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もうあなたの帰りは待ちません  作者: はてな小僧


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第一章 娘の誕生日

「おとうさま、きょうはかえってくる?」


 朝食の席でそう尋ねたのは、今日で三歳になる娘のリリアだった。


 小さな手でパンをちぎりながら、期待に満ちた目を私に向けている。


「昨日、お父様はお仕事があるとおっしゃっていたでしょう?」


「でも、おたんじょうび」


「そうね。今日はリリアのお誕生日ね」


 私が答えると、リリアは隣に座る兄のオスカーを見た。


「おにいさま、ケーキ!」


「うん。料理長が大きいのを作ってくれるって。苺もいっぱいだってさ」


「いちご!」


 リリアは嬉しそうに笑い、またパンをちぎり始めた。


 六歳のオスカーは妹の世話を焼くのが好きで、今朝も自分の食事より先に、リリアの皿へ果物を取り分けていた。


 その姿を見ながら、私は昨夜の夫との会話を思い出していた。


『明日はリリアの誕生日です。夕食だけでもご一緒できませんか』


『明日はセシルのところへ行く』


『先週も、その前の週もいらしたでしょう。リリアはずっと楽しみにしているんです』


『セシルは昨日から熱を出している。そんなときに放っておけるわけがないだろう』


『では、お医者様は何と?』


『いつものことだ。しばらく安静にするようにと言われている』


『それなら、夕食の時間だけでも――』


『コルネリア。何度同じ話をさせるつもりだ』


 そこで会話は終わった。


 夫のアレクシスは、私が十歳で婚約したときから変わっていない。


 公爵家の資金繰りが悪化し、父の侯爵家からの援助を条件に成立した婚約だった。三歳年上の婚約者は、初めて顔を合わせたときから、幼馴染のセシルを何より大切にしていた。


 病弱なセシルを気遣うこと自体は悪いことではない。私も幼いころは、体の弱い友人を大切にする優しい人なのだと思っていた。


 けれど、約束を破られた回数が増えるにつれ、その考えは変わっていった。


婚約者との約束なら、破っても構わない。


結婚してからは、妻との約束なら破っても構わない。


そして子供が生まれると、妻子との約束なら破っても構わない、になった。


「お母様?」


 オスカーに呼ばれ、私は顔を上げた。


「どうしたの?」


「今日、お父様は来ないんでしょう?」


 その言葉に、パンを口へ運ぼうとしていたリリアの手が止まった。


「こない?」


「オスカー」


 私が声をかけると、息子は少し困ったように眉を寄せた。


「だって、昨日お父様が言ってたよ。セシル様のところに行くって」


「……そうね。今日は難しいかもしれないわ」


「じゃあ、明日は?」


「明日のことは、まだ分からないの」


 リリアはしばらく私を見つめていたが、やがて皿の上の果物を一つつまんだ。


「じゃあ、おかあさまと、おにいさまと、ケーキたべる」


「もちろんよ。今日はリリアの好きなものをたくさん用意してもらいましょうね」


 そう言って笑いかけると、娘もようやく笑った。


 けれど、オスカーは何も言わなかった。


 この子はもう、父親が約束を守らないことを知っている。


 六歳の子供に、そんなことを覚えさせたくはなかった。


 朝食を終えたあと、私は執務室へ向かった。


 机には領地から届いた報告書と、今月の支払いに関する書類が積まれている。公爵家の財政は以前ほど逼迫していないものの、余裕があるとは言い難かった。


