第六話 応接室
私は二十二年前のファックスを、しばらく見ていた。
2004年8月10日。
02:13。
白紙。
五本の線。
そして、
「どこ」
何度見ても同じだった。
偶然ではない。
少なくとも、私がこのアパートへ越してきたことから始まった現象ではない。
二十二年前。
私はまだ二十代だった。
この町の名前さえ知らなかった頃だ。
それでも、この紙はここにあった。
「……森山さんは、これを見たのかな」
独り言が出た。
資料室には私しかいない。
西日はもう弱くなっていた。
小さな窓から入る光が、棚の端だけを橙色にしている。
部屋の奥は暗い。
蛍光灯をつければいい。
だが、なぜか私はつけなかった。
古い紙の匂い。
埃。
湿った段ボール。
遠くで一階の電話が鳴る。
そしてまた静かになる。
私は紙を箱へ戻さず、机の上に置いた。
他にも同じものがあるかもしれない。
探した。
2005年に一枚。
2007年に二枚。
すべて午前二時十三分。
そして不思議なことに、どれにも送信元の番号が印字されていなかった。
古い機械だから。
そう説明できなくもない。
だが。
普通の注文書には番号がある。
会社名もある。
白紙のものだけ、何もない。
私は年月日を手帳に書いた。
2004年8月10日。
2005年8月10日。
2007年8月10日。
そこで手が止まった。
全部。
八月十日。
私は今日の日付を思い出した。
八月十日。
「……今日じゃないか」
声が小さくなった。
毎年ではない。
だが、八月十日の午前二時十三分に、白紙のファックスが届いている。
なぜ今年は、私のところへ届いた?
いや。
会社にも届いていた。
昨日。
そして私は昨夜、同じ時刻に壁の向こうを聞いた。
そこまで考えて、
何かが違う気がした。
順番が逆なのではないか。
私が染みを見たから、ファックスが届いたのではない。
ファックスが届く場所だから、
私はあの染みを見たのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間。
資料室の外で音がした。
コツ。
私は顔を上げた。
廊下。
誰かいる。
「佐伯さん?」
返事はない。
コツ。
また。
靴の音だ。
ゆっくり。
二階の廊下を誰かが歩いている。
この階には資料室と会議室。
それから応接室しかない。
社員はほとんど帰っている。
私は立ち上がった。
「誰かいます?」
沈黙。
資料室を出た。
廊下は薄暗かった。
一階へ降りる階段は右。
左の突き当たりが応接室。
その扉が。
少し開いている。
私は見た。
確か、さっきまで閉まっていた。
そう思った。
いや。
見たか?
分からない。
コツ。
音は応接室の中からした。
私は歩いた。
古い床が少し沈む。
ギシ。
ギシ。
自分の足音だけが妙に大きい。
応接室の前へ来る。
隙間から中を見る。
暗い。
誰もいない。
「……誰かいます?」
返事はない。
私は扉を開けた。
*
応接室は六畳ほどだった。
中央に古い革張りのソファ。
二人掛けが一つ。
一人掛けが二つ。
その間に低いガラステーブル。
壁には山の絵。
額縁が少し傾いている。
窓には厚いカーテン。
使われていない空気。
長く閉め切った部屋独特の匂いがした。
私はスイッチを押した。
蛍光灯が二度ほど点滅してからついた。
誰もいない。
「なんだ」
帰ろうとした。
そこで、
テーブルの上に灰皿があることに気づいた。
ガラス製。
古い。
茶色く変色している。
この会社は室内禁煙のはずだ。
少なくとも今は。
私は近づいた。
灰皿の中に、
吸い殻が一本あった。
「……」
まだ新しい。
フィルターが白い。
灰も崩れていない。
私は指で触れようとしてやめた。
煙草の銘柄は分からない。
だが。
何となく。
自分が今吸っているものに似ていた。
背中が冷えた。
「いやいや」
誰かが吸った。
それだけだ。
