第三話 十三分
朝になった。
私は結局、一睡もできなかった。
六時半。
カーテンの隙間から、嫌になるほど健康的な朝日が差し込んでいる。
蝉が鳴いていた。
ミンミンミンミン。
うるさい。
世界というものは、こちらの事情など考えてくれないらしい。
布団から起き上がる。
壁を見る。
何もない。
昨夜、五本の指のような黒い筋が現れた場所も、ただの白い壁だった。
焦げ跡だけが残っている。
近づいて触る。
普通の壁。
冷たくもない。
湿ってもいない。
鼻を近づけても、あの海のような匂いはしなかった。
「……疲れてるんだな」
声に出すと、少し安心した。
そういうことにしておこう。
*
会社へ行く。
ファックスが鳴っている。
ピー。
ガガガガガ。
ピー。
昨日と同じだ。
「おはようございます、課長」
「おはよう」
人がいる。
声がする。
電話が鳴る。
コピー機が動く。
誰かが昨日の野球の話をしている。
ありがたい。
昨日まで古臭いと思っていたファックスの音さえ、今日は妙に頼もしかった。
世界がまだ世界であることを、いちいち証明してくれているような気がした。
席に座る。
机の上には、受信したファックスが何枚か置かれていた。
「これ、今日の分?」
アルバイトの女性に聞く。
「はい。朝来たやつです」
「ありがとう」
一枚ずつ見る。
注文書。
注文書。
見積依頼。
納期確認。
そして。
一枚だけ、何も書かれていない紙があった。
「……ん?」
白紙。
裏返す。
何もない。
「これ何?」
「あれ?」
彼女が覗き込む。
「白紙ですね」
「そうだね」
「たまにありますよ。向こうが裏表間違えて送ったとか」
「ああ」
「捨てちゃっていいと思います」
「そうする」
紙を丸めようとした。
そのとき。
下の方に、小さく数字が印字されていることに気づいた。
02:13
手が止まった。
「これ、受信時間?」
「ああ、そうですね」
「二時十三分?」
「はい」
「夜中に?」
「夜中でもファックス来ますよ。自動送信とかじゃないですか」
彼女は何でもないことのように言った。
そうだ。
何でもない。
午前二時十三分にファックスが届くことくらいある。
私が目を覚ました時刻と同じだったとしても。
偶然だ。
紙をゴミ箱へ入れた。
*
昼前。
昨日、数が合わなかった在庫を確認するため倉庫へ行った。
三個足りなかった商品は、別の棚から見つかっていた。
「ありましたよ、課長」
「どこに?」
「別の棚です」
「なんで別の棚にあるんだ」
「誰か間違えたんでしょうね」
「誰かって誰だよ」
「さあ」
やはり、この会社は大丈夫ではない。
だが。
こういう問題はいい。
原因がある。
探せば見つかる。
三個足りない。
三個見つかった。
ゼロになる。
非常に気持ちがいい。
「今度から場所ちゃんと――」
言いかけて、倉庫の奥を見た。
壁。
黒いもの。
心臓が一度、大きく鳴った。
「課長?」
奥へ歩く。
壁に近づく。
黒い染み。
昨夜と同じ。
そう思った。
だが違う。
油だった。
棚の機械油か何かが壁についているだけだ。
指で触る。
べたつく。
油の匂い。
息を吐く。
「どうしました?」
「いや。汚れてるなと思って」
「ああ、それ昔からですよ」
昔から。
「これ、いつから?」
「さあ。俺が入ったときにはありましたけど」
「何年前?」
「俺、十二年目ですから……十二年以上ですね」
十二年。
何の意味もない数字だ。
私はそう思った。
*
昼食を食べる。
午後の仕事をする。
電話に出る。
印鑑を押す。
見積書を見る。
部下から質問される。
普通の一日だった。
普通であることを、私は何度も確認した。
そして十七時四十分。
ファックスが鳴った。
ピー。
ガガガガガガ。
紙が吐き出される。
近くにいた私は、何となくそれを取った。
白紙だった。
またか。
受信時刻。
17:40。
当たり前だ。
今、受信したのだから。
少し笑った。