 婚約当時の援助だけでなく、結婚後も実家の侯爵家から資金が入っている。領地の収益を増やすため、私も帳簿の確認や事業の見直しを続けてきた。


「奥様、少々よろしいでしょうか」


 扉を叩いたのは執事長のヘルマンだった。


「どうぞ」


「本日の晩餐について、料理長から確認がございます。旦那様のお席はいかがいたしましょう」


「用意しなくて結構よ。今日はお戻りにならないそうだから」


「かしこまりました」


 ヘルマンは一礼したものの、すぐには部屋を出なかった。


「何かほかに?」


「……リリアお嬢様は、旦那様のお帰りを楽しみにしておいででした」


「ええ。今朝も聞かれたわ」


「左様でございましたか」


 ヘルマンは私が嫁いできたときから公爵家に仕えている。オスカーが生まれたときも、リリアが生まれたときも、屋敷を取り仕切ってくれていた。


 特にリリアの出産のときには、ずいぶん心配をかけた。


 一人目の出産が難産だったため、二人目も長引くのではないかと案じたヘルマンが、セシルの屋敷にいた夫へ使いを出したのだ。


 ところが、リリアは驚くほど順調に生まれた。


 夫が帰宅したのは、その数時間後だった。


『もう生まれたのか』


 寝台の傍らに立った夫は、娘の顔を見るより先にそう言った。


『はい。おかげさまで母子ともに無事でございます』


 ヘルマンが答えると、夫は露骨に顔をしかめた。


『それなら、そんなことで呼び戻すな。セシルの具合が悪いというのに、わざわざ帰ってきたんだぞ』


 私は生まれたばかりの娘を抱きながら、その言葉を聞いていた。


 出産を知らせることが、そんなことなのだろうか。


 言い返そうとした私より先に、ヘルマンが口を開いた。


『旦那様。使いを出したのは私の判断でございます。奥様は何もお命じになっておりません』


『お前が勝手に判断するはずがないだろう』


『いえ、私が――』


『もういい。次からは余計なことをするな』


 夫はそれだけ言って部屋を出ていった。


 あのときヘルマンが見せた表情を、私は今でも覚えている。


「ヘルマン」


「はい」


「今夜は、みんなで楽しい食事にしましょう。リリアに寂しい思いをさせたくないの」


「承知いたしました。料理長にも、そのように伝えてまいります」


 今度こそ一礼して退出する執事長を見送り、私は机の書類へ視線を戻した。


 今日は娘の誕生日だ。


 夫がいないことを嘆いて過ごすより、娘が喜ぶことを考えたかった。


     ◇


 夕食の時間になると、食堂にはリリアの好きな料理が並んだ。


 料理長が腕を振るった苺のケーキは、三歳の娘には少々大きすぎるほどだったが、リリアは目を輝かせていた。


「おかあさま、みて!」


「まあ、素敵ね」


「リリア、まだ触っちゃだめだよ。蝋燭を消してからだって」


「ふーする!」


 オスカーが得意げに教えると、リリアは一生懸命に頬を膨らませた。


 侍女たちも笑いをこらえている。


 私は二人の子供に挟まれながら、その様子を眺めていた。


 オスカーに教わりながら蝋燭を吹き消したリリアは、切り分けられたケーキの苺を真っ先に口へ運んだ。兄の皿にも苺があることに気づくと、自分の皿と見比べ始めたので、オスカーが笑いながら一つ分けてくれた。


 食事が終わり、子供たちを寝室へ送り届けたあと、私は再び執務室に戻った。


 明日から数日間、領地へ向かう予定になっている。


 冬のあいだに確認しておきたい施設があり、領地の管理人とも話をすることになっていた。子供たちを連れていくのは、しばらく王都を離れて気分を変えさせたかったからでもある。


