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第25話 潔白

本社へ行く前日。


久世と食事をした。


調査ではない。


「たまには普通のご飯にしません?」


久世が言った。


駅前の洋食屋。


古い店。


ナポリタン。


ハンバーグ。


私は生姜焼き。


「普通ですね」


「何が」


店内には、仕事帰りらしい夫婦と、学生らしい二人組がいた。

厨房から油の音がする。

隣の席では、子どもがオムライスの旗を欲しがっていた。


久世とこんな場所にいること自体が、少し奇妙だった。

私たちはここ数日、失踪者や消えた記録や、午前二時十三分の話ばかりしている。


それでも腹は減る。 生姜焼きはうまい。

人間は、世界の境界を疑いながらでも夕食を食べられる。


「選ぶもの」


「悪い?」


「いえ」


久世はハンバーグを切る。


「富樫さん、結婚しなかったんですか」


「いきなりだな」


「普通の話です」


私は昔のことを少し話した。


取引先の娘。


飲み会。


仲良くなった。


相手の父親。


十万円。


紙の箱。


「受け取ったんですか」


「ポケットに入れた」


「使った?」


「覚えてない」


「怒らなかった?」


「面倒だった」


久世は笑わなかった。


「富樫さんらしいですね」


「昔の俺な」


「今なら?」


考える。


「分からない」


「それでいいと思います」


彼女のことも聞いた。


出身。


埼玉。


大学。


経済学部。


新卒で本社。


十一年。


父。


母。


兄。


全部。


普通。


翌日。


本社。


私は田所へ久世のことを聞いた。


「久世? 総務の?」


「知ってる?」


「もちろん」


「いつから?」


「入社からじゃない? 新人研修一緒だったかな」


別の総務社員。


知っている。


人事記録。


ある。


社員証。


ある。


給与。


ある。


健康診断。


ある。


過去の社内報。


入社式。


写真。


久世志乃。


二十二歳。


そこにいる。


私は何を疑っていたんだろう。


人事記録の画面を閉じても、少しだけ違和感が残った。

記録が揃いすぎているからではない。 逆だ。 あまりに普通だったからだ。


だが、それを理由に疑えば何でも疑える。 写真があるから怪しい。

写真がないから怪しい。 記録があるから怪しい。 記録がないから怪しい。


それでは調査ではない。 自分が信じたい結論へ、世界を曲げているだけだ。


私は一度、そこで線を引いた。


彼女は。


存在する。


普通の人間。


地下資料庫へ入る前。


私は言った。


「悪かった」


「何がです?」


「疑ってた」


「何を」


「君が本当に本社の人間か」


久世は少し笑った。


「確認できました?」


「できた」


「よかったです」


「怒らない?」


「疑うのは大事ですよ」


地下。


冷たい。


蛍光灯。


金属棚。


事故関連。


2004。


三崎物産。


箱。


あった。


封。


開封記録。


2004年8月12日 森山孝一。


2004年8月16日 本社総務。


そして。


2026年7月29日。


カード番号。


森山孝一。


「先月」


私が言う。


久世は箱を開ける。


中。


事故報告。


写真。


警察照会。


私物一覧。


手帳。


ない。


鍵。


ない。


一枚。


コピー。


〈8月11日 河西正臣 聞取記録〉


時刻。


01:48。


聞取者。


森山孝一。


私は読む。


質問。


〈何を見た〉


回答。


〈分からない〉


質問。


〈何が聞こえる〉


回答。


〈水〉


質問。


〈分かったか〉


その下。


黒く塗られている。


回答が。


見えない。


「原本は?」


「ありません」


久世。


私はコピーを光へ透かす。


紙の繊維が明かりを通す。 黒塗りの部分だけが、妙に重い。


「削った跡じゃないですね」 久世が言う。 「コピーする前に塗った?」

「そう見えます」


つまり、原本を見た誰かは回答を読んだ。

そして、後から読む人間には見せないと決めた。


誰が。 なぜ。


私は黒い長方形を指でなぞった。 触っても、ただのトナーだった。


何も見えない。


そのとき。


地下資料庫の空調が止まった。


静か。


完全な。


無音。


久世が私を見る。


「富樫さん」


「何」


「今日はここまでにしましょう」


「なぜ」


「風がない」


以前も。


風が消えたとき、私は同じことを怖いと思った。


私は。


久世を見る。


「君も怖いんだな」


彼女は答えなかった。


でも。


初めて。


少しだけ。


人間に見えた。


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