第五話 わかりました
朝、目を覚ましたとき、最初に時計を見た。
六時三十八分。
動いている。
秒針も動いていた。
私は布団の上でしばらく時計を眺め、それから壁を見た。
何もない。
白い壁。
焦げ跡。
古いクロスの継ぎ目。
それだけだった。
昨夜のことを考えた。
午前二時十三分。
止まった時計。
開かなかった玄関。
壁の向こうの波。
五本の黒い筋。
私はそれらを順番に思い出すことができた。
妙に鮮明だった。
波の間隔まで覚えている。
最初の大きな音から次の音まで、おそらく七秒。
その次は十一秒。
その次は四秒。
なぜそんなことを覚えているのか。
分からない。
だが、覚えている。
私は顔を洗った。
鏡を見る。
いつもの顔だった。
四十を過ぎた、少し疲れた男。
「会社行くか」
鏡の男がそう言った。
*
アパートは二階建て。
私の部屋は二〇三号室。
小さな駐車場の向こうを県道が走り、朝は高校生の自転車が駅へ向かう。
向かいには「コインランドリー白鳥」。
その隣には、〈クリーニング ミヤザキ〉の文字だけを残した空き店舗。
スーパーはすぐそこ。
反対へ十分ほど歩けば会社。
便利な場所だった。
ただ、一つだけ妙なことがある。
海がない。
少なくとも、歩いて行けるような距離にはない。
昨夜の波の音を思い出した。
私は県道を見た。
トラックが一台通り過ぎた。
排気ガスの匂い。
蝉。
強い日差し。
どこにも海はなかった。
*
会社の正式名称は、株式会社三崎物産。
地方の小さな専門商社だ。
古い二階建ての鉄骨造。
一階は事務所と倉庫。
二階には会議室、資料室、ほとんど使われない応接室。
裏には用水路と田んぼ。
海はない。
私はまたそんなことを考えていた。
「おはようございます、課長」
声をかけてきたのは営業主任の佐伯だった。
四十七歳。
私より年上。
この会社に十九年いる。
歓迎会を提案してきたのも佐伯だ。
「おはよう」
「今日、九時から東亜機工さんの件、お願いします」
「ああ」
いつもの言葉が口から出そうになった。
わかりました。
私は昔から、それで済ませてきた。
上司から仕事を渡される。
「富樫、これ頼む」
「わかりました」
急な資料修正。
「今日中にできる?」
「わかりました」
転勤。
「行ってくれるか」
「わかりました」
便利な言葉だった。
自分で決めなくていい。
相手が決めたことを受け取ればいい。
私はそうやって二十年近く会社員をやってきた。
ところが。
「佐伯さん」
「はい?」
「東亜機工の納期、昨日の回答だと二週間ですよね」
佐伯が少し驚いた顔をした。
「そうです」
「先方の希望は十日」
「はい」
「四日足りない」
「まあ……そうですね」
「メーカーには確認しました?」
「昨日、電話しましたけど難しいって」
「担当は?」
「長谷川さんです」
私は昨日見た書類を思い出した。
仕入先。
北辰製作所。
営業担当、長谷川。
商品番号。
K-17-04。
発注数、二百四十。
倉庫にあった数。
二百三十七。
三個足りなかった、あの商品だった。
私は立ち止まった。
「……同じ商品か」
「え?」
「昨日、在庫が三個合わなかったやつ」
「ああ、そうです」
佐伯が笑った。
「よく覚えてますね」
私もそう思った。
昨日、一度見ただけだ。
「北辰に二百四十全部発注する必要ないでしょう」
「はい?」
「倉庫分を先に回せる。納入先、まだ決まってないですよね」
佐伯が数秒考えた。
「あ」
「東亜には先行分の数量を確認。北辰には分納できるか、もう一度聞いてください」
そこまで言って、自分で違和感を覚えた。
何を言っているんだ、私は。
だが口は止まらなかった。
佐伯が私を見ている。
「……はい」
今度は向こうが言った。
私は自分の席へ座った。
妙な気分だった。
*
十時十二分。
電話が鳴った。
佐伯が取る。
「はい、三崎物産です」
しばらく話している。
そして受話器を押さえた。
「課長」
「はい」
「北辰、いけました」
「分納?」
「はい。工場に三十個だけ完成品があるそうです。今日出せるって」
「じゃあ、それで」
「わかりました」
まただ。
私は佐伯を見た。
今まで私が言っていた言葉を、他人が私に言っている。
妙に居心地が悪かった。
だが。
嫌ではなかった。
*
昼。
事務所には六人残っていた。
営業に出ている者が多い。
アルバイトの一人が給湯室で電子レンジを使っている。
彼女の名前は小野寺美咲。
二十六歳。
この会社に来て三年目だという。
もう一人は木曜日と金曜日だけ来るらしい。
窓際には古いファックスが二台。
壁には地元信用金庫のカレンダー。
八月十日の欄に、赤い丸。
事務所の奥、倉庫へ続く灰色の扉。
その上に時計。
十二時十三分。
私は時計を見た。
十三分。
それだけで、昨夜を思い出す。
「課長」
小野寺に呼ばれた。
「はい?」
「お昼、食べないんですか?」
「ああ」
時計を見る。
十二時十四分になった。
「食べます」
私はコンビニで買ってきたおにぎりを取り出した。
「課長って、前の会社では何してたんですか?」
突然聞かれた。
「普通の仕事」
「普通って何ですか」
「普通は普通だよ」
「営業?」
「いや」
「管理職?」
「違う」
「じゃあ何で課長になったんです?」
私はおにぎりの袋を開ける手を止めた。
「……俺も知りたい」
小野寺が笑った。
私も笑った。
自分が職場でこんな会話をするのは珍しかった。
以前なら、
「まあ、いろいろ」
それで終わらせていた。
「小野寺さん」