 護衛の騎士たちには事前に道の状況を確認してもらっており、今のところ通行に支障はないという報告だった。


 出発の準備についてヘルマンと最終確認をしていると、廊下から足音が聞こえた。


 扉が開き、夫が入ってきた。


「まだ起きていたのか」


「ええ。明日の出発について確認していましたので」


「領地へ行くのだったな」


「はい。以前にもお伝えしましたが、子供たちも一緒です」


「好きにすればいい」


 夫は机に置かれた書類を一瞥すると、上着を脱いで椅子に掛けた。


「リリアの誕生日は終わったのか」


「……ええ。もう寝ています」


「そうか」


 夫はそれ以上何も言わず、書類を手に取った。


「アレクシス様」


「何だ」


「リリアは、あなたが帰ってくるのを楽しみにしていました」


「昨日、行けないと伝えただろう」


「まだ三歳なんです。昨日言われたからといって、今日になれば納得できるわけではありません」


「それで?」


「せめて明日の朝、出発前に顔を見せてあげてください」


 夫は書類から目を離し、こちらを見た。


「またその話か」


「子供たちのことです」


「私がセシルのところへ行くたびに、お前は同じことを言うな」


「セシル様のところへ行くことを責めているのではありません。子供たちとの約束も大切にしてほしいと申し上げているんです」


「セシルは病気なんだ。元気な子供たちとは違う」


 私は一度口を開きかけたが、結局何も言わずに書類をまとめた。


「明日は朝から出かける。見送りはできない」


「分かりました」


「それと、領地に着いたら連絡を寄越せ」


「はい」


 夫が部屋を出ていったあと、私は机に残った書類を片づけ、ヘルマンが用意してくれた旅程表をもう一度確認した。


 明日は早い。


 子供たちが馬車の中で退屈しないよう、持っていく絵本も確かめておこう。


     ◇


 翌朝、夫の姿はなかった。


 オスカーは父親の部屋が空だと知ると、少しだけ唇を尖らせたが、何も言わなかった。


 リリアは昨夜の誕生日がよほど楽しかったらしく、朝から苺のケーキの話ばかりしていた。


「おかあさま、またケーキたべたい」


「また今度ね。今日は馬車の中でお菓子を食べましょう」


「やった!」


 子供たちの外套を整えていると、ヘルマンが玄関まで見送りに来た。


「奥様、道中はどうぞお気をつけください」


「ありがとう。屋敷のことはお願いね」


「お任せください」


 ヘルマンは子供たちにも一人ずつ声をかけた。


「オスカー様、リリアお嬢様。どうかお母様のお言いつけをよくお守りくださいませ」


「うん!」


「はーい!」


 元気な返事に、執事長の顔がほころんだ。


 私たちは馬車に乗り込み、王都を出発した。


 最初の数日は順調だった。


 途中の宿場町では子供たちと市場を歩き、オスカーには木彫りの小さな馬を、リリアには布で作られた人形を買った。


 領地へ近づくにつれ、窓の外には雪をかぶった山々が見えるようになった。


 四日目の朝、護衛隊長が馬車の窓を叩いた。


「奥様。本日は山道を通ります。昨夜の雪で足元が悪くなっておりますので、少々揺れるかと存じます」


「分かりました。よろしくお願いします」


「はい。何かございましたら、すぐにお声がけください」


 馬車が動き出すと、オスカーは窓の外を眺めながら、雪の積もった木々を数え始めた。


 リリアは私の膝に座り、買ったばかりの人形を抱いている。


「おかあさま、ゆき!」


「ええ。きれいね」


「おにいさま、みて!」


「見てるよ。あっちの木のほうがもっと白いよ」


 二人の声を聞きながら、私は外套の裾を直した。


 そのときだった。


 遠くで、低い音がした。


 最初は雷かと思った。


 けれど、音はすぐに大きくなり、地面を揺らすような響きへと変わっていった。


「止まれ!」


 外から騎士の怒鳴り声が聞こえた。


 馬車が急停止し、リリアが私の胸に倒れ込む。


「お母様?」


 オスカーが不安そうに顔を上げた。


 私は窓の外を見た。


 山の斜面を、白いものが猛烈な勢いで下ってきていた。


「雪崩だ! 馬車を――!」


 騎士の声が途中で途切れた。


 馬が激しくいななき、馬車が大きく傾く。


 私は反射的にリリアを抱き寄せ、オスカーの腕をつかんだ。


「二人とも、私につかまって!」


 次の瞬間、凄まじい衝撃が馬車を襲った。


 窓が割れ、冷たい風と雪が吹き込んでくる。


 オスカーの体が浮き上がりそうになり、私は必死に引き寄せた。


「お母様!」


「離れないで!」


 馬車が横倒しになった。


 何かが折れる音がしたかと思うと、今度は足元がなくなったような感覚に襲われた。


 落ちている。


 そう理解したときには、もうどうすることもできなかった。


 私は二人の頭を胸に押しつけ、自分の体で包み込んだ。


 どうか、この子たちだけは。


 激しい衝撃とともに、全身に痛みが走った。


