第七話 スーパーの裏
翌朝。
鍵を机の上に置いた。
真鍮製。
黒ずんでいる。
小さな金属板。
203。
昨夜から、何度見ても変わらない。
私はコーヒーを飲みながら考えた。
二〇三号室。
私の部屋。
会社の応接室で見つけた鍵。
そして森山の名刺。
〈二〇三号室 使用不可〉
普通に考えれば。
私のアパートのことだ。
しかし。
それでは少し出来すぎている。
私は鍵を持って立ち上がった。
玄関。
鍵穴を見る。
試す。
入らない。
「……だよな」
少し安心した。
もし開いていたら、どうしていいか分からなかった。
*
会社へ向かう。
朝七時五十三分。
県道。
高校生。
自転車。
蝉。
向かいのコインランドリー白鳥。
色褪せたクリーニング店。
そしてスーパー。
〈フレッシュマートみなみ〉
私は毎日通っているくせに、店の名前を初めて意識した。
地方によくあるスーパーだ。
平屋。
駐車場は四十台ほど。
入口には赤と白ののぼり。
朝九時開店。
まだシャッターは閉まっている。
裏側。
搬入口。
トラックが一台停まっていた。
私は足を止めた。
なぜか。
見た。
搬入口の奥。
建物の裏手に。
小さなプレハブ倉庫がある。
灰色。
錆びた屋根。
扉。
南京錠。
距離は二十メートルほど。
当然、番号など見えない。
なのに。
気になった。
「……まさかな」
私は会社へ向かった。
*
午前中。
電話。見積。発注。
仕事は以前より速く片づいた。
佐伯が書類を持ってくる。
「課長、北辰の追加分です」
見る。
数量。
単価。
納期。
三秒ほど。
「これ、単価違います」
「え?」
「前回より四十円高い」
佐伯が書類を見る。
「ほんとだ」
「先方に確認してください。原材料改定なら通知があるはず」
「分かりました」
まただ。
私は指示をする。
佐伯が動く。
以前なら「これでいいですか」と確認していた。
今は、答えが先に見える。
手を見る。
何も変わっていない。
「課長」
小野寺。
「はい」
「最近、雰囲気変わりました?」
私は顔を上げた。
「そう?」
「なんか」
彼女は少し考えた。
「よく喋るようになりました」
「前の俺、知らないでしょう」
「赴任してきた初日より」
「ああ」
それなら。
確かにそうだ。
「煙草も吸いますよね」
「うん」
「最初の日、吸ってました?」
「……吸ってなかったな」
「ですよね」
彼女は笑った。
「都会の課長さんってもっと怖いかと思ってました」
「都会ってほどじゃない」
「でも本社でしょう?」
「まあ」
「森山さんも最初、そんな感じでした」
私は手を止めた。
「森山さんも?」
「はい」
「何が?」
「最初は全然喋らなかったですよ」
佐伯が奥から言った。
「小野寺さん」
彼女が振り返る。
「その話、いいから」
声は普通だった。
怒ってはいない。
でも。
会話は終わった。
私は佐伯を見た。
彼はパソコンを見ている。
*
十二時十三分。
また時計を見る。
今度は何も起きない。
私は少し笑った。
数字を意識しすぎている。
昼休み。
小野寺が外へ出る。
「どこ行くの?」
「スーパーです」
「弁当?」
「はい」
「俺も行く」
自分からそう言っていた。
以前なら。
一人でコンビニへ行った。
誰かと昼飯を買いに行く。
それだけのことが。
なぜか新鮮だった。
*
フレッシュマートみなみ。
中は思ったより広い。
野菜、魚、肉、惣菜。
平日の昼。
古いJ-POPと冷蔵ケースの低い音。
私は惣菜を見る。
小野寺は弁当を選んでいる。
「ここの唐揚げ、結構おいしいですよ」
「昨日売り切れてた」
「六時半くらいから安くなるんで」
「知ってる」
「もう常連じゃないですか」
私は笑った。
こういう会話にも慣れ始めている。
レジへ向かう。
その途中。
従業員専用と書かれた扉がある。
開いた。
店員が台車を押して出てきた。
一瞬。
向こう側が見えた。
通路。
段ボール。
搬入口。
その先。
外。
灰色のプレハブ。
今朝見た倉庫。
扉。
南京錠。
私は足を止めた。
小野寺が振り返る。
「課長?」
「ん?」
「行きますよ」
「ああ」
私は歩いた。
*
会社へ戻る途中。