何を期待していたんだ。
紙を捨てようとする。
裏側に何か見えた。
薄い。
黒い線。
裏返す。
五本。
細長い線が並んでいる。
動きが止まった。
指。
そう見えた。
だが、よく見ればただの印刷汚れにも見える。
トナーの筋。
古いファックスだ。
それだけだ。
「課長」
後ろから声をかけられ、紙を落としかけた。
「……何?」
「昨日の歓迎会なんですけど、来週の金曜でいいですか?」
「ああ」
「店、押さえちゃいますよ」
「頼む」
「何か食べられないものあります?」
「特にない」
「了解です」
部下が戻っていく。
もう一度、紙を見る。
五本の線。
そして。
線の下に、小さく文字があった。
印刷が潰れている。
目を近づける。
ひらがな。
二文字。
――どこ。
「……」
私は紙を机の引き出しへ入れた。
捨てることができなかった。
*
十八時十二分。
帰ろうとしたとき、アルバイトの女性が言った。
「課長」
「ん?」
「それ、持って帰るんですか?」
一瞬、何のことか分からなかった。
彼女は私の机を見ている。
「何を?」
「いえ……」
少し妙な顔をした。
「何でもないです」
鞄を持つ。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
会社を出る。
外はまだ明るい。
夏の夕方。
蝉の声。
車。
自転車。
犬を散歩させている老人。
普通の町だ。
私は歩きながら考えた。
彼女は何を見ていた。
*
スーパーには寄らなかった。
コンビニで弁当を買う。
アパートへ帰る。
十九時少し前。
扉を開ける。
潮の匂いはしない。
壁を見る。
何もない。
安心した。
本当に。
安心したのだ。
だから。
鞄を開けたとき、意味が分からなかった。
机の引き出しに入れたはずのファックスが、そこに入っていた。
「……あれ?」
自分で持ってきたのだろうか。
無意識に。
あり得る。
寝不足だ。
紙を取り出す。
五本の黒い線。
その下。
「どこ」
変わっていない。
机に置く。
そして気づいた。
裏面。
数字。
02:13
「……だから何なんだよ」
少し腹が立った。
二時十三分。
それがどうした。
時刻なんて一日に千四百四十個ある。
そのうちの一つだ。
ただの数字だ。
紙を二つに破った。
さらに破る。
四つ。
八つ。
ゴミ箱へ捨てた。
「馬鹿馬鹿しい」
風呂に入る。
飯を食う。
テレビを見る。
ニュースでは今年一番の暑さだと言っていた。
明日も猛暑。
ビールを一本。
煙草を一本。
壁には何も出ない。
二十三時。
布団に入った。
*
目が覚めた。
部屋は暗い。
扇風機が回っている。
私は時計を見なかった。
見たくなかった。
目を閉じる。
寝ろ。
ただの寝不足だ。
寝ろ。
そう思った。
カン。
目を開けた。
カン。
金属音。
昨日と同じ。
壁の向こう。
カン。
カン。
私は時計を見ない。
見れば負けるような気がした。
カン。
波の音が始まった。
ザァァ……。
ゴォォ……。
布団の中で息を殺す。
そして。
机の上から音がした。
カサ。
紙の音。
カサ。
カサ。
ゆっくり身体を起こす。
机。
何かが置いてある。
白い紙。
そんなはずはない。
ライトをつける。
破ったはずのファックスだった。
一枚に戻っていた。
破れ目もない。
五本の黒い線。
「どこ」
そして。
02:13
私はそこで初めて時計を見た。
午前二時十三分。
秒針は。
動いていなかった。
*
私は立ち上がった。
昨日なら、ここで恐怖に固まっていたと思う。
だが。
二度目だった。
人間というものは妙なもので、理解できないことにさえ慣れるらしい。
机の上の煙草を取る。
一本くわえる。
ライターを擦る。
火をつける。
煙を吸う。
ゆっくり吐く。
壁を見る。
黒い染みが現れていた。
「……またか」
それが、この夜に私が発した最初の言葉だった。
そして。
午前二時十三分は、終わらなかった。




