第30話 わかった
榊から電話が来た。
番号は非通知。
「今日です」
挨拶もない。
「何が」
「三回目」
私は時計を見る。
18:02。
「どこ」
「旧取水施設」
「久世は?」
「来ます」
「知ってるのか」
「彼女が始めます」
電話が切れた。
私は会社を出た。
小野寺が呼ぶ。
「課長、どこへ?」
「ちょっと外」
「戻ります?」
私は。
一瞬。
考えた。
「戻る」
自分で言った。
旧取水施設。
19:01。
榊。
フェンス前。
「遅い」
「まだ十二分ある」
榊が私を見る。
「十三分を信じてるんですか」
「違うの?」
「違います」
また。
「じゃあ何」
「十三分そのものが原因じゃない」 「じゃあ何」
「少なくとも、私はそう考えています」 榊は時計を見た。
「誰かが十三分に合わせている可能性がある」
誰が。
聞く前。
車。
久世。
降りる。
「来たんですね」
「呼んだ?」
「いいえ」
榊。
「嘘はつかないんだな」
「あなたほどでは」
二人。
知っている。
仲がいいわけではない。
「説明」
私が言う。
榊がフェンスの鍵を開ける。
「中で」
「鍵、持ってるじゃないか」
「昔のです」
施設。
コンクリート。
錆。
機械は撤去。
中央。
四角い水槽。
空。
底。
黒い。
「ここで何があった」
榊。
「河西さんが開けようとした」
久世。
「違います」
「何が」
「河西さんは閉じようとした」
二人の証言。
逆。
「森山は?」
榊。
「手伝った」
久世。
「観測した」
「どっちだよ」
「両方です」
久世。
時刻。
19:09。
私は煙草を出す。
榊が止める。
「吸わないで」
久世。
「吸ってください」
私は二人を見る。
「面白いな」
「笑い事じゃない」
榊。
「煙が線を作る」
久世。
「煙が線を見せるだけです」
似ている。
違う。
私は火をつけた。
吸う。
煙。
上。
19:10。
五本。
分かれる。
榊が舌打ち。
久世。
水槽へ近づく。
「富樫さん」
「何」
「見てください」
底。
黒。
濡れている。
水。
ないはず。
19:11。
音。
ザー。
波。
遠い。
女。
――ここ、どこ?
「誰なんだ」
私。
返事。
――ここ。
声。
近い。
榊が私の腕を掴む。
「見るな」
久世。
反対の腕。
「見て」
「どっちだよ」
風。
ない。
完全に。
ない。
19:12。
煙。
五本。
水槽の底へ。
線。
集まる。
黒い面。
鏡。
何か。
映る。
会社。
三崎物産。
古い。
2004年。
河西。
森山。
佐伯。
写真の日。
河西が煙草を持つ。
森山。
向かい。
声。
聞こえる。
録音ではない。
映像でもない。
そこに。
いる。
森山が聞く。
「何を見た」
河西。
「分からない」
「何が聞こえる」
「水」
「分かったか」
私は息を止める。
地下資料庫の黒塗り。
その先。
河西が。
答える。
「わかりました」
普通。
あまりにも。
普通の声。
画面。
変わる。
森山。
別の日。
机203。
誰かが聞く。
「分かったか」
森山。
「わかりました」
変わる。
私。
若い。
本社。
上司。
「これ、やっといて」
私。
「わかりました」
また。
「富樫、客先行ける?」
「わかりました」
「異動、問題ない?」
「わかりました」
「課長、お願いできる?」
「わかりました」
何百回。
何千回。
私の人生。
全部。
わかりました。
「違う」
声が出た。
久世が私を見る。
「何がです?」
「俺は分かってなかった」
水槽。
黒。
私。
映る。
四十年。
いや。
もっと。
何も決めない。
拒まない。
受け入れる。
わかりました。
便利な言葉。
「河西も?」
私。
榊が叫ぶ。
「見るな!」
「森山も?」
久世は答えない。
19:13。
風。
来ない。
私は。
初めて。
風を待った。
来ない。
「何で」
煙。
五本。
一本へ。
黒い面。
広がる。
向こう。
何か。
巨大。
形ではない。
距離でもない。
私を。
見ている。
いや。
違う。
見ていない。
私というものを。
認識していない。
それなのに。
私の記憶だけが。
向こうへ。
開いていく。
母。
父。
会社。
彼女。
十万円。
煙草。
布団。
スーパー。
小野寺。
佐伯。
久世。
全部。
同じ高さ。
同じ重さ。
意味が。
剥がれる。
怖い。
私は後ずさる。
久世。
手。
「大丈夫」
「何が」
「あと少し」
「何が起きる」
「選べます」
「何を」
久世の目。
初めて。
嬉しそうだった。
「こちらを」
榊。
「富樫!」
その声。
遠い。
私は久世を見る。
「君は向こう側?」
「違います」
「じゃあ」
「こちら側です」
「でも開けたい」
「はい」
「なぜ」
「こちらしか知らないまま死ぬのが嫌だから」
人間。
その答えは。
あまりにも。
人間だった。
風。
突然。
吹いた。
水槽の底から。
上へ。
あり得ない方向。
煙。
散る。
黒い面。
揺れる。
榊が私を引く。
久世。
手を伸ばす。
「待って!」
誰に。
私に?
風に?
向こうに?
分からない。
水槽。
黒。
閉じる。
その瞬間。
見えた。
女。
若い。
白い服。
水の向こう。
口。
――ここ、どこ?
そして。
消えた。
静寂。
私は床へ座った。
榊。
息を切らす。
久世。
立ったまま。
怒っている。
風。
弱く。
残る。
「助かった?」
私が聞く。
榊が笑う。
「まだそう思ってるんですか」
「何」
榊は風を見る。
「風を味方だと思ったのか」
久世。
何も言わない。
私は立つ。
時計。
19:16。
十三分は。
過ぎている。
「十三分じゃない」
私。
榊を見る。
「誰かが十三分に合わせてた」
榊。
答えない。
「203も」
久世を見る。
「数字じゃない。選んだ」
久世。
黙る。
「俺も」
自分の胸。
「変えられた、と決めるのはやめる」
仕事。
判断。
言葉。
「もともとあったのかもしれない」
風。
止まる。
完全に。
私は。
水槽を見る。
何もない。
黒いコンクリート。
ただの。
古い施設。
なのに。
一つ。
頭の中で。
何かが。
繋がった。
河西。
森山。
私。
わかりました。
あれは。
理解ではなかった。
服従でもない。
もっと。
簡単な。
扉。
相手が差し出した意味を。
そのまま。
自分の中へ入れる言葉。
だから。
もし。 意味を差し出す何かがあるのなら。 そこは入口になり得る。
向こうなのか。 人間なのか。 久世なのか。 風なのか。
まだ分からない。
私は小さく言った。
「......わかった」
久世だけが。
私を見た。
その瞬間。
風が。
止んだ。




