールは部屋の奥を指した。
「向こうで休んでいる。怪我をしているから、今は眠らせてあげよう」
「怪我……?」
「脚や背中を痛めているんだ。手当てはしたけれど、しばらく安静にしないといけない」
オスカーは母親の寝台を見つめた。
「ぼく、お母様のところに行ってもいいですか」
「もう少し身体が温まってからにしよう。今は君も休まないと」
「でも……」
「顔を見たいんだよね。少し休んで、ちゃんと起きられるようになったら連れていくよ」
オスカーは迷うようにリリアを見て、それから小さく頷いた。
「……分かりました」
テオドールは水の入った杯を差し出した。
「まずは少し飲んでみようか」
オスカーは両手で杯を受け取り、ゆっくりと口をつけた。
水を飲み終えると、また母親の寝台へ目を向けた。
「お母様、起きますよね?」
テオドールは答える前に、奥の寝台を見た。
「怪我は重い。でも、できる限りの手当てをしているよ」
オスカーは杯を握ったまま俯いた。
「ぼく、リリアを守ろうとしたんです。でも、馬車が落ちて……」
「うん」
「そのあとは、覚えてなくて」
「そうか。怖かったね」
オスカーは首を横に振った。
「お母様が、ぼくたちを抱いてくれたんです」
テオドールは川岸で見つけたときの三人の姿を思い出した。
「そうだったんだね」
オスカーはしばらく黙っていたが、やがて毛布の端を握り直した。
「ぼく、もう大丈夫です。だから、リリアが起きたら教えてください」
「もちろん」
テオドールが頷くと、オスカーはようやく枕に頭を戻した。
◇
リリアが目を覚ましたのは、その日の午後だった。
最初に気づいたのは、隣の寝台で休んでいたオスカーだった。
「リリア?」
妹がもぞもぞと動き、毛布の中から顔を出した。
「……おにいさま?」
「うん。ぼくだよ」
リリアは周囲を見回した。
見慣れない部屋に、知らない家具。暖炉の前には知らない大人が座っている。
「おかあさまは?」
「ここにいるよ。怪我をして、今は寝てるんだ」
「おかあさま……」
リリアの目に涙が浮かんだ。
「おかあさま、どこ?」
「向こうだよ。ほら、あそこ」
オスカーが指さしても、リリアは寝台から母親の顔を見ることができなかった。
「おかあさまのところ、いく」
毛布を押しのけようとしたところへ、テオドールが近づいてきた。
「起きたんだね。身体は痛くない?」
リリアは答えず、オスカーのほうへ手を伸ばした。
「おにいさま、おかあさま……」
「大丈夫。お母様はちゃんといるよ」
オスカーは妹の手を握った。
「ぼくもまだ会えてないけど、ここにいるって。だから、一緒に待とう」
リリアは鼻をすすりながら、兄の顔を見つめた。
「いっしょ?」
「うん。ぼくもここにいるから」
テオドールは二人の様子を見てから、椅子を寝台のそばへ運んだ。
「お母さんのところへは、もう少し元気になってから行こう。それまでは、お兄さんと一緒にいようね」
リリアは涙を拭い、こくんと頷いた。
しばらくして、村の女性が温かいスープを運んできた。
「二人とも、少し食べられそうかい?」
「ぼくは大丈夫です」
オスカーが答えると、リリアも兄の真似をして頷いた。
女性は二人の前に小さな器を置き、食べやすいようにスプーンを添えた。
リリアは一口飲むと、少し驚いたように目を丸くした。
「あったかい」
「そうだね。ゆっくり食べよう」
オスカーが言うと、リリアはもう一口スープを飲んだ。
その様子を見ていたテオドールは、棚の上に置いていた包みを手に取った。
「そうだ。これは君のものかな?」
包みを開くと、中から布の人形が出てきた。
川岸で見つけたとき、コルネリアたちの近くに引っかかっていたものだった。濡れて泥だらけになっていたため、村の女性が洗って乾かしてくれたのだ。
「あ!」
リリアが声を上げた。
「わたしの!」
「やっぱりそうか。はい、どうぞ」
テオドールが差し出すと、リリアは両手で人形を受け取り、胸に抱き締めた。
「おにいさま、いた!」
「よかったね、リリア」
「うん!」
オスカーも嬉しそうに笑った。
テオドールは二人の食事が進むのを確かめると、部屋の奥へ目を向けた。
コルネリアはまだ目を覚まさない。
子供たちが起きたことを伝えられるのは、もう少し先になりそうだった。




