第82話 借りた名前
翌日。
喫茶店。
午後六時すぎ。
榊。
久世。
私。
昨日。
撮った写真。
机。
青いノートの。
圧痕。
〈1989.8.11〉
〈名前を決めた〉
〈富樫十兵衛〉
〈本人ではない〉
榊。
見る。
「俺じゃない、は分かります」
「そこじゃない」
久世。
「次に来る者を、そう呼ぶ」
「はい」
「仮の名が必要だった」
「はい」
私は。
コーヒー。
飲む。
「何で富樫十兵衛」
二人。
黙る。
久世。
鞄。
資料。
出す。
「一件だけ、似たものがありました」
「何」
「図書館の古い貸出票」
「貸出票?」
「一九八九年八月」
時代劇小説。
題名。
知らない。
著者。
知らない。
登場人物一覧。
脇役。
一人。
〈富樫十兵衛〉
私は。
しばらく。
見る。
「これ?」
榊。
「可能性はあります」
「こんな適当?」
久世。
「仮名なら、重要そうな名前を避けることもあります」
「俺の名前」
「はい」
「時代劇の脇役」
「はい」
腹。
立つ。
少し。
榊。
笑う。
「ヒーローじゃなかったですね」
「最初から違う」
でも。
少し。
楽。
予言。
血。
運命。
そういうものでは。
なさそう。
「ただ」
久世。
指。
止める。
「一つ残ります」
「何」
「現代のあなたの名前も、富樫十兵衛」
それ。
昨日から。
残っている。
「父親」
私。
「名付けたのは」
「はい」
「時代劇好きだった」
榊。
「同じ小説を読んだ?」
「分からない」
「確認は」
「できない」
父。
もう。
いない。
蔵書。
ほとんど。
処分した。
母。
覚えているか。
たぶん。
聞けば。
何か。
出るかもしれない。
私は。
スマホ。
出す。
止める。
久世。
「聞かないんですか」
「今は」
「なぜ」
「答えが出そうだから」
榊。
「普通は逆では」
「出そうな答えほど」
私は。
写真。
見る。
「飛びつきたくなる」
久世。
少し。
笑う。
「それ、富樫さんらしいですね」
「褒めてる?」
「半分」
榊。
「残り半分は」
「面倒です」
知ってる。
私は。
資料。
もう一度。
見る。
脇役。
富樫十兵衛。
物語の中で。
何をした。
久世。
「一話だけです」
「死ぬ?」
「生きてます」
「活躍」
「ほとんどしません」
榊。
また。
笑う。
「ますますいいですね」
「何が」
「選ばれた感じがしない」
私。
コーヒー。
飲む。
「それはいい」
外。
駅前。
夕方。
人。
流れる。
会社帰り。
学生。
買い物。
誰も。
自分の名前が。
三十年以上前の。
仮名だったなんて。
考えていない。
たぶん。
それで。
普通。
会計。
店。
出る。
古い時計。
十八時十七分。
目。
入る。
少し。
止まる。
でも。
見続けない。
数字。
理由。
付けない。
歩く。
榊。
「富樫さん」
「何」
「結局、その名前」
「うん」
「どう思います」
私は。
少し。
考える。
「借り物かもな」
久世。
「嫌ですか」
「別に」
「なぜ」
「今は俺の名前だから」
それだけ。
で。
よかった。
運命ではなかった。それでも、偶然だと言い切るには少しだけ残った。