聞いてみた。
「スーパーの裏に倉庫あるね」
「ありますね」
「何入ってるんだろ」
小野寺が笑う。
「知りませんよ」
「昔、あそこで働いてたんでしょう」
「スーパーにはいましたけど、レジですよ」
「裏行ったことない?」
「ありますよ」
「倉庫は?」
彼女が歩きながら考えた。
「どの倉庫です?」
「灰色のプレハブ」
小野寺が止まった。
ほんの一瞬。
「……あれ、まだあるんだ」
私は彼女を見る。
「知ってる?」
「昔からありますよ」
「何入ってるの?」
「知らないです」
また歩き出す。
「使ってなかったと思います」
「鍵かかってた」
「そうなんですか」
「南京錠」
小野寺は何も言わなかった。
会社が見えてきた。
私は最後に聞いた。
「番号式?」
彼女がこちらを見る。
「なんでですか?」
「いや。なんとなく」
「普通の南京錠だったと思いますけど」
普通。
その言葉が妙に残った。
*
十八時二十八分。
会社を出た。
スーパーへ寄る。
買い物。
今日は唐揚げ弁当が残っていた。
三十パーセント引き。
少し嬉しい。
レジを済ませる。
外へ出る。
アパートへ帰る。
そのはずだった。
私は駐車場の端で止まった。
裏を見る。
夕暮れ。
建物の影。
搬入口。
トラックはいない。
灰色の倉庫。
私は歩いた。
客が来る場所ではない。
少し後ろめたい。
建物の側面。
室外機。
空のビールケース。
折り畳まれたコンテナ。
生ゴミの匂いと熱風。
蝉の声。
スーパーの表では買い物客が行き来している。
ほんの数十メートル。
それだけなのに。
裏側は別の場所のように静かだった。
倉庫。
近づく。
古い。
壁は波板。
ところどころ錆びている。
扉には南京錠。
私はしゃがんだ。
番号式ではない。
鍵式。
少し拍子抜けした。
「……違うか」
立ち上がろうとした。
そのとき。
南京錠の裏側に。
小さく数字が刻まれていることに気づいた。
203。
私は動かなかった。
真鍮の鍵をポケットから出す。
昨夜。
応接室で見つけた鍵。
差し込む。
入る。
私は息を止めた。
回す。
カチ。
開いた。
*
すぐには扉を開けなかった。
夕方。
スーパーの裏。
買った弁当を片手に。
他人の倉庫の南京錠を勝手に開けている。
冷静に考えれば。
私は何をしているんだ。
犯罪じゃないか。
以前の私なら。
絶対にやらない。
鍵を戻す。
帰る。
管理者へ確認する。
それが普通だ。
「……」
私は扉を開けた。
*
暗い。
匂い。
最初に感じた。
潮。
濡れた岩。
腐った海藻。
あの夜。
部屋で嗅いだ匂い。
私は扉を大きく開けた。
夕方の光が入る。
倉庫は狭い。
三畳ほど。
棚。
古い段ボール。
壊れた買い物籠。
看板。
販促用の旗。
特別なものはない。
奥。
木箱。
一つだけ。
異質だった。
他のものはスーパーの備品だ。
その箱だけ。
古い。
黒っぽい木。
金属の留め具。
蓋に文字。
白いペンキ。
薄れている。
私は読んだ。
〈三崎物産〉
会社名。
なぜ。
スーパーの倉庫に。
私は近づいた。
木箱の側面。
送り状の跡。
ほとんど剥がれている。
日付だけ残っていた。
2004.8.10
背中に汗が流れた。
二十二年前。
白紙のファックス。
同じ日。
私は箱に触れた。
冷たい。
夏。
倉庫の中は蒸し暑い。
それなのに。
木箱だけ。
冷たい。
蓋。
鍵はない。
私は少し持ち上げた。
開く。
中。
黒い布。
それだけ。
布をめくる。
何もない。
空。
私は眉をひそめた。
何かが入っていると思った。
だが。
空だ。
違う。
底。
紙が一枚。
私は取った。
ファックス用紙。
黄ばんでいる。
白紙。
下部。
02:13。
五本の黒い線。
そして。
文字。
〈どこ〉
同じ。
私は紙を裏返した。
何か書いてある。
手書き。
黒いボールペン。
〈8/10 受領〉
その下。
署名。
森山。
「……森山さん」
私は声にした。
その瞬間。
倉庫の外。
足音。
私は振り返った。
誰か来る。
従業員に見つかった。
そう思った。
紙を戻す。
箱を閉める。
いや。
待て。
なぜ隠す。
私は何をしている?
