第32話 前任者
前課長の名前は。
松永隆一。
五十三歳。
私は彼と二度しか会っていない。
引き継ぎ。
送別。
それだけ。
退職理由。
家庭の事情。
人事記録にもそうある。
田所へ電話。
「松永さんの連絡先、分かる?」
「個人情報」
「分かる?」
「分かるけど」
「聞いていいか確認して」
二時間後。
松永本人から電話が来た。
「富樫さん?」
明るい声。
「ご無沙汰してます」
「どうです、三崎」
「何とか」
「大変でしょう。古い会社だから」
「少し聞きたいことが」
「仕事?」
「退職のこと」
沈黙。
「何で?」
「ちょっと確認したい」
松永は。
会ってもいいと言った。
*
土曜日。
隣町の喫茶店。
松永は元気だった。
日焼け。
ポロシャツ。
「辞めてから釣りばっかりですよ」
怪異に怯えた人には。
見えない。
「家庭の事情って」
「親父です」
父親が倒れた。
介護。
実家。
会社との両立が難しい。
「今は?」
「施設入ったんで、落ち着きました」
「会社、戻りたい?」
松永は笑った。
「今さらいいですよ」
「辞めるつもり、前からあったんですか」
「いや」
即答。
「全然」
私はコーヒーを置く。
「いつ決めたんです?」
「親父が倒れてから」
「何日?」
松永がスマホを見る。
「六月十四日」
私はメモする。
「その前は?」
「普通ですよ。定年までいると思ってた」
私と同じ。
「三崎で変なこと、なかったですか」
「変なこと?」
「壁の染みとか」
笑われた。
「何それ」
「二〇三」
「部屋?」
「数字」
「知らないなあ」
「河西正臣」
「知らない」
「森山孝一」
「森山さんなら知ってますよ」
私は顔を上げた。
「どんな人」
「本社の人事だった人でしょ」
役職。
また。
三崎物産では。
課長。
本社では。
人事。
「松永さんを三崎へ送ったのは?」
「森山さんだったかな」
「いつ」
「十年以上前ですよ」
「森山さん、そのとき本社?」
「そうだったと思いますけど」
矛盾。
私はメモした。
別れ際。
松永が言った。
「でも不思議ですよね」
「何が」
「俺、辞めるつもりなかったし」
笑う。
「富樫さんも来るつもりなかったでしょう」
「まあ」
「人事って、そんなもんか」
*
外。
風。
少し。
私は会社へ戻り。
自分の人事候補登録日を調べた。
六月十三日。
松永の父親が倒れた。
六月十四日。
私は二つの日付を見た。
もう一度。
六月十三日。
六月十四日。
順番が。
逆だった。
松永が辞める理由ができる前に。
私は。
候補になっていた。




