第73話 帰った人
名前。
向こうから。
来た。
電話。
「富樫さんですか」
年配の女性。
「はい」
「青いノート」
私は。
黙る。
「持っていますね」
「なぜ」
「久世さんという方から」
腹。
少し。
立つ。
久世には。
あとで言う。
女性。
「会いませんか」
自分から。
なら。
会う。
相原澄江。
七十四歳。
郊外。
一戸建て。
庭。
花。
猫。
夫。
健在。
娘。
二人。
孫。
写真。
たくさん。
「幸せそうですね」
言ってから。
余計だった。
と思う。
澄江。
笑う。
「幸せですよ」
即答。
「私は逃げました」
「逃げた?」
「見ることから」
一九九二年。
三崎物産。
経理。
「数字が合わなくなったんです」
「帳簿?」
「いいえ」
澄江。
窓を見る。
「世界の方」
意味。
分からない。
でも。
聞く。
「何があった」
「見えました」
「何が」
「たぶん、向こう」
「たぶん?」
「そう呼ばれていたから」
自分で。
見たものに。
名前をつけたわけではない。
「怖かった?」
「はい」
「だから」
「やめました」
「それだけ?」
「それだけ」
私は。
少し。
拍子抜け。
「止められなかった?」
「河西さんは、もういませんでした」
「森山は」
「残念です、と言いました」
澄江。
笑う。
「腹が立ちました」
「なぜ」
「私の人生でしょう」
その通り。
「その後」
「結婚しました」
「普通に?」
「普通って何です?」
返された。
「そうですね」
「子供を育てて」
「はい」
「夫と喧嘩して」
「はい」
「会社辞めて」
「はい」
「母を看取って」
「はい」
「猫を三匹飼って」
足元。
一匹。
澄江。
「今は二匹です」
「すみません」
「いいんです」
ノート。
私は。
持ってきている。
丸い字。
〈私は帰りました〉
「逃げたって書かなかった」
澄江。
止まる。
「え?」
「帰ったって」
彼女。
長く。
ノートを見る。
「そうでしたね」
「逃げたんじゃない」
私。
「やめたんでしょう」
澄江。
目。
少し。
赤くなる。
「今さら」
「はい」
「知らないおじさんに」
「おじさんは余計」
笑う。
帰り。
庭。
風。
花。
揺れる。
澄江。
玄関。
「富樫さん」
「はい」
「続けるんですか」
私は。
すぐ。
答えない。
「まだ、分かりません」
澄江。
頷く。
「それでいいと思います」
私は。
初めて。
その言葉を。
素直に。
受け取った。




