第28話 隣
旧取水施設へは行かなかった。
事故。
警察。
事情聴取。
それどころではなくなった。
三日後。
久世がアパートへ来た。
二度目。
「麦茶しかない」
「知ってます」
「何で」
「前も麦茶でした」
机。
向かい。
「話して」
私が言った。
「何を?」
「向こう」
久世は黙る。
「少しでいい」
「少しなら」
彼女は壁を見る。
「人間は、分からないものを遠くへ置きたがります」
「宇宙とか?」
「はい」
「でも隣なんだろ」
「そうです」
「何がいる」
「いる、という言い方が正しいか分かりません」
「神?」
「違います」
「怪物?」
「それも人間の言葉です」
「じゃあ何」
久世は考える。
「こちらを、こちらだと思っていないもの」
意味が分からない。
「敵なの?」
久世はすぐには答えなかった。
「私は、敵という言葉では説明できないと思っています」
断定ではなかった。 彼女の見方。 それだけだ。
「味方?」
「それも違います」
「じゃあ何で開ける」
久世は初めて。
答えに迷った。
「知りたいからです」
「君が?」
「私たちが」
私たち。
「誰」
「まだ言えません」
「暗黒秘密結社?」
冗談。
久世は少し笑った。
「そんな名前なら楽ですね」
「榊も?」
笑いが消える。
「昔は」
「今は」
「違います」
「河西」
「近づいた」
「森山」
「近づいた」
「俺」
「近づいている」
「君が近づけてる」
久世は否定しなかった。
「なぜ俺」
「変わったでしょう」
「何が」
「仕事」
「煙草」
「記憶」
「判断」
全部。
私が気づいていたこと。
「向こうの影響?」
「可能性はあります」
「じゃあ俺じゃない」
「何が?」
「課長として仕事できるようになったの」
久世は。
少しだけ。
困った顔をした。
「それを決めるのは、向こうではありません」
「どういう意味」
「能力が与えられたのか」
「うん」
「もともとあったものを、使うようになったのか」
私は黙る。
「違いは大きいです」
「君はどっちだと思う」
「後者」
「なぜ」
「富樫さんは、嫌なことを嫌だと言うようになっただけだから」
私は笑った。
「それだけ?」
「人間には難しいですよ」
窓。
風。
弱い。
久世が見る。
「また来た」
「嫌いなんだな」
「嫌いではありません」
「じゃあ」
「邪魔なんです」
初めて。
はっきり言った。
「何の」
久世は私を見る。
「あなたが自分で選ぶことの」
私は。
風を見る。
見えない。
カーテンだけ。
揺れる。
「風は俺を操ってる?」
「そう見えることがあります」
「君は?」
「私も同じです。富樫さんから見れば」
久世はそこで言葉を切った。
「でも、風に意思があるのか。私たちが意思を読んでいるだけなのか。私は知りません」
「じゃあ同じじゃないか」
「はい」
久世は笑った。
「だから私を信用しないでください」
妙に。
納得した。
私は分類するのをやめた。
敵。 味方。 久世。 風。 向こう。
どの言葉も、今の私には少し早い。
その夜。
久世が帰る前、玄関で靴を履きながら言った。
「富樫さん」 「何」 「今日の話を、答えだと思わないでください」
「君が言ったのに?」 「私が間違っている可能性があります」
ドアが閉まった。
その言い方だけは、妙に信用できた。
久世が帰ったあと。
私は壁を見る。
隣。
壁一枚。
その向こうは。
空室だった。
私は。
初めて。
隣の部屋が空いていることを。
思い出した。




