第二話 午前二時十三分
壁の染みは消えた。
それだけのことだった。
翌朝、目を覚ました私は、最初に壁を見た。
何もない。
昨夜、掌ほどまで広がっていた黒い染みは、跡形もなく消えている。
ただし、煙草を押しつけた場所には、小さな焦げ跡が残っていた。
私は布団の中から、それをしばらく眺めた。
「……夢じゃないんだな」
時計を見る。
六時四十二分。
目覚ましが鳴る十八分前だった。
顔を洗い、昨日スーパーで買ったパンを食べる。
インスタントコーヒー。
テレビ。
東京の天気。
猛暑。
熱中症に注意。
どこかの芸能人が結婚した。
世界は正常だった。
「まあ、そうだよな」
テレビに向かって言った。
壁から女の声がしたくらいで、世界がおかしくなるはずもない。
いや。
壁から女の声がする時点で、十分おかしい。
私はテレビを消した。
*
会社へ着くと、ファックスが鳴っていた。
ピー。
ガガガガガ。
ピー。
「……朝から元気だな」
機械に向かって言うと、アルバイトの女性が笑った。
「課長、ファックス嫌いなんですか?」
「嫌いというか、懐かしいというか」
「現役ですよ、うちでは」
「見れば分かる」
受信トレイには、すでに十数枚の紙が積まれている。
注文書。納品確認。見積依頼。
手書きのものまである。
こういう仕事は嫌いではない。
数字があって、品物があって、金額がある。
分からないものは調べればいい。
間違っていれば直せばいい。
原因と結果がある。
昨夜の壁とは違う。
午前中は引き継ぎ。
昼は近所の定食屋で生姜焼き。
午後、倉庫を見た。
パソコン上では二百四十個。
実物は二百三十七個。
「三個どこ行った?」
「たぶん、あります」
部下が言った。
「たぶんって何だ」
「探せば出てきます」
「じゃあ探そうよ」
「あ、はい」
そんな会社だった。
十八時を過ぎた頃、昨日歓迎会を提案してきた部下が帰り際に声をかけてきた。
「課長」
「ん?」
「昨日、眠れました?」
一瞬。
私は答えなかった。
「……なんで?」
「いや、新しい部屋って寝つけないじゃないですか」
「ああ」
私は笑った。
「普通に寝たよ」
「そうですか」
部下も笑う。
そして、
「なら、よかったです」
そう言って去っていった。
何か引っかかった。
だが、何が引っかかったのかは分からなかった。
*
その日もスーパーへ寄った。
昨日より五分遅かったせいで、狙っていた唐揚げ弁当は売り切れていた。
人生とはこういうものだ。
三十パーセント引きの焼き魚弁当を買う。
アパートへ帰る。
鍵を開ける。
玄関の照明をつける。
壁を見る。
何もない。
「……だよな」
靴を脱いだ。
そこで気づいた。
匂いがする。
海の匂い。
潮というより、濡れた岩のような匂いだった。
防波堤の下から漂ってくるような、水と泥と腐った海藻の匂い。
この町は海からかなり離れている。
窓を開ける。
外からではない。
台所。
風呂。
排水口。
全部確認した。
分からない。
五分ほどすると、匂いは消えた。
「古いアパートだからな」
便利な言葉だ。
壁に染みもできる。
変な匂いもする。
水道管も鳴る。
床も軋む。
全部、古いアパートだから。
そういうことにした。
風呂に入り、飯を食い、本を読む。
煙草は吸わなかった。
二十二時半。
眠くなった。
壁を見る。
何もない。
「寝るか」
電気を消した。
*
目が覚めた。
理由は分からない。
暗い。
扇風機だけが回っている。
ブーン。
ブーン。
時計を見る。
午前二時十三分。
喉が渇いていた。
起き上がろうとして、やめた。
何か聞こえる。
小さな音。
最初は扇風機だと思った。
違う。
もっと遠い。
壁の向こう。
息を止める。
……。
ゴ。
……。
ゴ。
低い音。
誰かが壁を叩いているのではない。
もっと遠い。
ずっと遠く。
それなのに、壁の向こうから聞こえる。
一定ではない。
波。
そう思った。
巨大な波が、どこかの岩壁にぶつかっている。
だが、ここは海ではない。
私は布団から出た。
昨夜、染みがあった場所へ近づく。
耳を当てた。
冷たい。
夏なのに。
壁が冷たい。
そして。
聞こえた。
波だった。
間違いない。
ザァァァ……。
ゴォォォ……。
遠くで水が動いている。
私は壁から耳を離した。
「……隣でテレビでも見てるのか?」
声に出してみる。
自分でも馬鹿な説明だと思った。
そのとき。
壁の向こうで。
カン。
小さな音がした。
カン。
また。
金属音。
カン。
カン。
カン。
誰かが。
向こう側から。
何かを叩いている。
突然、音が止まった。
静かになった。
扇風機だけが回っている。
時計を見る。
二時十三分。
一分くらいは経っているはずだった。
秒針。
動いていない。
「……電池か」
スマートフォンを取る。
画面。
2:13。
その瞬間。
壁に黒い点が浮かんだ。
昨夜と同じ場所。
十円玉ほどの染み。
私は動けなかった。
染みはゆっくり広がった。
だが昨日とは違う。
円ではない。
縦に伸びていく。
細長く。
人差し指ほど。
そして、もう一本。
その横に現れた。
さらに一本。
五本。
五本の黒い筋。
まるで、壁の向こう側から誰かが五本の指を押しつけているように見えた。
逃げろ。
頭ではそう思った。
玄関まで数歩だ。
鍵を開ければいい。
外へ出ればいい。
なのに身体が動かなかった。
五本の指のような染みが、ゆっくり下へ滑った。
ズ……。
ズズ……。
その跡から、黒い液体が滲む。
そして。
昨日と同じ声がした。
女。
ただし、今度は悲鳴ではなかった。
壁の向こうから。
ひどく遠い場所から。
囁くように。
「……あつい……」
私は煙草を思い出した。
昨日。
火を押しつけた。
だから。
「熱い」と言っている。
そう理解した瞬間。
声が続いた。
「……ここ……」
「……ここ……」
若いのか、年老いているのか分からない。
「……ここ……」
そして。
「……どこ……?」
私は答えなかった。
答えてはいけない。
理由などなかった。
ただ、そう思った。
壁の向こうの女は、自分がどこにいるのか知らない。
では。
壁の向こうとは、どこなのだ。
その瞬間。
音が戻った。
ザァァァァァァァァァァ――。
巨大な波。
部屋全体が震えた。
私は耳を塞いだ。
その波音のさらに奥。
もっと遠く。
到底、人間の喉から出るとは思えない。
低い。
低い。
巨大な何かの声が。
夜の向こうから響いた。
私はその場に座り込んだ。
そして。
すべてが消えた。
時計が動いた。
2:14。
扇風機が回っている。
壁は普通だった。
黒い指も。
染みも。
波も。
女の声も。
何もない。
私は朝まで眠れなかった。
ただ一つだけ。
どうしても頭から離れないことがあった。
あの女は。
助けを求めていたのだろうか。
それとも。
こちら側を探していたのだろうか。




