第四話 未修正領域
午前二時十三分。
秒針は動かない。
私は煙草を吸った。
煙だけは、ゆっくり天井へ昇っていた。
それを見て、少し安心した。
何か一つくらいは、いつも通りに動いていてほしかった。
壁には五本の黒い筋。
波の音。
ザァァ……。
ゴォォ……。
昨日より近い。
そう感じた。
だが、本当に近づいているのかは分からない。
音が大きくなっただけかもしれない。
私の耳がおかしくなっただけかもしれない。
スマートフォンを見る。
2:13。
電波はある。
だが、時報を検索しようとしても、画面は読み込み中のまま動かない。
玄関へ行く。
鍵を回す。
カチ。
開かない。
もう一度。
鍵は回る。
だが、扉は開かない。
「……固いな」
肩を当てる。
びくともしない。
私はノブから手を離した。
おかしい。
怖い。
それなのに、頭のどこかは妙に冷静だった。
扉は扉。
鍵は鍵。
壁は壁。
時計は時計。
一つずつ確かめればいい。
私はそう考えていた。
考えたというより。
そうするしかなかった。
背後。
カン。
振り返る。
壁。
カン。
二回。
カン。
三回。
私は数える。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
十一。
十二。
そして。
十三。
止まった。
私は煙草を持ったまま、壁を見ていた。
黒い筋が濃くなる。
その一本が、ずるりと下へ伸びた。
次の一本。
その次。
五本すべて。
何かが壁の向こうから手を引きずり下ろしたように。
私は一歩下がった。
「……誰だ」
答えはない。
波。
ザァァァ……。
ゴォォォ……。
その奥。
声。
女。
「……どこ……」
昨日と同じ声だった。
私は答えなかった。
「……どこ……」
今度は、少し近い。
「……そこ……」
私は眉をひそめた。
そこ。
昨日は「ここ」だった。
今日は。
「そこ」。
「何が見えてる」
自分でも驚いた。
話しかけていた。
返事はない。
私はもう一度言った。
「俺が見えるのか?」
波が止んだ。
完全な静寂。
扇風機も止まっていた。
さっきまで回っていたはずなのに。
煙草の煙だけが、途中で止まっている。
天井へ昇る途中。
白い筋のまま。
私は息を止めた。
壁の染み。
その中央に。
小さな白い点が浮かんだ。
一つ。
二つ。
黒の中に白。
目。
そう思った瞬間。
白い点は消えた。
「いや」
私は呟いた。
目だと思ったから、目に見えただけだ。
そうに違いない。
カチ。
時計が動いた。
2:14。
扇風機が回り始めた。
煙が天井へ昇った。
波は消えた。
壁も白い。
玄関へ行く。
ノブを回す。
開いた。
外廊下。
夜。
遠くで車の音。
虫の声。
私は廊下へ一歩出た。
何も変わっていない。
振り返る。
自分の部屋。
二〇三号室。
表札のない扉。
私は番号を見た。
203。
ただの部屋番号。
そう思った。
そのときは。
私は部屋へ戻った。
煙草を消した。
「寝るか」
布団へ入る。
眠れるはずはなかった。
それでも目を閉じた。
奇妙なのは恐怖よりも、一つだけ別の感情が残っていたことだった。
女は昨日、
「ここ、どこ」
と言った。
今夜は、
「そこ」。
向こうも。
何かを確かめ始めている。