会社なんだから人はいる。
佐伯かもしれない。
森山が使っていた灰皿を誰かが勝手に使ったのかもしれない。
私はそう考えた。
そのとき。
ガラステーブルの下に紙が落ちていることに気づいた。
拾う。
名刺だった。
森山孝一。
株式会社三崎物産。
営業部長。
課長ではない。
「……営業部長?」
私は名刺を裏返した。
手書きの文字。
青いボールペン。
短い。
〈二〇三号室 使用不可〉
私は動かなかった。
もう一度読む。
二〇三号室。
私の部屋だ。
アパートの。
いや。
同じ番号なんていくらでもある。
部屋番号とは限らない。
倉庫の棚かもしれない。
商品番号の一部かもしれない。
私は名刺をポケットに入れた。
その瞬間。
電話が鳴った。
応接室の電話。
黒い固定電話。
私は驚いて振り返った。
リーン。
古い音。
リーン。
この部屋の電話が生きていることすら知らなかった。
リーン。
出るべきか。
迷った。
四回目。
受話器を取った。
「はい。三崎物産です」
雑音。
ザー。
何も聞こえない。
「もしもし」
ザー。
遠い。
私は受話器を耳に押し当てた。
波。
そう思った。
ザー。
ゴォ。
あの音。
私は黙った。
その奥で。
何かが聞こえる。
声。
男。
小さい。
「……富樫さん」
私は息を止めた。
「誰ですか」
返事はない。
「もしもし」
「……そこに……」
声が途切れる。
「何です?」
「……座らないでください」
私はソファを見た。
誰もいない。
「誰なんですか」
雑音が強くなる。
「……森山です」
電話が切れた。
*
私は受話器を持ったまま動けなかった。
森山。
前任者。
いや。
名刺には営業部長とある。
そして。
今の電話。
本物なのか。
誰かの悪戯か。
私は受話器を置いた。
まず確認だ。
階段を下りる。
一階にはまだ二人いた。
佐伯と小野寺。
「佐伯さん」
「はい?」
「応接室の電話って使えるんですか」
「応接室?」
「二階の」
佐伯は少し考えた。
「あそこ、電話ありましたっけ」
「あるよ」
「ああ……昔のやつかな」
「外線つながってる?」
「いや、たぶん死んでますよ」
私は何も言わなかった。
「森山さんの連絡先分かります?」
佐伯がこちらを見る。
「何かありました?」
「ちょっと確認したいことがあって」
「携帯なら総務に残ってると思いますけど」
小野寺が口を挟んだ。
「森山さん、電話出ないと思いますよ」
私は彼女を見る。
「なんで?」
「あ……」
彼女は一瞬止まった。
「辞めてから誰も連絡つかないって聞いたんで」
「親の介護じゃないの?」
佐伯が言った。
「そうですよ」
「じゃあ連絡くらい取れるでしょう」
佐伯が黙る。
何か。
ほんの少し。
空気が変わった。
私は二人を見た。
小野寺は机の上の書類を揃えている。
佐伯はパソコンの画面を見ている。
二人とも、私を見ない。
もし誰かが仕組んでいるのなら。
この会社の人間は何かを隠している。
前任者は消えた。
私も同じ場所へ送られた。
アパートも会社も用意されていた。
二〇三号室。
八月十日。
午前二時十三分。
誰かが仕組んでいる。
そう考えれば、むしろ安心できた。
人間の仕業なら、人間の理屈で追える。
「佐伯さん」
「はい」
「森山さん、正式にはいつまで会社に来てました?」
「七月末です」
「最後の日は?」
「三十一日だったと思います」
小野寺が顔を上げた。
「でも……」
佐伯が彼女を見る。
「何?」
小野寺は私を見た。
「森山さん、今朝も来てましたよ」
沈黙。
「今朝?」
「はい。課長が来る前です」
「何時ごろ?」
「七時前だったと思います」
佐伯が立ち上がった。
「小野寺さん」
「だって、いましたよ。二階に上がっていきました」
「森山さんは来てない」
佐伯の声が、初めて少し強くなった。
私は二人を見る。
「今日は八月十日だよね」
小野寺は頷いた。
佐伯は答えなかった。
