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第八話 東京へ

それから数日、何も起きなかった。


壁に染みは出ない。午前二時十三分に目を覚ますこともない。会社のファックスから白紙が吐き出されることもなかった。


スーパーの裏にも行っていない。


あの真鍮の鍵は机の一番下の引き出しへ入れた。古いファックスも、森山の名刺も一緒だ。引き出しを閉めてしまえば、ただの家具だった。


私は会社へ行った。仕事をして、スーパーへ寄って、アパートへ帰った。それだけだった。


月曜日、佐伯が見積書の数字を一桁間違えた。


「八十万が八百万になってます」


「うわ」


「うわ、じゃないでしょう」


以前なら「一応確認してもらえますか」と言っただろう。今は違うものは違うと言える。


火曜日、倉庫の在庫が二個合わなかった。石井と十五分探し、一段上の別商品に紛れているのを見つけた。


水曜日、小野寺が夏風邪で休んだ。彼女が一人いないだけで、ブラインドもポットも郵便も少しずつ止まった。ファックス用紙の予備を三十分探し、給湯室のインスタントコーヒーの隣で見つけた。


木曜日、木曜と金曜だけ勤務するアルバイトの山根さんが来た。五十八歳、小柄で、老眼鏡を首から下げている。


「あら。思ったより普通の人ですね」


「何と比べてます?」


「別に」


昼には彼女の漬けたきゅうりを皆で食べた。


金曜日、本社から月例の管理職会議に出るよう連絡があった。


私は管理職だったらしい。忘れかけていた。


翌週、久しぶりに東京へ戻った。


田んぼ、低い家、資材置き場、川。それが電車の窓の外で住宅、マンション、工場、高架、ビルへ変わっていく。東京へ近づくほど景色から隙間が消えた。


本社十二階。


以前同じ部署だった高橋に会った。


「地方どう?」


「ファックスが元気」


「何それ」


「毎日鳴ってる」


「昭和だな」


給湯室で紙コップのコーヒーを飲む。


「ちょっと変わったな」


「何が」


「喋るようになった」


小野寺にも似たようなことを言われた。


管理職会議では、三崎物産の前年在庫の転記ミスを私が見つけた。以前なら関係のないページなど読み飛ばしていた。


会議後、昔の上司に聞いた。


「俺の前任って誰でした?」


「ああ、森山さんじゃなかったか」


「森山孝一? 営業部長ですよね」


「あれ、そうだったかな」


「俺、赴任するときに『向こうの課長が辞めるから』って言われましたよね」


「そんなこと言った?」


何かを隠している顔ではなかった。本当に覚えていないようだった。


社員食堂で総務の田所と会った。


「森山さん、知ってるんですか」


「知ってるよ。昔、本社にいた」


「どんな人でした?」


「普通。真面目。静か。あんまり喋らない。昔のお前みたいな感じだったよ」


そして森山は煙草を変な吸い方をしていたという。


火をつけて灰皿に置く。吸い終わる前に次へ火をつける。だが、本人はほとんど吸わない。


「何のために?」


「昔聞いたことあるけど、煙があった方が分かるとか言ってたな」


「何が?」


「そこまでは知らん」


帰りの電車で鞄を確認すると、机の引き出しへ入れたはずの真鍮の鍵が入っていた。


203。


いつ入れたのか、思い出せなかった。


その夜も壁は白かった。


翌朝も会社は普通だった。


私は少しずつこの町の道を覚え、スーパーの値引き時間を覚え、部下の癖を覚えた。


怪異を忘れたわけではない。


ただ、引き出しを開けない夜がしばらく続いた。


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