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第一話 壁の染み

私の名は、富樫十兵衛。


大層な名前だが、何の変哲もないサラリーマンだ。


四十を過ぎた独身男。

出世欲なし。野心なし。

これといった趣味もない。


毎朝起きて会社へ行き、働いて、帰って寝る。

それをあと二十年ほど繰り返せば定年になる。


――そのはずだった。


この夏、地方にあるグループ会社の課長が辞めることになった。


小さな商社だ。


なぜそこへ私が選ばれたのか、いまだによく分からない。


上司に夕食へ誘われ、


「富樫、ちょっと行ってくれないか」


そんな軽い調子で言われた。


行ってくれないか、じゃない。


課長だ。

責任者だ。


私が?


このまま目立たず定年まで逃げ切れると思っていたのに、突然、いちばん似合わない肩書を渡されてしまった。


赴任先には社員が二十三人。

それにアルバイトの女性が二人。


初日に事務所を見て、少し驚いた。


ファックスが鳴っている。

しかも一台ではない。


商品の注文も棚卸しも、紙、紙、紙。


「メールとか、チャットとか使わないの?」


何気なく聞いてみると、アルバイトの女性がさらりと言った。


「うち、お得意さんが古いところ多いんで。ファックスがメインなんですよね」


「そうなんだ……」


この会社、大丈夫なんだろうか。


いや。


その課長が私なのだから、たぶん大丈夫ではない。


十八時になると、部下の一人が声をかけてきた。


「課長、今日、歓迎会でもどうです?」


課長。


まだ、その呼び方に慣れない。


「ああ、ごめん。まだ引っ越したばかりでね。部屋の片付けをしたいんだ。来週末あたりでどうかな」


「了解です」


私は申し訳なさそうな顔を作って、会社を出た。


もちろん、嘘である。


片付けるほどの荷物はない。

布団、小さな机、食器、冷蔵庫。


それで困ったこともない。


帰り道、スーパーを見つけた。


惣菜売場には、値引きシールを貼られた弁当や揚げ物が並んでいる。


これは助かる。


適当に二つほど籠に入れた。


これなら、この町でも何とか生きていけそうだ。


そう思ったとき、ふと煙草が吸いたくなった。


もう十年近く吸っていない。


なぜ今になって。


引っ越しの段ボールを探ると、昔使っていた灰皿とライターが出てきた。


その下から、小さな紙箱が出てきた。


手が止まる。


――まだ持っていたのか。


私が人生で唯一、「恋愛」と呼べそうなことをした頃のものだった。


相手は取引先の社長令嬢。


何度か飲みに行った。

飯を食った。

くだらないことで笑った。


それだけだ。


それでも、私は彼女が好きだったのだと思う。

向こうも、たぶん。


だが、父親だか社長だか知らないが、偉そうな人間が出てきて、それで終わった。


翌日、自宅のポストに封筒が入っていた。


十万円。


差出人の名前はなかった。


金ってやつだ。


私は笑った。


笑って、その十万円をスーツのポケットへ押し込んだ。


あれから十何年か。


紙箱だけが残った。


会社が借り上げてくれたアパートは古かった。


少し昭和の匂いがする。

私はこういう場所が嫌いではない。


スーパーから戻った頃には、もう十九時近かった。


窓を開ける。


まだ昼間の熱を残した、生ぬるい夏の風が入ってくる。


手すりに軽く腰を預け、古いライターを何度か擦った。


三度目で火がついた。


煙草の先端が赤くなる。


一口吸った。


「……ああ」


懐かしい。


煙と匂いが肺へ入り、そのまま頭の奥まで駆け上がっていく。


十年前の自分が、まだ身体のどこかに残っていたような気がした。


「課長になったって、たいして変わらないよな」


誰に言うでもなく呟いた。


そのときだった。


壁に、染みがあることに気づいた。


窓際の壁。


薄黒い、小さな染み。


雨漏りだろうか。


古いアパートだから仕方ない。


そう思って、しばらく眺めていた。


妙だった。


染みを見ているはずなのに、


こちらが見られているような気がした。


「……なんだよ」


思わず笑った。


人の視線を意識することなんて、いつ以来だろう。


壁の染みに見つめられて笑う四十男。


我ながら末期だ。


「飯食って、寝るか」


小さな風呂に入り、惣菜を食べた。


部屋は1DK。

荷物の少ない私には十分すぎる。


照明を消し、書斎用の小さなライトだけをつけた。


久しぶりに本を開く。


彼女が好きだったシリーズだ。


昔、


「絶対面白いから」


そう言って押しつけてきた。


別れてからも、新刊が出ると時々買っていた。


ページをめくる。


扇風機の風が紙を揺らす。


暑い。


クーラーをつける気にはならなかった。


また煙草が吸いたくなった。


窓を開ける。


火をつける。


ゆっくり煙を吐いた。


そのとき。


――視線。


私は顔を上げた。


壁。


帰宅したとき、染みがあった場所。


「……あれ?」


染みが、濃くなっていた。


気のせいではない。


一時間ほど前には十円玉ほどだったものが、今は掌ほどに広がっている。


しかも、じわじわと輪郭が動いていた。


滲んでいる。


雨なんて降っていない。


「隣か?」


隣人が壁に水でもこぼしたのだろうか。


近づいてみる。


違う。


水ではない。


黒く、粘ついた何か。


表面がわずかに脈打っているようにも見えた。


私は煙草をくわえたまま、それを眺めた。


普通なら管理会社に電話するところだろう。


だが私は、なぜか。


煙草を手に取った。


そして赤く燃えている先端を、染みに押しつけた。


ジュッ。


「いやああああああっ!」


女の声だった。


同時に、足の指から頭のてっぺんまで、雷に撃たれたような衝撃が走った。


「――っ!」


身体が硬直した。


息が止まった。


一瞬だった。


本当に、一瞬。


私は壁から飛び退いた。


心臓が暴れている。


手から煙草が落ちた。


「……なんだ、今の」


壁を見る。


何もない。


黒い染みは消えていた。


ただ一か所。


煙草を押しつけたところだけに、小さな焦げ跡が残っていた。


私はしばらく、それを見つめていた。


四十年以上。


私の人生には、何も起こらなかった。


だから私は、そのときまだ知らなかった。


何も起こらない人生というものが、どれほど幸福なものだったのかを。

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