足音が近づく。
コツ。
コツ。
倉庫の扉の前。
影。
私は立った。
誰かが外にいる。
「すみません」
私は先に言った。
「勝手に入って――」
返事がない。
影だけ。
夕方の光の中。
人影。
扉の向こう。
動かない。
「店員さん?」
沈黙。
そして。
声。
「閉めてください」
男。
低い。
「すみません。これは――」
「閉めてください」
「この箱について聞きたいんですけど」
影が動いた。
一歩。
こちらへ。
顔が見える。
スーパーの制服ではない。
白い半袖シャツ。
五十代くらい。
痩せた男。
知らない。
男は私ではなく。
木箱を見た。
表情が変わった。
「……開けたんですか」
「ええ」
男の顔から血の気が引いた。
「鍵、どこで」
私はポケットの鍵を握った。
「会社で」
「会社?」
「三崎物産です」
男は私を見る。
初めて。
私の顔をちゃんと見た。
「名前は?」
「富樫です」
「……富樫」
男は繰り返した。
それから。
妙なことを言った。
「今度は、あなたなんですか」
私は何も言わなかった。
今度。
「森山さんを知ってるんですか」
男は答えない。
「あなた、誰です?」
男は倉庫の中へ入った。
木箱。
蓋を開ける。
中を見る。
そして。
「紙は?」
私は答えなかった。
「紙、あったでしょう」
「ありました」
「触りました?」
「はい」
男は目を閉じた。
長く息を吐いた。
「何が書いてあった」
「あなたが知ってるでしょう」
男が私を見る。
私は初めて。
自分が相手に質問を返したことに気づいた。
以前なら。
聞かれれば答えた。
言われれば従った。
「わかりました」
そう言って。
今は違う。
知りたい。
「森山さんは、どこにいるんです?」
男はしばらく黙った。
そして。
「知らない」
「嘘ですね」
口から自然に出た。
自分でも驚いた。
男も驚いたようだった。
「なぜ?」
私は答える。
「知らない人は、紙のことを聞かない」
男は笑った。
ほんの少し。
「森山より早いな」
心臓が鳴った。
「何が?」
男は答えなかった。
倉庫を出る。
「待ってください」
追いかける。
外。
いない。
私は左右を見る。
搬入口。
室外機。
コンテナ。
駐車場。
誰もいない。
十秒も経っていない。
隠れる場所もない。
「……なんなんだよ」
私は倉庫へ戻った。
そこで。
異変に気づいた。
木箱。
さっきまで。
〈三崎物産〉
と書かれていた。
今。
違う。
白い文字。
古いペンキ。
〈フレッシュマートみなみ〉
私は近づいた。
見間違えた?
いや。
違う。
私は覚えている。
最近の記憶は異様なほど鮮明だ。
三崎物産。
確実に。
そう書いてあった。
箱の送り状。
日付。
確認する。
2004.8.10。
そのまま。
だが。
その下に。
さっきまでなかった数字があった。
小さい。
黒い印字。
13。
そして。
もう一つ。
203。
私は紙を取り出した。
白紙。
02:13。
五本の線。
〈どこ〉
裏。
〈8/10 受領 森山〉
その下。
さらに文字。
なかったはずの文字。
〈二回目〉
私はしばらく動かなかった。
二回目。
では。
一回目は。
誰だった?
倉庫の外。
スーパーの店内放送が聞こえた。
明るい女性の声。
「本日もフレッシュマートみなみをご利用いただき、ありがとうございます」
私は木箱を見た。
数十メートル先では。
家族が夕食を買っている。
子供が菓子を選んでいる。
レジが鳴る。
値引きシールが貼られる。
それだけの日常。
そして。
壁一枚。
倉庫一つ。
その裏側に。
二十二年前から。
何かがある。
私は思った。
この町がおかしい。
だが。
その考えを、すぐに訂正した。
違う。
おかしいのは、この町全部ではない。
ごく狭い。
点。
アパートの二〇三号室。
会社の応接室。
スーパーの倉庫。
それぞれは離れている。
なのに。
同じ場所なのかもしれない。
私は鍵を見る。
203。
初めて。
その数字が部屋番号には見えなくなった。