 息ができない。


 冷たい水が顔にかかり、私は目を開けようとした。


 馬車の壁が壊れ、すぐそばに黒い水面が見えていた。


 オスカーが泣いている。


 リリアも何か叫んでいた。


 私は二人を抱き締め直した。


 手を離してはいけない。


 それだけを考えていた。


 やがて体が水に沈み、耳元で聞こえていた子供たちの声も、川の音にかき消された。


     ◇


 コルネリアたちが王都を出発してから五日目の夜、王都のセシルの屋敷では、アレクシスが暖炉の前で紅茶を飲んでいた。


「今日はお帰りにならなくてもよろしいの?」


 長椅子に腰掛けたセシルが、薄い肩掛けを直しながら尋ねた。


「ああ。急ぎの仕事もないからな」


「それなら、もう少しご一緒できますわね」


 セシルが嬉しそうに微笑むと、アレクシスも表情を和らげた。


「子供たちの誕生日にも来なかったと、ずいぶん言われたよ」


「まあ……。私のせいですわね」


「君が気にすることではない」


 セシルは目を伏せた。


 そのとき、廊下が騒がしくなった。


 扉の向こうで使用人が何かを言い、続いて慌ただしい足音が近づいてくる。


「何事だ」


 アレクシスが眉をひそめたところで、扉が開いた。


「アレクシス公爵閣下! 至急、お戻りください!」


 飛び込んできたのは、公爵家で使者を務める男だった。屋敷からの連絡を届けるため、これまでにも何度となくセシルの屋敷を訪れている。


 男は息を切らし、雪と泥で汚れた外套のまま膝をついた。


「またお前か。今度は何だ?」


「奥様方の馬車が、山道で雪崩に巻き込まれました!」


 アレクシスはカップを置いた。


「……何?」


「馬車が崖下へ転落し、奥様とお子様方の安否が確認できておりません! 公爵邸に護衛隊から報告が届き、ヘルマン様のご指示でこちらへ参りました!」


 使者の声が震えていた。


 セシルが小さく息をのむ。


 アレクシスはしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。


「今度は雪崩か」


「閣下?」


「コルネリアも、ずいぶん大掛かりなことをするようになったな」


 使者は意味が分からないという顔をした。


「何をおっしゃっているのですか。騎士たちが実際に転落を目撃しております!」


「以前も同じようなことがあった」


 アレクシスの脳裏に浮かんだのは、長男が高熱を出したときのことだった。


 命が危ないと使いが来たため、彼は予定を切り上げて帰宅した。ところが屋敷に着いてみれば、息子は普通に眠っているだけだった。


 あのときも、コルネリアは大げさに騒いで自分を呼び戻したのだ。


 今回も同じに違いない。


「騎士たちまで巻き込んだのか。まったく、困ったものだ」


「閣下! これは事実でございます!」


「もういい。帰ってコルネリアに伝えろ。こんなことをしても、私は言いなりにはならないとな」


「ですが、奥様方は行方が分からず、護衛隊も捜索を続けております。どうか一度、公爵邸へお戻りください!」


「下がれ」


 男がなおも何か言おうとすると、アレクシスは苛立ったように声を強めた。


「聞こえなかったのか」


 使者は唇を震わせ、深く頭を下げた。


 扉が閉まると、セシルがおずおずと口を開いた。


「本当に、何もなければよろしいのですけれど……」


「心配することはない。リリアの誕生日のことを根に持って、みんなを巻き込んで嘘をついているだけだろう」


「そう、ですわね」


 セシルは膝の上で手を重ねた。


 アレクシスが自分のために妻のもとへ帰らなかったことが、嬉しかった。


 ただ、今度ばかりは少々騒ぎが大きい。


 もし本当に事故だったら。


 そんな考えが一瞬よぎったものの、セシルはすぐに打ち消した。


 アレクシスがこれほど落ち着いているのだから、きっと大したことではないのだろう。


 彼女は微笑んで、菓子皿をアレクシスの前へ差し出した。


「お茶が冷めてしまいますわ」


 アレクシスは何事もなかったように、菓子を一つ取った。


 そのころ、遠く離れた山の麓では、騎士たちが雪に埋もれた崖を見下ろしていた。


 崖下からは川の音が聞こえていたが、雪崩の跡はまだ崩れ続けており、誰も近づくことができなかった。


 馬車の姿も、三人の姿も見えない。


 ただ、雪の上に残された車輪の跡だけが、途中で途切れていた。


 騎士隊長は唇を噛み締め、部下たちに命じた。


「もう一度、王都へ使いを出せ。現場の状況を詳しく伝え、公爵閣下に捜索の指示を仰ぐんだ」


「承知しました!」


 返事をした騎士が馬に飛び乗った。


 その背を見送りながら、隊長は再び崖下を見つめた。


 せめて、子供たちだけでも。


 祈るような気持ちで目を凝らしたが、深い谷から返ってくるのは、冷たい川の音ばかりだった。


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