「はい」
「この会社、長い?」
「三年です」
「その前は?」
「スーパーです」
「あそこの?」
窓の外を指した。
「そうです」
「へえ」
また会話が続いている。
私は自分で自分がおかしかった。
「この辺、海ないよね」
小野寺の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……海ですか?」
「うん」
「ないですよ」
「だよね」
「車でも結構かかりますよ」
「どれくらい?」
「一時間半とか」
「そう」
私はおにぎりを食べた。
そこで会話は終わった。
いや。
終わったと思った。
小野寺が電子レンジから弁当を取り出した。
背中を向けたまま言った。
「でも、昔はあったらしいですよ」
私は顔を上げた。
「何が?」
小野寺が振り返った。
「え?」
「今、昔はあったって」
彼女は私を見た。
「私、そんなこと言いました?」
沈黙。
事務所のファックスが鳴った。
ピー。
ガガガガガ。
ピー。
小野寺はそちらへ歩いていった。
「注文かな」
私は彼女の背中を見ていた。
*
午後。
仕事は不思議なくらい順調だった。
書類を見れば、どこがおかしいか分かる。
部下から相談されれば、答えが浮かぶ。
以前なら上司に確認し、規則と前例を探し、最後に「わかりました」と言った。
今日は一度も言っていない。
十六時。
私は煙草を吸うため外へ出た。
会社の裏。
倉庫脇に古い灰皿が置いてある。
昔は社員がここで吸っていたらしい。
火をつける。
煙を吸う。
なぜまた吸い始めたのだろう。
十年やめていた。
理由がない。
いや。
ある。
あの染みだ。
あれを見た夜からだ。
口数が増えた。
煙草を吸い始めた。
仕事で判断するようになった。
記憶も妙に鮮明だ。
私は煙を吐いた。
「……俺、こんなんだったか?」
誰も答えない。
用水路を水が流れている。
その向こうに田んぼ。
さらに向こうには低い山。
青い空。
入道雲。
蝉の声。
どこにでもある地方の夏だ。
その景色の中で。
私は初めて思った。
壁の染みは何だったのか。
怖い。
もちろん怖い。
だが。
それ以上に。
知りたい。
そう思っている自分がいた。
私は煙草を灰皿に押しつけた。
その瞬間。
昨夜の女の声を思い出した。
――あつい。
そして。
――ここ、どこ?
鮮明だった。
声の高さ。
息の混ざり方。
音の間隔。
全部覚えている。
私は事務所へ戻った。
*
「小野寺さん」
「はい?」
「古いファックスって残ってる?」
「ファックス?」
「受信した紙」
「いつ頃のです?」
「昔の」
「経理関係なら二階の資料室にあると思いますけど」
「どれくらい昔?」
「さあ……前の課長なら知ってるかも」
前の課長。
私がここへ来る原因になった男。
「名前、何だっけ」
小野寺が少し不思議そうな顔をした。
「森山さんですよ」
森山孝一。
私はその名前を覚えた。
「森山さん、なんで辞めたの?」
小野寺は答えなかった。
代わりに佐伯が奥から言った。
「親の介護ですよ」
「ああ、そうなんですか」
「急でしたけどね」
佐伯はパソコンから目を離さない。
「いつ決まったんです?」
「何がです?」
「退職」
「七月の……」
佐伯の手が止まった。
「何日だったかな」
小野寺が言った。
「十三日じゃなかったですか?」
十三。
私は何も言わなかった。
佐伯が首を傾げる。
「そうだったっけ」
「たぶん」
「まあ、そんなもんです」
私は二人を見た。
どちらも嘘をついているようには見えない。
だからこそ。
少しだけ気になった。
*
十八時。
皆が帰り始めた。
私は二階へ上がった。
資料室。
六畳ほど。
金属製の棚が四本。
古い帳簿。
伝票。
契約書。
埃。
小さな窓が一つ。
西日が差し込み、空気中の埃が光っている。
壁際に段ボール箱が積まれていた。
2019。
2020。
2021。
年度ごと。
その一番下。
日焼けした箱があった。
ラベルは手書き。
〈旧受信記録〉
私はしゃがんだ。
箱を引き出す。
重い。
蓋を開ける。
紙。
大量のファックス。
黄ばんでいる。
十年以上前のものもある。
私は一枚取った。
注文書。
もう一枚。
納品書。
もう一枚。
白紙。
手が止まった。
受信時刻を見る。
02:13。
背中に汗が流れた。
次。
白紙。
02:13。
次。
白紙。
02:13。
次。
注文書。
普通。
次。
白紙。
02:13。
私は床に座り込んだ。
数える。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
そこで。
紙の端に何か見えた。
薄い黒。
五本の線。
私は紙を持ち上げた。
指のような跡。
その下に。
ほとんど消えかけた文字がある。
私は顔を近づけた。
「……どこ」
同じだった。
私のところへ届いたものと。
同じ。
紙の上部を見る。
受信日。
私はそこに印字された数字を読んだ。
2004年8月10日。
二十二年前。
私はその紙を持ったまま動かなかった。
窓の外で蝉が鳴いている。
遠くを車が走る。
一階からファックスの音が聞こえた。
ピー。
ガガガガガ。
ピー。
私は紙を見た。
そして。
初めて笑った。
怖かったからではない。
嬉しかったからでもない。
ようやく一つ。
分かったことがあった。
「……俺じゃない」
この現象は。
私から始まったものではない。
二十二年前から。
ここにある。
その瞬間。
私の中で恐怖よりも強いものが生まれた。
興味だった。