*
私は残業することにした。
二人には帰ってもらった。
十九時二十分。
会社には私一人。
外は暗くなり始めている。
窓の向こう。
用水路。
田んぼ。
電柱。
遠くの家。
空の端にまだ少し赤みが残っている。
蝉の声は減り、
代わりに蛙が鳴き始めていた。
私は自分の席で、森山について調べた。
社内の共有フォルダ。
人事資料。
古いメール。
森山孝一。
五十四歳。
在籍二十七年。
役職。
営業部長。
私は画面を見直した。
課長ではない。
では。
私が引き継いだ「課長」という役職は何だったのか。
組織図を開く。
営業課。
課長。
富樫十兵衛。
その前。
空欄。
森山の名前はない。
私は過去年度の組織図を開いた。
去年。
営業部長 森山孝一。
課長。
空欄。
一昨年。
同じ。
十年前。
同じ。
森山は課長ではない。
では誰が。
私は赴任前の上司の言葉を思い出した。
「向こうの課長が辞めるから」
確かにそう言った。
私はそう記憶している。
鮮明に。
以前なら、自分の記憶違いだろうと思った。
今は違う。
記憶に自信がある。
だからこそ。
おかしい。
私は会社の代表番号から、本社の上司へ電話をかけた。
出ない。
もう二十時近い。
当然か。
切ろうとした。
そのとき。
二階で音がした。
コツ。
私は天井を見た。
コツ。
応接室。
私は立ち上がらなかった。
じっと聞いた。
コツ。
コツ。
やがて。
別の音。
ギィ。
ソファの革が沈むような音。
誰かが座った。
私はそう思った。
「……座らないでください」
電話の声。
私は立ち上がった。
二階へ行く。
階段。
一段。
二段。
三段。
自分でも不思議だった。
怖い。
それでも確かめたい。
その感情の方が強い。
応接室の扉は閉まっている。
私はノブを握った。
冷たい。
開ける。
蛍光灯は消えていた。
廊下の光が細く差し込む。
ソファ。
誰もいない。
だが。
中央の二人掛けソファ。
右側だけ。
沈んでいる。
誰かが座っているように。
革がゆっくり軋む。
ギ……
私は動かなかった。
そこには誰もいない。
ただ。
座面だけが沈んでいる。
そして。
その上。
何もない空間から。
一本の煙草の煙が立ち上っていた。
煙だけ。
煙草はない。
人もいない。
白い煙がゆっくり天井へ昇る。
私はそれを見た。
不思議と叫びは出なかった。
代わりに。
口から出た言葉は。
「……森山さん?」
煙が止まった。
ほんの一瞬。
上へ昇っていた煙が、横へ流れた。
壁の方向へ。
そこに。
薄い黒い染みが浮かんでいた。
私は近づいた。
染みの中央。
何かが見える。
最初は汚れだと思った。
違う。
文字。
誰かが壁の裏側から書いている。
ゆっくり。
一文字ずつ。
〈み〉 〈る〉 〈な〉
みるな。
「見るな?」
私は声に出した。
黒い文字が消えた。
代わりに。
壁の奥から。
小さな音がした。
カン。
金属。
一回。
カン。
二回。
カン。
三回。
私は数えた。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
十一。
十二。
そして。
十三。
止まった。
私は腕時計を見る。
20:13。
その瞬間。
初めて気づいた。
午前二時十三分ではない。
二十時十三分。
十三分。
時間ではないのかもしれない。
私は壁を見た。
そして、自分でも驚くほど自然に笑っていた。
「そういうことか」
もちろん。
何も分かってはいない。
だが。
一つだけ。
質問が変わった。
なぜ午前二時十三分なのか。
ではない。
なぜ。
十三分なのか。
その夜。
私が持ち帰ったものは、
古いファックスと、
森山の名刺と、
もう一つ。
誰にも見せなかった。
応接室のソファの下から見つけた、小さな鍵だった。
真鍮製。
黒ずんでいる。
鍵には、小さな金属板が付いていた。
そこに数字が刻まれていた。
203。




