第50話 分からない人
十九時十三分。
壁。
黒。
水。
ない。
でも。
水の音。
女。
――ここ、どこ?
私は。
壁の前。
立つ。
久世。
ドアの外。
「富樫さん、開けて!」
榊。
「答えるな!」
私は。
少し。
笑った。
二人とも。
うるさい。
女。
もう一度。
――ここ、どこ?
最初に。
この声を聞いた夜。
私は。
煙草を。
壁へ押し付けた。
怖かった。
分からなかった。
だから。
消そうとした。
今。
煙草。
机。
火は。
ついていない。
私は。
壁を見る。
「分からない」
音。
止まる。
ドアの外。
久世。
榊。
静か。
壁。
黒。
その向こう。
女。
顔。
水原佳奈に。
見えた。
若い。
写真のまま。
彼女。
私を見る。
初めて。
目が合う。
「分からない」
私は。
もう一度。
言う。
女。
口。
動く。
――よかった。
「何が」
――やっと。
音。
遠い。
――分からない人が来た。
背中。
冷たい。
「俺を知ってる?」
――知らない。
「俺を呼んだ?」
――呼んでない。
それは。
彼女自身の答えだ。
向こう側全体の。
答えではない。
「ここは、どこ」
女。
少し。
笑う。
――だから。
――分からない。
私は。
笑ってしまった。
「同じか」
女。
頷く。
「帰りたい?」
表情。
変わる。
――どっちへ?
私は。
言葉を失う。
帰る。
どこへ。
一九八八年。
家族。
こちら。
でも。
彼女にとって。
何年。
何十年。
あるいは。
もっと短いのか。
分からない。
向こう。
こちら。
どちらが。
帰る場所。
「河西を知ってる?」
女。
目。
動く。
――知ってる。
「森山」
――知ってる。
「何をした」
女。
答えようとする。
その瞬間。
風。
来た。
原因は。
分からない。
壁。
横。
裂けるように。
黒が。
歪む。
女。
叫ぶ。
――まだ!
私は。
壁へ。
手を伸ばす。
榊。
ドアへ。
体当たり。
開く。
「触るな!」
久世。
その後ろ。
「線を保って!」
「何の線だよ!」
黒。
縮む。
女。
最後。
口。
動く。
――五番目。
私は。
止まる。
「何」
――最後まで。
音。
切れる。
壁。
白。
染み。
消える。
静寂。
榊。
床。
久世。
息。
私。
立つ。
「五番目って言った」
久世。
「聞きました」
「最後まで」
榊。
顔。
上げる。
「何が」
誰も。
分からない。
窓。
風。
戻っている。
カーテン。
揺れる。
私は。
机の煙草を。
箱へ戻した。
「俺」
二人。
見る。
「ヒーローじゃないな」
榊。
「急に何です」
「五番目だし」
久世。
少し。
笑う。
「まだ気にしてる」
「気にするよ」
私は。
壁を見る。
「でも」
五番目。
最後。
残った。
「悪くない」
その夜。
二人が帰ったあと。
私は。
壁の前へ。
座った。
何かを。
手に入れた気がした。
答えではない。
役目でもない。
もっと。
小さい。
自分で。
分からないと言って。
自分で。
答えた。
それだけ。
でも。
四十年。
私が。
一度も。
持っていなかったものだった。
窓。
風。
夏。
私は。
久しぶりに。
本を開いた。
彼女が好きだった。
あのシリーズ。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
その間。
壁は。
ただの壁だった。




